第八話:ペンはロシアよりも強し
「有能な怠け者は司令官に、有能な働き者は参謀にせよ。無能な怠け者は、連絡将校か下級兵士にすべし。無能な働き者は、すぐに銃殺刑に処せ」
――ハンス・フォン・ゼークト
「まだ?」
箭内は、ロシアの小説『戦争と平和』の原書を読んでいた。だが、読んでいるというより眺めているだけで、数十分間、1ページも進んでいない。珍しく眼鏡をかけている。
「もうちょっと待っていただけますか?」
奥内が何度目かわからない切り返しをした。
―5分後―
「まだ?」
箭内の声が奥内の耳に突き刺さった。先ほどから、「まだ?」と催促されている奥内は、現在、資金援助を得るため、宇宙に行くための企画書を作成中である。
「そろそろ、その『まだ?』をやめてもらえますか? 気が散ります」
奥内が横目でキッと睨んで言った。
「わかったわ」
箭内は明後日の方向に目をやる。物悲しい鼻歌を歌っていた。まるでおねだりしすぎて怒られた5歳児のように、口を尖らせている。
だが、そんな平穏もつかの間、5分後に箭内が口を開く。
「できた?」
プチン....と何かが切れる音がした。
「うるさいですよ、箭内さん! あなたはさっきから何をしてるんですか!? 何か調べ物でもしましたか! そもそも、あなたが先導してこの計画を進めてるんですから、ちゃんとやってくださいよ!」
箭内の体はビクッとして垂直に10㎝程浮き上がる。ガタンと椅子に着地すると、その拍子に本が手から滑り落ちた。
「Прости, пожалуйста….」
猫のように背を曲げている。
「『許してね』じゃありませんよ....まったく....それに、その表現じゃあ許しを請われてるみたいじゃないですか....」
箭内は、立ち上がって落ちた本を拾った。それを机の上に置くと、スタスタと奥内の横にやってきた。奥内のノートパソコンを箭内が覗く。すると、二分割された画面には左にドキュメントファイル、右側にはブラウザが表示されている。だが、肝心の左側は真っ白だった。
「全然進んでないじゃない」
「....」
奥内は急に萎んでしまうと、恐る恐る口を開いた。
「....だって、宇宙に行くための企画書ってどうやって書けばいいかわからないんですもん....」
「日本政策金融公庫とかの奴を使えばいんじゃないの?」
”宇宙に行くための”企画書というのが、なかなかに厄介だった。ネット上には大量の企画書のテンプレートが落ちているが、奥内が調べられる範囲ではそんなものはどこにもない。
かといって既存の企画書だと、利益概算や中長期計画など、とてもじゃないが今回の計画に向かないものばかりだった。
よって現状何もできていないのは仕方のないことだった。
「利益とか中長期計画とか、あとは自己資本とか。テンプレートを使ったらスカスカになっちゃいますよ.....。一応、NASAに資金援助してもらうためのガイドブック的なものはありますけど、知らない単語ばっかりで、読んでるうちに卒業しちゃいますよ....」
74ページもあるPDFを指さして彼女が言った。箭内はポカンとした顔をすると、目を細めて読もうとする。しばらくにらめっこした後、口を開いた。
「なに書いてあるかはわからないけど、とにかく目が疲れるのは確かね」
「冗談言ってる場合じゃないですよぉ....」
奥内はわかりやすく頭を抱える。だが、箭内はピンチをチャンスに変える。そんな女だった。
「つまり、中長期計画とか、利益目標とかがあればいいのよね?」
「ま、まあそうですけど....」
自信満々の箭内を、奥内は少し怪訝な顔で見つめた。
「じゃあ、この企画がうまくいったらどのくらいの利益が出るのか? とか、長期的にどういう風にこの技術を使っていくのか? とかを概算して追加したらいいじゃない」
「なぜです?」
「そりゃそうよ。相手だって金を出すんだから、タダで協力するってわけにはいかないでしょ? だったら、お金を儲けられるって話にすれば、商売人は食いつくんじゃない?」
奥内は目を輝かせて声を上げた。
「おぉ!、確かに! それなら、企画書に花も添えられますし、向こうにとってもいい話じゃないですか! それで行きましょう!」
「でしょ! 私もなかなかやるでしょ!」
「早速、書いていきますね!」
奥内は、事業計画書のテンプレートをダウンロードし、画面の左に置くと、穴を埋め始めた。数日間、彼女は重い瞼を引きずって学校に来ていた。
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