トップ・シークレット

夏目海

第1話 闇夜

「わざわざ来させて悪かったわね」


 若い女性マネージャーは、バーカウンターの隣に、エスを座らせた。エスは人気アイドルなだけあり、年齢不相応に高級なブランド服で現れた。


「俺と飲んで大丈夫すか?」とエス。


「もうあなたのマネージャーではない」


 エスはウイスキーを頼んだ。マネージャーはふっと笑った。


 2人は乾杯をした。


「なぜ事務所を辞めたの」とマネージャー。


「言いましたよね。やりたいことがやれないからだ、って」


「ええ。そうね」マネージャーは一口ウイスキーを飲んだ。「あなたは無責任。あのグループにいるあなたが好きだったファンの気持ちは?あなたがいることで、あのグループが好きだった人たちは?あなたと比較して他のメンバーを好きになったファンは?アイドルには大きなお金が動くのよ」


「結局金ですか」とエス。


「もちろんよ。人気って、お金になるって意味よ。でも、もちろんそれだけではない。アイドルは、人の心さえも操る。それに伴う責任は重大。あなたがグループを辞めてから、4人とも大変だったのよ」


「ええ。僕抜きのデビュー曲が再販されて、ミリオンセラーしか取れませんでしたからね」とエス。


 マネージャーは、言うわね、とつぶやくとウイスキーを飲んだ。「ふふ。まぁいい。私はそんなことを言うつもりで、貴方を呼んだわけではない。あなたもわかっているから誘いに応じた。エス、あなた、誰の連絡も返していないのでしょう?」


「エス……。いつまでそう呼ぶんすか。メンバーからの連絡は、今既読をつけました。」とエスは携帯を机の上に置いた。「あなただけですよ。僕が事務所を辞めた後、連絡を一切よこさなかったのは」


「期待していたの?」とマネージャー。


「いいえ。でも連絡はあなたの仕事でしょう」


「私はね、貴方が思っている以上に、傲慢で自分勝手な人間なの」


「マネージャーなのに?」


「私は事務所を辞めた人間を引き止めるほど、本気で仕事なんてしていない。でも個人的には気になっている。あなたがグループをやめてまで、やりたかったことは何か」とマネージャー。


「簡単に僕のトップシークレットを打ち明かすわけには行きませんよ」とエスは笑った。


「お酒を飲めない、と、あなた嘘をついていたわよね。それはトップシークレットではなかったのね」とマネージャーはニヤリと笑った。


「デビュー曲、『トップシークレット』は、ミリオンに行かなかった。僕は悔しかった」とエス。「やはり、グループ名はファンに秘密ということにしたのがまずかった。僕はあの時からあなたのやり方を信頼できなくなりました」


「グループ名は名付けなかったわけではない。トップシークレットにする、そういう戦略だった」


「では、グループ名はなんですか?」


 エスの問いにマネージャーは何も答えなかった。


「ほら、名付けがめんどくさかっただけでしょう」とエスは鼻で笑うとウイスキーを飲んだ。


「あなたは惜しいことをした。グループはもうすぐ化けるはずだった。過去最高の世界的アイドルになれると思っていた」


「嘘だ。日本でしか売れないような売り出し方だった。出演は、日本のテレビや映画ばかり。僕はもっと世界に出たかった」


「あなたの言う、世界って何?」とマネージャー。「あなたの言う、日本って何?私にはわからない。世界中で人気のアイドルって、どこの国?アジア?アフリカ?」


「……」


「そうよね。言えないわよね。だって、あなたのいう世界って、何十万人という大勢の前でライブをすることでしょう?その程度ではだめ」


「じゃあ、何を目指せと」


「そうではない。目標はもっと具体的に段階を踏んで立てないと叶わない。もっと考えろと言っている。自分が求められていることを考えて、考え抜いて、策を立てて、演じる。それがアイドル。貴方の理想と思うものが、本当に人に響くのか。もっと考えないといけない。その点、他のみんなは考えていた。あなたほど実力もセンスもオーラもないことを自覚していたからよ。例えばイー君は、ドラマで主演をいくつも張るようになった」


「奴は、演技が嫌いだった」とエスは怒るようにいった。


「イー君は、ファンの要望に応えていたの。彼は全てのファンレターに目を通していたのよ。シー君は、穏やかで協調性のある性格を生かして、旅番組や教育番組を持つようになった」


「あいつには彼女がいた」とエス。


「知っている」


「ご自分が風邪で倒れた時、シー君のこと、看病に呼び出してましたよね?」


「私の家に、彼女さんと2人で来てくれたのよ。私が別れろと言ったら、あの子はプロポーズをした。そこがシー君の良さよ。アール君は、バラエティで活躍し、各界の大物と繋がっていた」とマネージャー。


「ゴマを擦っているだけだ。実力もないのに可愛がられている。大物になりたいと言う野望だけの人間だ」とエス。


「可愛がられるってアイドルとして大切な要素よ。現に、あの子のゴマスリのおかげで、韓国で冠番組の放送が決まり、韓国からのファンが増えた」


「でも……」


「でも?欧米ではないと意味がない?小さなチャンスをこなしてこそ、大きなチャンスはやってくる。なぜなら、小さなチャンスをモノにできる人には大義があるから。それに、アジア圏だって大きなチャンスよ。あなたは潜在的に、差別をしている。私はそこに大義があるとは思えない。その点ティー君にも大義はなかった。でもティー君は天才だった。芸術的センスに溢れていた」


「でもあいつは……。あれ、あいつのこと何も知らないな。歌とダンスが上手い。実力というより、独特の持って生まれた色気がある……。でも、ティーのことは、それくらいしかわからないな」


「あなたはあなたの役割を演じるために必要な知識を得ようとさえしていなかったのよ。でも、人のこと言えない。私もティー君のことはよく知らない。あの子は、社長が歌舞伎町で拾ってきた子なの。あまりあの子のことを知らない方がいい、と社長は言ったから、私も特に知ろうとしなかった。あなたたちが練習生の時、ティー君が途中加入し、ファンの色が変わった。だからデビューさせた。デビュー後あなたは少しずつ色が変わっていた。そのおかげで、あと少しでグループは化けそうだった」


「色ってなんすか?」とエス。


「私は人の感情が色で見えるの。ティー君加入後のファンの高揚感の上昇が色で見えた。だから売れると踏み、あなたたちをデビューさせた。貴方の赤色が深紅に変わりかけていたことがきっかけで、グループ全体の色と、ファンの色が、共鳴を始めていた。これはすごいグループになる、という確かな感触が私にはあった。なんて、もったいない」


 マネージャーは語気を強めて言うと、ウイスキーを一気に飲み干した。


「ティー君の秘密、一つだけ知っていますよ。あいつは不倫しています」とエス。ファンの既婚者の女性と、連絡先を交換していた」


「あの子の抱えるものは、その程度のことではないと思うわ」とマネージャー。


 マネージャーもエスも、それ以上ティーについて知りたいとは思わないという感情を共有するように、グラスで乾杯をした。


「なぜ色のことを教えてくれなかったのです?」


「教えたら、あなたは、燃えるように頑張れたかしらね?」


「今の俺は何色すか?」


「深紅ね。ファンと共鳴できるかは、これから演じられるか次第。でも、そこはうまくやらないと、それこそティー君のように、自らの世界に入り込んでしまう。だんだん自分が、自分なのか、操られている人間なのかわからなくなってくる。私もそうだった。それがつらいというなら自由にやればいい。人生は短いのだから」マネージャーはウイスキーを飲んだ。「もう一度聞く。あなたは、なぜやめたの?」


「さあ。僕もわからなくなってきました」


 エスはウイスキーを飲んだ。


「僕も一つ聞いていいですか?なんでさっきから、ずっと過去形なんすか?」とエス。


 マネージャーは笑った。


「事務所を辞めたからよ」とマネージャー。


 エスは顔を顰めた。


「俺が事務所を辞めたから?」


「自惚れないで」


「でも、あなたは、業界では、敏腕マネージャーとして名を馳せていた。あなたこそなんでやめたんすか?」


「私、末期癌なのよ」


「……。え?」


 マネージャーはウイスキーを飲んだ。


「え、余命とか……」とエスはなんとか質問を絞り出した。


 マネージャーはふっと笑って答えなかった。


「もっと遊べばよかった。結婚をして、子供を産む、普通の生活をすればよかった。芸能界のマネージャーなんてせずに、好きなことを仕事にすればよかった。まだ私、27歳なのに……」


 エスはウイスキーを一口飲んだ。


「マネージャーの仕事、好きでやってるんだと思っていました」とエス。マネージャーは笑った。


「最期くらい、好きにさせてもらおうと思って、仕事を辞めたの。ビジネスクラスで海外旅行をしたり、有名店のフルコースを食べに行ったり」


「高級ホテルのバーで、アイドルを説教しながら飲んだり?」とエス。


「実は今日はお願いがあって、貴方を呼んだのよ」とマネージャー。マネージャーの顔色の変化にエスの表情も引き締まった。


「これは私のトップシークレット」と言うと、マネージャーはゆっくり手をとめた。緊張感が走った。エスもウイスキーグラスを置いた。


「私、処女なのよ」


 マネージャーは縋るような目で、エスを見た。エスもマネージャーを見つめ返した。2人の間の景色が溶けた。マネージャーには、今自分が何色に見えているんだろう。


 マネージャーは、部屋番号を書いたメモをエスに渡した。


「今日は、ここのスイートを取っているの。無理にとは言わない。一度でいい、恋をしてみたかった。抱いてほしいの」


 グラスの香りが空気に溶け、氷がとけてからりと鳴る音が空間に響いた。


「よく考えて」とマネージャー。「でも来てくれるなら、彼を演じて」


 マネージャーは、部屋付で、とマスターに言って、バーを出て行った。エスは1人残されたまま、マネージャーの後ろ姿を目で追うことしかできなかった。

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