第14話 お別れパーティーのビラには致命的な誤植があった。
ある朝、教室に入るとどこか雰囲気が妙だった。
「おっす、松木」
僕はぼん、と自分の机に鞄を置いた。あっちこっちで二、三人が輪を作ってひそひそと話していた。
「どうしたん。皆」
松木は「しっ」と人差し指を口に当てて渋面を作り、親指で後ろを指差した。
教室の隅に、古館の姿があった。
右目の上と左頬が紫色に腫れ上がり、口元に大きな絆創膏を貼っていた。
高本がしきりに話しかけている。
「……せやから何もない、ゆうてるやろ」
古館がうるさそうに言った。
「何もなくて何でそんな顔なんねん? 誰にやられたんや」
「おまえにゆうてどうなんねん。おまえが仕返ししてくれるんか、おお⁉」
高本はぐっ、と黙り込んだ。
「大体お節介なんじゃ、おまえは。――いつもいつも」
古館は席を蹴倒し、教室を出て行こうとした。高本が古館の手首を掴んだ。
「離せや、ぼけ」
「古館。おれらにやれることあったらゆうてくれ」
そのままの姿勢で古館は十秒ほど、何か考えていた。教室は水を打ったように静まり返っていた。
やがて古館は高本の手を振り解き、「暑苦しいんじゃ。おまえらに何ができんねん」と言って、鞄を持って入り口に向かった。僕も松木も、一言も発することができなかった。
「古館! 日曜の練習は来いよ」
僕は古館の背中に向かって言った。古館は無視して教室を後にした。
途端にざわざわ、と教室中が騒ぎはじめた。
僕は自分の無力さを情けなく思った。同時に、この数ヶ月で僕にとって古館がかけがえのない存在になっていることに気付き、少し驚いた。そして、やはり古館には僕達の知っているバンマスとしての頼りがいある顔や人懐こい笑顔以外にもう一つ、誰も踏み込めない暗い側面があるんだな、と思った。
高本はがっくりとうなだれていた。そしてのろのろと古館が蹴倒した椅子を直した。
その週は、古館は一日も学校に現れなかった。
しかし次の日曜日、古館は音楽室に約束時間ぴったりにひょっこりと現れた。
「おっす」
若干腫れの引いた顔で気まずそうに口を尖らせ、何かを振り払うようにてきぱきとドラムセットを組み立てはじめた。
高本が朗らかに声をかけた。
「やっぱり来てくれたな」
すると古館は、「来てくれた? 当たり前や、練習せなあかんねんから。おれがおらなおまえら無理やろ」
と、実に不思議なことを言う奴だとでも言いたげな表情で高本を見た。
そんな古館に、高本は優しく微笑んだ。
「――実はですね皆さん!」それなりに空気を読んだのか、松木が突然突拍子もない声を出した。「卒業生お別れパーティーを一ヵ月後に控えて、こんなものが生徒会執行部から届いたわけですよ」
松木は鞄から大仰な仕草で、ビラの束を出した。ビラのタイトルには、
『卒業生お別れパーティー・プログラム』
とあった。
「おお! 刷り上ったんか」
四人は一斉に歓声を上げた。
「おれらの名前は……おお、載ってる載ってる!」
高本が嬉しそうに読み上げた。「出番は、三組の柴田のしょうもない落語の後や。えーと『疾走するロックンロール! THE TREIN-TREIN』。おお、かっこええ! …………え?」
「…………?」
「…………?」
ビラを見た四人は、ほぼ同時に違和感を覚えた。
おかしい。何かがおかしい。何かが少し損なわれている。どこかほんの少し、ケツの座りが悪い。
もう一度、ビラをよおく見た。穴があくほど、よおおく見た。
そして気付いた。
「あ。………………
「…………………………綴り?」と松木。
「…………うお、おお。ほんまや。綴りが違う!」と高本。
「そうや。トレインは、T・R・A・I・Nや。でもこれは」
T・R・E・I・Nになっている。
TREIN。そんな英単語は英語圏に、いやおそらくこの世界のどこにも存在しない。
「……このキャッチフレーズ、執行部に出したん誰や?」
僕はゆっくり訊ねた。
松木がゆっくり右手をあげた。
前述した通り、松木は英語の成績が極めて悪い。それでもまさか、自分達のバンド名を間違えるほど馬鹿ではないだろう、とタカをくくっていた。しかし極めて残念なことに、松木はこと英語に関しては自分達のバンド名を間違えるほどの馬鹿だったのだ。
高本が松木の首を絞めた。
「絞め殺す‼」
「いやいっそ腹を切れ松木! 介錯はおれが――」
殺気立つ僕と高本を古館がなだめた。
「まあ待てよ。松木、このビラ何枚刷ったんやろ?」
「……三百枚とかゆうてたな」松木は蒼白になって頭を抱えた。「あああ、どうしよう……みんなごめんよぉ。おれの責任や。終わりやぁ……」
「絞め殺す‼」
「いやいっそ割腹や松木! 介錯はおれが――」
「まあまあまあまあ」
がぜん盛り上がる僕と高本を、古館が両手で制した。
「こうしようや。考え方を変えよ。バンド名がTRAIN-TRAINやったらどう考えてもブルーハーツのコピーバンドや。いかにもコピーではロックっぽくないやろ? ここはひとつ、あえて『A』やなくて『E』にすることで既製品に反抗した、っちゅうのはどうや。これってロックっぽくないか?」
――ロックっぽくないか? ロックっぽくないか……っぽくないか……ないかないかないかないかあああ……と、古館の言葉は僕のやんわりした頭の中に反響した。
ロックっぽい。その言葉に僕達はめっぽう弱い。フマキラーをかけられたゴキブリのごとく足腰に力が入らなくなる。
古館の提案した弱点をあえて武器にする、コロンブスの卵的目からウロコアイデアに僕達は脱帽した。なんと頭のきれる男だ。
「それや古館! バンドのコンセプトも固まったやんけ。後はお客さんへのビラの手撒きや。一人ノルマ十枚な。そうと決まったら練習や!」
古館の機転で俄然元気を取り戻した松木に少々イラッとしたが、まあいい。
十枚のビラを手渡されながら僕は、「綴りの間違いを指摘された時の説明、古館みたいにうまくできるやろか……」と考えていた。
古館は松木を見て苦笑していた。
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