第12話 ときには中学生らしくピュアな恋もした。

 話はまた思い切り変わるが、〈ラブレター〉というタイトルの名曲、日本にはまっこと多い。

 歌っている人達も錚々たる面子だ。美空ひばり、THE ALFEE、槇原敬之など。新しいところではGackt、大塚愛、BoA、河口恭吾といったところか。

 われらが指標、ブルーハーツの数ある名曲の中にも〈ラブレター〉というバラードナンバーがある。

 ちょうどこの頃、一九八八年の十一月にリリースされたアルバム〈TRAIN-TRAIN〉の八曲目に入っている。

 こんなフレーズで〈ラブレター〉ははじまる。



 本当ならば今頃 僕のベッドには

 あなたが あなたが

 あなたがいてほしい

 今度生まれた時には 約束しよう

 誰にも邪魔させない

 二人のことを



 何度聞いても泣かせる。時代を超越した名曲だ。

 こんなにドラマチックに完成された恋の歌を我がことのように立派に歌えるほどの恋愛経験など当時の僕達にはなかったが、それでも松木はこの頃ほのかな恋心を抱いていたのだ。

 同じクラスに悦居洋子えついようこという女の子がいた。もう名字も変わっていることだろう。身長が低く、怒っているわけでもないのだろうけど、いつもちょっとムッとしたような顔をしていて、それでも笑うととてもキュートな顔になる、そんな女の子だった。演劇部に在籍していた。

 僕はあの子なかなか可愛いな、なあ松木、などと二年で同じクラスになった時にすぐ松木に言ったのだが、

「そうか? 好みやないわ。おれはスレンダー美人系がええ」

 と興味なさそうに話にきりをつけた。

「ふーん」

 と僕は思った。

 しかしだ。

 そんな松木の価値観をひっくり返す出来事があった。

 クラス対抗の弁論大会の時だ。悦居洋子の書いた弁論用原稿の内容が素晴らしい、ということで、悦居がクラス代表として全校生徒の前で弁論することになったのだ。

 僕は人前で弁論するなどということには一切興味が無かったので『将来について』みたいな適当なテーマを選んでいい加減に原稿用紙のマス目を埋め、予想通りあっさりとクラス代表の選にもれた。

 悦居も別に人前で弁論したい! とは思っていなかっただろうが、実に真面目に、正面からこの弁論大会に挑んだ。

 彼女には、生まれつき両足の不自由な妹がいた。一歳年下のこの妹は車いすで学校に通っていた。悦居は、妹がいかにひた向きに前向きにこの不自由な両足と付き合ってきたか、そのことでこれまでどんなひどいいじめや、生ぬるい偽善の臭いがぷんぷんする偽物のいたわりに遭遇してきたか、そしてそれらの苦境と果敢に戦い、なお笑顔で明るく自分と接する妹をどれだけ大切に思っているか、愛しているかというような内容の話を三十分間、涙を流しながら壇上から熱く熱く、語りに語った。

 それを聞いた僕は適当にこのイベントに挑んだ自分が恥ずかしくなり、

「悦居とはやはりこんなにも立派な女だった。我が目に狂いはなかった」

 といった感じで何故かどうだ! と威張りぎみで松木の顔を見たが、松木はすでに熱に浮かされたようなぼうっとした顔で壇上を見ていた。松木のそんな顔を見るのははじめてだった。

「墨田よ。おれ、好きになってもうたかもしれん」

 その日の帰り道、いつものドブ川沿いを歩いていると、早速松木が話しかけてきた。

「悦居か」

「うん」

「ええ話やったな、弁論大会の」

「ええ話やった。おまえ、普通言えるか? あの場であの話」

「いや言えん。たいしたやつやな」

「これでもうおれの青春のベクトルは定まった。悦居や」

「バンドちゃうんか」

「それとこれとは別や。おれは悦居と付き合うことを目標とする」

「本気か」

「本気や。恋人になる。この目を見てみい」

 と言った松木の目尻には黄緑色の目やにがべとりと付着していたが、瞳そのものはきらきらと輝いていた。

 こいつ、恋をしている。しかも察するに、初恋のようだ。

 それからの松木の行動は外資系企業に勤めるビジネスパーソンのように鋭く速かった。

 次の日曜日に早速ラブレターを書き、デートの申し込みをしたのだ。

 場所は神戸ポートピアランド。アミューズメントパークなどという言葉がまだ存在しない時代の、地元色の強い、昔ながらのかわいらしい遊園地だ。二〇〇六年の三月に惜しまれつつ閉園した。

 前日の土曜日、松木は僕達バンドメンバーに手を合わせ、明日の練習にはどうしても出られない、と告げた。古館はちょっと渋い顔をしたが、事情を聞き、まあ松木の初恋を実らせるためならばしょうがない、と承知した。

 かくして次の日曜日は各々自宅練習ということになり、松木の人生初のデートは決行されることとなった。

 決まりごとのように、僕はデート前日であろうが土曜は松木の部屋に行く。

 しかしその日の、松木の落ち着きのなさといったらひどかった。朝から二度吐いたらしく、顔色は宇宙戦艦ヤマトのデスラーさながらだった。箱買いしてある缶コーヒーをやたらとぱきぱき開けてぐびぐび飲み、

「あー、あっあっ! えへんえんえん」

 と、発声練習みたいなことをしばしばしていた。そして爪のにおいをくんくん嗅ぎ、鼻毛のチェックをし、たんすから何枚もシャツを取り出しては、

「このジーパンやったらどっちが合う?」

 と、都合四・五回は僕に選択を迫った。僕はその都度、

「こっちのストライプの方が清潔な印象与えるんちゃうか?」

 とか、

「こっちの胸元が開いてる方がロックっぽくてええんちゃうか?」

 と返事していたが、それもだんだん面倒くさくなり、最終的には、

「大切なのは個性や。良く見せる、ということより等身大の自分を見せるにはどうしたらいいか、ということをよく考えなさい」

 などと適当なことを言って茶を濁した。

 その時、電話が鳴った。

 その途端、松木の顔にさああああ、と見事な鳥肌が立った。ほお、えらいもんで鳥肌っちゅうもんは顔にも立つんやな、と僕は妙なことに感心した。

 松木は顔中に鳥肌を立てたまま無言で電話のある部屋に行った。ぼそぼそと何事か話している。そしてものの一分ほどでかちゃり、と受話器は置かれ、松木はしおしおと部屋に戻ってきた。

「悦居からか」

「そうや。集合時間の、最終確認や」

 松木はインクジェット紙のような顔色をしていた。

「律儀、っちゅうか真面目やな、悦居は」

「……おう、そういうところも魅力や」

「おまえ、一週間も経たんとすでにぞっこんやな」

「恋に落ちるのに時間は関係あらへん」

「そらま、そうかもしらんけど」

「来た。限界や」

「何が?」

「限界や」

 松木は突然立ち上がると、ゆっくりと便所へ行った。ほどなく、「うぉえ。おほえ」という声が便所から聞こえた。極度の緊張からまたしても吐き気をもよおしたらしい。

 他人事ながら僕は不安になったが、嘔吐するほどの緊張感を持って初デートに挑もうとする松木を少し愛おしく思った。

 便所から出てきた松木の顔色は十割そばのそれだった。そして座布団の上にどっかと座ると、本日四本目の缶コーヒーを開けた。

「もう飲みすぎやって」

「飲まなやってられんのや」

 まるで居酒屋のおやじと常連客の会話である。

 そして濃い缶コーヒーに胃の粘膜をやられ、松木はそのあと二回便所に駆け込み、吐いた。そして最悪の体調と顔色で日曜のデートに挑んだのだった。



 次の月曜日、六時間目が終わるとすぐに、

「墨田、帰ろうや」

 と松木が声をかけてきた。とても落ち着いた様子だった。

「昨日の報告か」

「まあな」

「待ってたでぇ」

 僕はにやにやしながらいそいそと帰り支度をした。

 僕と松木はロック談義や、ベビーカーを押す若奥様達がドン引きするような切れ味抜群の猥談やバカ話をしながら、当時の溜まり場の一つであった五丁目のグラウンドへ行った。とりあえず高本にも古館にも声をかけず、僕だけを呼び出してくれたことが少し嬉しく、そういうシャイなところもいかにも松木らしかった。

 僕達はグラウンド全体が見渡せるベンチに並んで腰を下ろした。

 グラウンドには誰もいない。陽は早くも傾きかけ、少し冷たい風が吹いていた。

「で。どうやってん」

「何が」

「何がやないやろ。昨日のデートや。松木君の初恋の、初デートの話や」

「ああ、その話か」

「もう、わかってるくせにぃ。めんどくさいな」

「南千里の駅で待ち合わせた」

「うんうん」

「行く途中は、バンドやってるらしいやん、みたいな話になって」

「うんうん」

「墨田と高本と古館と、四人でやってるってゆった」

「それで」

「どんな音楽やってるの、って聞かれて……おれもどんな音楽聴いてんの、って聞いて……おれがギターやってる、ってゆって……」

 僕はじりじりした。

「遊園地着いてすぐに地元のヤンキーに喧嘩売られそうになって……今日はまずいと思って目ぇ逸らして、そのままジェットコースター乗って……コーヒーカップ乗って……バイキング乗ったあとでおれの目が回って気分悪くなって、観覧車乗った。そのあとソフトクリーム食べた」

「あのな、シリアルキラーのプロファイルしてるんやないねん。途中経過も些末な部分も大事やけどな、肝心な部分を話してくれるか。悪いけどな」

「……肝心な部分?」

「そう。肝心な部分」

 松木はふうっ、とため息をついた。「夕方、悦居の家まで送って行った」

「おお! それで」

「その前に、家の近くの公園に行った」

「うんうん」

「そこで告白した」

「おお! したか」

「うん。したわ」

 そこで松木はいつもの特徴ある動きでぱき、と缶コーヒーを開けた。僕もつられて握り締めていた缶コーヒーを開けてぐび、と一口飲んだ。

 僕は松木の言葉を待った。

「ごめんなさい、て」

「…………え?」

「ごめんなさい、て言われてん。あやまられたわ」

「…………」

「フラれてん、おれ」

「…………そうか。フラれたか。……わはは」

「そう。フラれたわ。わはは」

 辺りはうっすらと暗くなりはじめていた。わああ、と子供達のはしゃぐ声が遠くから聞えた。

「他にな、好きな人がおるんやて」

 松木はしみじみ、という感じの口調で言った。

「……へえ。誰か聞いたか?」

「うん。聞いた」

 松木はぐび、とコーヒーを飲んだ。少し間を開けて、「古館」と早口に言った。

「古館⁉」

「そう、古館。悦居洋子は、古館が好きなんやって」

 僕はとっさに、この場に最適な言葉を探した。でも案の定、最適な言葉など見つかるわけがなかった。

「…………古館? 古館のことが好きって、そんな…………」

 精一杯搾り出したのがその言葉だった。

 語彙力が欲しい、と思った。この時ほど、僕は自身のボキャブラリーの貧困さを呪ったことはない。

「むごい話やろ? うちのバンマスのことが好きやねんて。昔からずっと」

 松木は自嘲的に笑った。そしてぼんやりとした口調で、「あいつ、かっこええからなあ」と呟いた。

「……悦居は本気のヤンキーが好きなんか」

「さあ、どうなんやろな。おれらは古館のかっこええとこ、いっぱい知ってるけどな。本気のヤンキー、ってとこ以外にも」

「悦居は知らんやろ」

「多分な。でもな、古館がええんやて」

 松木はベンチに浅く腰掛け、体をぐったりと預けた。

「ふう。失恋ですわ」

「早かったな。……わはは」

「おう。あっという間に恋に落ちて、あっという間に失恋や。チキンラーメンみたいでええやろ。わはは」

「松木。……おまえ、古館とさ」

「わかってるて、しょうもない遺恨は残さへんよ。バンドは別や。ちゃんとやるって」

「……ああ。うん、どうも」

「なんでおまえが礼言うねん。おかしいやろ」

「……辛いな」

「辛いよ」

「初恋は実らんってゆうしな」

「わはは、見事に玉砕や」

「わはは」

 それっきり、僕達は黙った。

 夕日はすっかり姿を隠し、空は濃い紫色になっていた。

 僕はかけるべき言葉をあっさりと使い果たし、その頃いつも鞄に入れていた、小さくて古ぼけたトランジスタ・ラジオをひっぱり出して間を持たせようとした。

 スイッチを入れてダイヤルをFMに合わせると、ディスクジョッキーの名調子が場違いなくらいの勢いで飛び出した。

『……でした! さーて二時間にわたってお送りしているラブソング特集。ロック歌わせたらこんなに激しくてかっこいいバンドも、バラードではまた違うしっとりとした素敵な顔を見せてくれますよねぇ。さあリクエストまだまだお待ちしてまぁす』

 ラブソング特集らしい。僕はボリュームを少し絞り、次の曲を待った。

 そのあと、ZIGGYの〈六月はRAINY BLUES〉がかかった。

 レッド・ウォーリアーズの〈BIRTHDAY SONG〉がかかった。

 レベッカの〈ONE MORE KISS〉がかかった。

 BOOWYの〈わがままジュリエット〉がかかった。

 そして、ブルーハーツの〈ラブレター〉がかかった。

 きれぎれに、〈ラブレター〉は紫色の空の遠い場所に吸い込まれていった。

「あ」

 突然、松木が口を開いた。

「どうした」

「思いついた。クサいことゆってええか」

「ゆってみろ」

「思い出ができる瞬間って、ほんまにあっという間やねんなぁ」

「なるほど。――含蓄があるな」

「酔いしれてるからやろな」

「うん」

「泣けてくるな」

「まあな」

「でもなあ。失恋したばっかりで、ラブソング聴いて、人前で泣くってのもちょっとな……」

「人前? 今ここにはおれとおまえしかおらんぞ」

「……そうか」

 松木は黙り込んだ。

 その時、松木が泣いていたのかどうかはわからない。

 でもブルーハーツの〈ラブレター〉は名曲だ。松木の失恋から二十年以上経った今も、この曲を聴くと当時の様々な出来事が思い出され、涙腺が緩みそうになる。

 辺りがすっかり暗くなった頃、松木がぽつりと言った。

「古館を好きになって、悦居は幸せになれるんやろか」

 その問いかけに対して僕は、

「さあなあ」

 としか答えようがなかった。

 当時の僕には、松木のこの質問の意図がわからなかった。

 悦居を手に入れたい、という思いと、悦居の幸せ。どこでどう関係してくるというのだろう?

 とにかく、これは僕が知っている中でも特に短くて、とびきり切ないラブストーリーである。

 ちなみにブルーハーツの〈ラブレター〉は、



 他の誰にも言えない 本当のこと

 あなたよ あなたよ

 幸せになれ

 あなたよ あなたよ

 幸せになれ



 というフレーズで幕を閉じる。






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