第15話 古館はやっぱりすごいやつだった。

 何かに熱中していると、日々はあっという間に過ぎる。

 いつの間にか本番一ヶ月前になっていた。その頃には、僕達の演奏技術もなんとか人前に出せるようになっていたと思う。

 古館の技術はいわずもがなだったし、ドラムの正確さがベースのリズムの乱れもカバーしていたので、リズム隊の安定感はどっしりと頼れるものになっていた。

 それに乗っかるギターも、コードストローク、カッティング、フレージングともにかなり上達していた。かなり自己練習をしているのだろう。ぺけぺけぺけ、などとという音は一切出ないようになっていた。

 僕にも、のどを開いてロングトーンでクリアに歌うべきところ、逆にのどを締めていかにもロックっぽくざらついたがらがら声で歌うべきところ、など自分の中で色々変化をつける余裕が生まれていた。

 それでも古館に言わせると「まだまだ修正すべきところはある」らしい。

 高本の問題点は決まったポイントで必ずもたついてしまうところと、一弦のピッキングだけが極端に弱くてボリュームにばらつきが出てしまう、というところ。

 松木の問題点は弦から指が離れる時にいつも余計な音が鳴ってしまうところ。アンプで音をひずませているので、余計な音は結構目立つ。そして、前述したアルペジオのリズムの乱れ。そしてコーラス。

 僕の問題点は『小声では歌えないところ』だった。ボリュームの強弱をつけることができず、ずっと同じ調子で高らかに歌い上げてしまうのだ。

 これらの所をもう少し意識すればさらに完成度は上がる、と古館は言った。

 僕達は弱点を徹底的に潰すべく、何度も何度も〈リンダ・リンダ〉と〈TRAIN-TRAIN〉だけを練習した。

 練習し、自分達の技術が研ぎ澄まされてゆくのがわかってくると、もう嬉しくて仕方がない。練習は連日遅くまで続いた。



 その日も暗くなるまで僕達は音を合わせていた。

「――おい。時間時間」

 高本が時計を指さした。針は七時十分を指している。肥野先生が音楽室を貸す代わりに僕達に出した条件は「遅くとも七時までには部屋を出ること」だった。

「おっと。やばいやばい」

 僕達は慌てて機材を片づけ、教室を飛び出した。

「先行っといて。すぐ追いかけるわー」

 古館が言いながら鍵を持って職員室へ走った。音楽室の鍵を返却しに行くのだ。

「おお。ゆっくり歩いとくわ」

 僕はのんびりと返事をした。

 僕と松木と高本は三人で校門を出た。

「くそー。もうちょっと練習したなるよなー」と高本。

「うまなってきた証拠やな」と松木。

「新しい曲にもチャレンジしたくなるし」と僕。

 校門を出て、そんな話をしながらドブ川沿いをまだ五十メートルも歩いていなかった。

 腹にどすん、という重い衝撃を感じた。たまらず両膝を地面につく。

 何が起こったのかわからなかった。

 思考するより、ただ絞られるような腹の痛みと嘔吐感にひたすら耐えていた。

 ぎゅっと瞑っていた目をゆっくり開けると、松木が金髪の誰かをぶん殴っているシーンが見えた。金髪はアオチューの制服を着ていた。

 ざっと見てアオチューのメンバーは七人いた。松木はすぐに取り押さえられ、金髪に腹を殴られた。高本は眉毛のない角刈り頭に腕を押さえられ、猛烈にもがいていたがやがて茶髪のオールバックに強烈な頭突きを顔面に入れられ、鼻血をぼとぼと流しながらおとなしくなった。

「痛いな。おいタカチュー!」金髪がくっくっ、と笑った。

「タカチューのショボい不良の皆さーん。聞えてますかー?」

 鼻にでかいピアスをしたやつがおどけた調子で言った。

「――おまえらもたいがいひまやの。まだなんか用あるんか。アオチュー」

 松木が腹の痛みに顔を歪めながらも、金髪から目を離さずにすごんだ。

「山根、呼んでこいや」

 金髪はガムをくちゃくちゃと噛みながら言った。

「山根? ……最近全然学校にも来てへんわ。今日もや。……ってか今何時なんじやと思ってんんねん。おるわけないやろが。お前あほなんか?」

「じゃあおまえら家行け。行って引きずり出してこい」

 オールバックが押し殺した声で言った。

「おまえらが行ったらええやろが。おれらに関係あるか! こっちはおまえらほどひまやないんや、くそが」

 高本が三白眼でオールバックを睨んだ。その瞬間、高本の顔面にオールバックがもう一発頭突きを入れた。

 高本の顔から鮮血がぴっ、と飛んだ。

「おれらあいつの家知らんねん。なあ、呼んで来てくれやあ」鼻ピアスが猫なで声を出した。

「……山根がおまえらに何かしたんか?」

 僕が訊ねた。金髪が僕を見て、実に残念、という顔をしてみせた。

「ゆう必要ないと思うけどな、おれは親切やから教えたるわ。ちょっとだけ貸して、て言われたから原チャリ貸したってんけどな、なんかそれようわからん先輩に勝手に乗り回されたらしくてな、車体、傷だらけや。責任とってもらわなな」

「だから早よ山根呼んでこい」

 高本を羽交い絞めにしている角刈り頭が太い声を出した。

「ふざけんな。住所でも何でも教えたる。だからおまえら勝手に行ったらええやろ。おれらは関係ない」

 言い終わる前に金髪のつま先が僕のみぞおちに刺さった。一瞬、息が止まった。

「墨田!」

「墨田、いけるかっ⁉」

 松木と高本の声が遠くで聞えた。その時の僕の唯一の願いは、同じ場所への第二撃だけはかんべんしてくれ、という情けないものだった。あまりの苦痛に涙が次々に出てきた。

「墨田を殴りやがって――お前らああっ‼」

 松木が吼えた。高本が怒った犬のように歯をむき出していた。

「おーお、美しい友情やないか。おまえら卑怯か、タカチュー? 学校来てへんでもクラスメイトやろ。クラスメイトやったら連帯責任や。山根にも友情見せろや」

 鼻ピアスがにやけながら言った。

 松木がぺっ、と唾を吐き、「笑かっしょんな、何が連帯責任じゃ。おまえらこそ卑怯じゃアオチュー」と言いながら鼻ピアスを睨んだ。

「ほう。何が卑怯なのかなギョロ目君」

 松木は金髪に視線を据えた。

「卑怯やろが。結局おまえらもその先輩とやらには直接なんもでけへんのやろ? それで山根みたいなザコに責任取らせようとしやがって。いちいちせこいんじゃ、やることが。根性あるとこ見せたいんやったらその先輩とこ直接行けや。行ってそいつぶっとばしたらええやないか。なあ、せやろが‼」

「それからおまえらさあ、前から思てたけどいっつも大人数で来るよな? タイマンがよっぽど怖いんやろうなあ、一人やったら喧嘩もようせんのやろが。そんなやつらにな、おれらがどうにかされるとでも思てんか」高本がけけっ、と笑いながら松木の言葉に補足した。「やっぱり卑怯もんはおまえらや、アオチュー」

 静かに聞いていた金髪の顔がさっと青くなり、やがてだんだんと赤くなっていった。頭に血が昇っているのが見て取れた。

「……さっきもゆうたようにな」腹の痛みを堪えながら僕が言った。もう後には退けない。「おれらはひまやないねん。おれらには今、打ち込んでるもんがあんねん。余計なことに関わってられへんのや。そんなことする気になられへんのや。山根にはおまえらが直接当たってくれ」

 金髪の手には、いつの間にか伸縮式の特殊警棒が握られていた。僕はごくりとつばをのんだ。

「たかがタカチューの半端なヤンキーごときが舐めくさって……おまえら、二度と人前に出られへんようなつらにしたろか」

 鼻ピアスがうひょう、と嬉しそうな声を上げた。オールバックが小さく「まじか」と言いながら唇の端で笑った。

 金髪は警棒の先を僕のあごに当て、上を向かせた。

「打ち込んでるもんがあるやと? おまえらみたいなチャラけた奴らがええかっこぬかすなよ。必死で打ち込みさえしたら生まれ変われるとでも思てんのか」

 金髪は含み笑いをして、言葉を続けた。「タカチュー、偉人の名言を教えたるわ。おまえが生きてきた時間がおまえを創ってるんや。どや、ええ言葉やろ。おまえらなあ、今までどんなご立派なことしてきたつもりやねん? 中途半端な不良もどきが、チャラチャラしてただけやろ? 今更何をはじめようとな、おまえらが何でもない奴らやっちゅうことに変わりはないんや。簡単に思い通りにいくと思うな。おまえらはこれからも何も変わらんのじゃ」

 僕の目を真っ正面から見据えて金髪は言った。そして、「何ができるねん。おまえらみたいな中途半端に」

 と吐き捨てるように言いながら警棒のグリップ部分で僕の頬を殴った。自分の歯で口の中がざっくりと切れ、サビのような味が口の中いっぱいに広がった。

 僕は足下に血の混じった唾を吐いた。

「……まあ、確かにな」僕も金髪の目を正面から捉えた。「実はな、おれら今バンドやってんねん。へたくそなパンクバンドや。ただのコピーバンドや。でもな、楽しみながらも必死でやっててわかったんや。音楽にはな、おまえの言うような培った時間とか、存在理由とか、色んな煩わしいもん全部を一瞬でどっか遠くにぶっ飛ばせるパワーがある。つまらん悩みをぶっ飛ばすパワーがあるんや」

 こんなことを話している自分に驚いていた。何を熱いことゆうてるんやろおれは、普段からこんな台詞考えていたわけやないやろ、と第三者的なもう一人の自分が抗議していたが、この際そいつの意見は無視することにした。

「それに気付いてから、おれらは音楽が前より好きになった。音楽を聴いてた頃より好きになった。これからもっと好きになっていくやろう。……確かに、おれらみたいな半端もんには何も変えられへんかも知れん。生きてきた時間が自分なんかも知れん。でもおれはな、それすら一瞬で変えられるパワーを持ってるのが人間や、とも思うぞ? 音楽にはな、自分を変えてくれる力がある、っておれらは信じてるんや」

 僕は一気にまくしたてた。息が荒く乱れていた。「……だから、まあそういうことや。おれらは毎日を楽しんでる真っ最中や。おまえらの相手をしてるひまはない」

 金髪の表情は、今にも噴火しそうな火山を思わせた。

「……そうかそうか。クソ寒い演説どうもありがとうなあ。カスどもの立派なお考えはようわかった。ほなら顔、ぐっちゃぐちゃにしたるわ」

 金髪は目を真ん丸く開き、ぽつりと言った。

「うっさいわ‼」

「やれるもんやったらやってみろ、こらあ‼」

 松木が吼えた。高本が怒鳴った。

 金髪が松木に向かって一歩踏み出した瞬間だった。

 ごっ、と腹に堪える鈍い音がして、金髪の体が真横にぶれた。

 そのまま金髪は横へ何歩か歩き、高さが腰の下くらいまでしかないフェンスにぶつかって向こう側へ倒れて転げ、派手な音を立ててドブ川へ落ちた。

 僕は顔を上げた。

 目の前に立っているのが古館であることをはっきりと認識する前に、古館の右の拳は風を切って飛び、高本の後ろにいる角刈り頭の顔面にめり込んた。

「がっ」

 妙な声とともに角刈り頭は血とともに折れた歯を何本も吐き出し、高本から手を離して口を押さえ、その場に膝をついた。指の隙間から鼻血がぼとぼと、と流れ落ちた。

 松木を押さえていたにきびだらけのロン毛が「ひっ」と一声鳴いて松木から離れた。

 オールバックがいぶかしげに眉間に皺を寄せた。

「おまえ……」

 近づこうとしたオールバックのみぞおちに、古館は強烈な膝蹴りを叩き込んだ。

「げ」

 オールバックはたまらず腹を押さえて両膝をつき、地面に大量のへどを吐き散らかした。古館はさらにオールバックの両耳を力いっぱい掴み、鼻面にもう一発膝を入れた。二発、三発、四発と蹴り続けた。鼻血が飛び散り、オールバックの顔は妙な形に歪んだ。

 古館は凶悪な目つきで、鼻ピアスを睨んだ。

 鼻ピアスをはじめとした残りのアオチューメンバーは全員蒼白になっており、とっくに戦意を喪失していた。

「遅なった。ごめん。……ほんまにごめん」古館が呟くように言った。その声は、いつも僕達が学校や練習の時に聞いているものとはまるで違っていた。低く押し殺された声だった。

「どうせ山根がらみかい。……アオチュー、こっち襲ってる時間あったらおまえらが直接どないかせえ。一応金玉ついてんやろ、おまえら」

「……おまえ……」

 オールバックが苦しそうに喘ぎながら古館を見た。オールバックの目からも戦意は消えていた。

「おまえ……古館さんの弟か? あの――」

 古館は鼻ピアスから目を離さなかった。

「兄貴? 兄貴なんか今関係あらへんやろ。何や、おれにバックがおらんかったらおまえ、おれに勝てるとでも言いたいんかい、おおこら!」

「……いや……」

 オールバックは首を振った。鼻血が左右に飛び散った。

「おれら四人は山根やらその先輩やらとは何も関係持ってないんじゃ。これ以上絡んでも何も出えへんぞ。だからもうかまうな。これ以上絡みたいんやったらな――」古館は蒼白になっている鼻ピアスの胸ぐらを両手でぎゅっと掴み、がくがくと揺すった。「おれがとことん相手なったんぞ。おまえももっと男前にしたろか」

 鼻ピアスはひっ、と小さく悲鳴を上げた。がたがた震えていた。

 地面からゆっくりと三十センチほど持ち上げられたあと、鼻ピアスは突然地面に投げ捨てられた。尻餅をつき、ぎゃっと悲鳴を上げた。

「帰れ。二度と来んな」

 古館が鋭く言った。

 するとアオチューどもは呪縛から解き放たれたように我先と走り出した。

「おい。ドブの金髪も連れて帰れよ」

 古館がぶっきらぼうに、彼らの背中に声をかけた。




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