第13話 担任の教師もまたクセモノだった。

 数日が経過した。

 こつこつと続けている自己練習の成果が現れてきているのだろう、僕達の演奏技術は目に見えて上達していた。音楽として形を成してきていた。

 僕ののどもよく開くようになってきた。しかし、どちらの曲も要所要所で甲本ヒロトのようにあえてのどを締めてがらがら声で歌わなければさまにならないところがあるので、そこのところは特に注意して練習した。〈リンダ・リンダ〉は、『うーつーくしさーがあーるーかーらー』の後の『リンダリンダー!』とがなるところで、少しヴォーカルの勢いがありすぎて走ってしまい、リズム隊やボリュームとのバランスが悪いので少しだけ押さえる必要がある、と古館に指摘された。しかしコードも単純で複雑なフレーズもないし、ギターパートもベースパートも難易度は低い。丁寧に演奏すれば本物に結構近くなるので、これはビギナーの練習曲としては最適だ。僕としても歌いやすい曲だった。

 それでも、



 愛じゃなくても 恋じゃなくても

 君を離しはしない

 決して負けない強い力を

 僕は一つだけ持つ



 というところでどうしても感情が入りすぎてぐっときてしまい、ここを歌い上げるのには往生した。

〈TRAIN-TRAIN〉は鍵盤のパートをどうするか、という問題があった。イントロと二番の後の間奏部分で流れるピアノの旋律の美しい雰囲気を、ヴォーカル・ギター・ベース・ドラムという編成のバンドでどう出すか? とりあえずギターのアルペジオ(コードを一弦ずつばらばらに弾くこと)でピアノフレーズの代用とすることに決定したのだが、そこのピッキングのリズムに乱れが目立った。そこはヴォーカルもがなるところではないので、ギターのアルペジオにどうしても耳がいく。ギターで聴かせるところなのだ。松木の集中力に僕達は賭けた。

 その他の問題はコーラスの部分だ。高本の致命的な音痴は問題外であるが、松木もさほど歌がうまいとはいえなかった。というよりも下手だった。メロディーを追う、というよりは喋っている、という感じだった。『ドーレーミーファーソーラーシードー』を歌わせると極端な話、『ドードードードードードードードー』となる。これにも古館は青くなったが、本家ブルーハーツもギタリストのマーシーがコーラスをしているので、ここも松木にがんばってもらうことにした。もちろんそんな状態の松木に主旋律の三度上をハモるなどという器用な真似ができるわけもなく、もっぱら主旋律をがーがーとがなるだけのコーラスにはなってしまうのだけれど。本当にやばいところは、古館に後ろから大声でカバーしてもらうことにした。

 とはいえ、〈リンダ・リンダ〉と〈TRAIN-TRAIN〉を通しで合わせてみたら、感触としては決して悪くはない。

「よおし、ええぞええぞ」

 僕はすっかり嬉しくなった。

「リズム隊もすっかり安定したよな」

 松木は高本と古館を見て微笑んだ。

 松木は翌日の火曜日の練習から、宣言通り古館に妙な遺恨をまったく残さず、ごく自然に振舞った。その様子を見て高本も古館も、ああこの恋は実らずに終わったのだな、と静かに理解したようだった。そのことについて彼らは松木に何も聞かなかった。

「よし、ここらで一発」古館がにやり、と笑った。「――録ってみよか」

 僕達三人はフリーズした。

「え……録るの?」

「……早やない?」

「自分達の音を客観的に聞くのが、一番の練習になんねん」

 古館はきっぱりと言った。

「……うーん……やってみるか?」

「……やってみようか」

「とりあえず〈TRAIN-TRAIN〉の方が形になってるから、そっちだけでもやるか」

 高本と松木は頷いた。

 音楽室なので録音機材は充実している。吹奏楽部の古館は勝手知ったる我が家のようにてきぱきと、音楽室の壁面に収納されてある録音機材の電源を入れたりテープをセットしたりイコライザーを動かしたりして、手際よく録音の準備を整えた。

「じゃあ準備ええか? 松木、高本、チューニング大丈夫やな?」

「ちょっと待った」

「……うん、OK」

「ヴォーカルもいけるか? スイッチ入れるぞ?」

「おお? おお」

 古館のゴリ押し的な勢いに、三人は頷くしかなかった。

 古館は慎重に『REC』のスイッチを押して、音を立てないように静かにドラムセットに駆け寄った。そして一つ咳払いをした。

「……えーそれでは、トレイン・トレイン初のレコーディングを行います。曲は……曲も〈TRAIN-TRAIN〉や」

 ワン、ツー、スリー、フォーという古館のカウント。

 この声を聞くと、何故だろう、とても安心する。

 僕は歌い出した。



 わがクラスの担任・松井先生も、

「そうかー、うちのクラスからの参加者も練習をがんばっているのか」

 と、トレイン・トレインの活動を喜んでくれた。そして、

「やるからには真剣にやれよ。期待してるからな」

 と言いながら僕の背中をぼん、と強く叩いた。むせ返りそうになるほどの力だった。

 松井先生は校内のちょっとした名物教師かつクセモノで、現代国語で教鞭をとっていた。

 俳優の山下真司のような風貌で、当時すでに六十歳近かったはずだが、年齢をまったく感じさせない『元気で頑固なじいちゃん』だった。

 昭和初期の文学に明るく、中でも太宰治が大好きだ。大宰の話になると完全にスイッチが入ってしまい、口角泡を飛ばしながら、中学生には到底理解不可能な難解極まりない文学論を大声で熱弁する。

 生真面目で仕事熱心、曲がったことが大嫌い。当然、僕達のようなちょっとした不良生徒を廊下などで見るにつけ目の色を変え、

「おまえ達は人生において大きな損失をしている。かの文豪は青春という言葉についてこう語っている……」

 といった内容のお説教をたっぷり二十分は続けた。

 休み時間が終わろうが次の授業がはじまろうがおかまいなしだ。授業がはじまっているのに席についていない生徒は、大抵どこかで松井先生につかまっている。

 次の授業を受け持っている教師が困惑しつつ現れ、

「あのう松井先生、僕の授業がはじまってもう十五分が過ぎているんですけど……」

 などと進言しようものなら、

「そんなことはこの際一切問題ではないのである!」

 と、窓ガラスにびしりと亀裂が入らんばかりの大声で一喝する始末。まことに不条理で燃え立つように熱い。

 先生は健啖家でもあった。毎日持参してくる愛妻弁当は、厚さ十センチはあろうかというアルマイト製の昔懐かしいドカベンで、そこには毎日二合のご飯と大量のおかずがみっちりと隙間なく詰められていた。晩酌では毎日必ず七合は呑むと豪語していたし、酒呑みなのに甘いものにも目がなかった。

 特にかき氷にご執心だったようで、夏はもちろん真冬にも食べていた。石油ストーブが真っ赤に燃え狂う暑い職員室で、メロン味だかソーダ味だかのカップかき氷に舌鼓をうっている姿を何べんも見た。

「先生が君らくらいの頃にはなぁ、墓石とかの上にこんもり丸く積もった雪をそっくり持って帰って黒蜜かけてさくさく食べたもんだ」

 授業中、先生はたまにそんな昔話をしてくれた。授業の脱線を心静かに待っている僕達は、

「雪っておいしいんですか。なんか汚くて、体に悪そうに思えるけど」

 などといった、先生が続きを話したくなるような絶妙な合の手を入れる。

「いや、当時は今ほど空気が汚れていなかったからな。しかも僕は岡山の田舎から出てきてるだろ? 岡山の田舎に降る雪だ、きれいなもんだよ。大阪に降る雪なんか、スモッグのせいで少し灰色がかってるもんなあ。あれでは食べる気が起こらないよ」

 そこで先生は遠い目をして、「それでも、積もるくらい雪が降った時はビニール袋を持って散歩に出てな。つい少しだけ持って帰って食べてしまうことがあるよ。子供の頃を思い出してね。でもやっぱり大阪の雪はひどい味だ。君らも一度試してみるといい」と続けた。

「でも先生、大阪では最近はめったに積もらないですよ」

 脱線の延長を誰よりも望む松木が無理やり口を挟んだ。

「いや、予報では来週末に寒波が来ると言っていたよ。――よし、そんなら次に積もるくらい降った時、みんなで食べてみるか。校庭のきれいな場所に積もった雪なら大丈夫だ。メロンのシロップをかけるときっと旨いぞぉ。とにかく二年四組のみんなは雪が降ったら放課後、グラウンドに集合だ。各自家からお皿とスプーンを忘れず持ってくるように。シロップは先生が用意するので心配はいらないよ!」

 先生は自分のアイデアにしだいに興奮しはじめ、きらきらした目でやや陶然としながらまくし立てた。

 火をつけたのは僕達の方だとはいえ、先生の子供っぽい提案にややうんざりし、なんで学校終わってまで集まらなあかんねん……放課後は自分の時間に使いたいわ……というムードが漂った。しかし、そもそも自分達のよこしまな考えが招いたことなのでいやともいえず曖昧に相づちを打った。何かちょっと面倒なことになったな、と僕も思った。



 松井先生が亡くなったのは、ある寒さが厳しい朝だった。

 登校するなり突然アナウンスで全校生徒が体育館に呼ばれた。

 何事かいな、と僕達がぞろぞろと体育館に集合すると、壇上には校長が暗い顔をして突っ立っていた。

「皆さん、お早うございます。実は今日、皆さんに悲しいお知らせがあります……」

 校長は暗い顔のままで話しはじめた。

 僕と松木は内心びくびくしていた。つい先日、掃除時間に松木と教室で『オビワン・ケノービ対ダースベイダー』という設定でチャンバラをしていて、教室の後ろのドアの鍵をほうきの柄でぶっ叩いて壊してしまっていたのである。

「よもや、あれがバレたのでは……そして全校生徒の前で見せしめ的にその話をされるのでは――」

 と思ったのだ。

 ところが校長はそんな話には一切触れなかった。

 かわりに松井先生の訃報を壇上から告げた。

 あまりの話に館内が騒然となった。早くもあちこちからすすり泣く声が聞こえた。

 校長いわく、死因は急性の脳梗塞。松井先生は二日間職員室に泊まり込んで仕事をしていたらしい。

 早朝、新任の数学教師が出勤した時には、先生は冷えきった職員室で机につっぷして冷たくなっていたという。すぐに病院に運ばれたが時すでに遅し、だった。

 先生が顔をうずめていた机の上には、近隣のあらゆる高校の願書や学校案内パンフレット、そして高校受験に関する本が山と積まれていた。その資料の山の隙間で微睡まどろむような安らかな顔で目を閉じていた、だから最初は眠っているだけだと思ったのだ、とその新任の教師は涙声で言った。

 生真面目で仕事熱心、曲がったことが大嫌いなクセモノ松井先生がこの世を去るほんの一瞬前まで考えていたのは、教え子達の高校受験のことだった。

 周囲のすすり泣きは嗚咽に変わった。

 隣を見ると、高本が妙な具合に顔を歪めて泣いていた。

 しかし僕の視界もやたらと霞んでいて、高本のくしゃくしゃな泣き顔はぼんやりとしか見えなかった。

 とりあえず我が二年四組の担任は未定で、当座は手の空いた教師が順繰りで受け持つことになるだろう、と校長は続けた。

 僕はその話をどこか遠い国のニュース映像を見るようにふわりと聞き流していた。

 その日はもう一時間ごとに来る先生がみんな泣いていて、授業どころではなかった。火曜日だったのだが、バンドの練習も今日はやめよう、ということになって放課後僕はどこへも寄らずにまっすぐ家に帰った。家への道をとぼとぼと歩きながら僕は、ガラスに亀裂が入るほどの松井先生の大声を脳裏に描いていた。

 あれくらいの声量はヴォーカルとして理想的なんやなあ、などと一方的に納得しながら。



 その夜。奇跡のような出来事が起こった。

 町に大粒の雪が降ったのだ。

 積もるほどの量ではなかったが、大阪に生まれ育った僕達には驚嘆に値する、呆れるくらい大粒の雪だった。

 雪を食べることにこだわっていた先生の死を、大阪の夜空が悼んでいるようだった。

 窓から外を見つつ、あと一日早ければな、「先生、やっぱり大阪の雪はメロンのシロップつけてもまずいですよぉ」なんて話ができたのにな、などとくだらないことを考え、僕はこっそり涙を流した。

 アスファルトがようやくうっすら白く染まりはじめた頃、雪はやんだ。

 降り出した時と同じように、まったく唐突に。



 翌日、空は真っ青に晴れていた。

 アスファルトには昨夜降った雪など微塵にも残っていなかった。

 やっぱりあれは幻やったんやろか。そんなことを考えながら学校までの道を歩いていた。

「おっす、墨田」

 後ろから背中を鞄でぼん、と叩かれた。松木だ。

「おす、松木」

「寒いな」

「おお」

「昨日の夜おまえ、来んかったやろ?」

 松木はぶらぶら歩きながら言った。

「来んかった? どこに?」

「グラウンドやグラウンド。来んかったやろ」

「何で夜にグラウンドなんか行かなあかんねん」

「松井先生との約束、あったやろが」

「……あ!」

 瞬時に思い出した。

 積もるぐらい雪が降った時、グラウンドに集合と先生に言われていたことを。

「忘れてた。松木。おまえ、行ってたんか?」

「行ってた」

「ほんまか」

 僕は松木の素直さに驚いた。

「……うん。行ってた。降り出してすぐに、家からダッシュで行った」

 松木は僕の視線を避けるように俯いた。明らかに照れていた。

「食べようと思ったんか? 雪」

「そうや。食べようと思った。……内緒やで」

 松木は険しい顔をしながらも、幼児のように人さし指を一本口の前に立てて言った。

「あほやなあ、おまえ。行っても先生はおらんのやぞ」

「まあ……そうやけど。自分でもあほらしいと思う」

「他に誰か来てたんか?」

「いいや、誰も来てなかった。おれ一人や。薄情なクラスメイトやで」

 僕はぷっ、と吹き出した。「ヤンキーのコントみたいにいかつい学ラン着て、おまえ一人だけぽつんとおったんか」

「おれ一人や」

「ほんまにあほやなあ、おまえ」

 僕は茶化した。茶化さないと、胸の奥から熱いものが込み上げてきそうだったのだ。

 つい松木から目をそらすと、ガードレールの影になっているところにほんの一欠片だけ雪が残っているのが目に入った。

 僕はそれをつまみ上げ、おどけたふりをして口に放り込んだ。

 少し灰色がかった大阪の雪は、スモッグの香りがした。



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