第6話 僕はエレキギターが欲しかった。
結局、高本も退屈していた。
非日常的な場所に自分を放り込んでくれる何かを求めていた、という点では僕や松木と一緒だった。
高本は、現代国語と古典以外は、常にオール五に近いような成績を取っていた。現代国語と古典については「勉強方法がよくわからない」らしく、それでもまあまあ平均点近い点数はいつも取っていた。昼間は僕達と遊んだり部活に汗したりしながら、夜にこそこそ勉強していたようだ。今からがりがり勉強しなくても、このまま順調に行けば彼の志望校にはまあ受かるだろう、と彼も担任も算段した。といって彼は勉強の手を休めるわけでもなく、一日に自分が決めた時間きっちりと勉強し、テストではしっかりといい結果を出していた。
部活でもいつもそれなりの結果を出しているらしく、市の大会などにも長距離走の選手として何度か出場し、その時々によってはメダルを貰ったりもしていた。常人がやる程度のあたりまえの努力をすれば、いい結果が自然とついてくる。それが高本という男だった。そしてそのあたりまえの努力が劣等生の僕などとは違い、まったく苦にならないらしい。羨ましい奴なのだ。
だからこそ、今までの自分ならば絶対に踏み込むことのないフィールドに身を置いてみるのも悪くないんじゃないか、少しくらいレールを外れてみるのも面白いんじゃないか、と思ったのだろう。
「三月のパーティーまでは付き合ったるわ」
というのが高本の返事だった。
早速僕達はその日の帰り、買い出しをしてから高本の家に集合してバンド結成記念宴会を開いた。
松木はコーラをぐびびと飲み、げふぅと大きなげっぷを一つしてから、「まだスリーピースか。もう一人欲しいな」と言った。「ブルーハーツは四人や」
「そうか。パートを決めていかんとあかんな」
もう十月も半ばだった。ど素人には練習時間がたっぷり必要だ。
「パートか……」
「パート……全員イチからやから、どのパートになってもいいわけや」
僕は松木と高本の顔を見回した。
「おまえら何かやりたい楽器ある?」
高本はブランデーを舐めるようなかっこつけた動きでちびりとコーラを含んだ。
「いやあ別に……」
松木は何故かグラスを持ったまま俯いていた。
「おれも、まあ別に……」
二人とも曖昧な返事をした。
「別に」と言いながら二人の目がきらり、と暗く妖しく輝いていたのを、その時の僕は見落としていたようだ。
僕達の住んでいた町、駅名で言うと阪急南千里駅から淡路という駅までは阪急電車で十五分。土日を利用してよく覗きに行く店が、淡路駅周辺の商店街にあったのだ。『北野レコード』という店で、CDショップ(『レコード』と屋号についていても店内にある商品は大半がCDで、レコードはその頃もうほとんど息の根を止められつつあった)なのにショウウインドウにはエレキギターが三本、荷造り用の紐でまるで肉屋の生ハムみたいな荒っぽい感じでぶら下げられていた。
ギターの一本はグレコ社製の黒のレスポールカスタムモデルで、残りの二本はフェルナンデス社製のストラトキャスタータイプだった。
僕はトランペットを買えない黒人少年のように、今にもガラスを舐め回しそうな至近距離まで顔をべったりとウインドウに押し付けて、ぴかぴか魅力的な光を放つそいつらを飽くことなく眺め回した。
地元にはもちろん楽器屋などなかった。今でもないはずだ。本物のエレキギターを家から最短距離で見に行こうと思うと、選択肢は電車で十五分のこの店だけになるのだ。
「兄さん。ロックやるんやったらわいでっせ」
黒のレスポールカスタムは、僕に熱くそう語っている。
「兄さんやりなはれ。買いなはれ」
ストラトキャスターがレスポールの意見に賛同した。
僕はレスポールを鋭く速いストロークでカッティングしながら、マイクに向かってがなり声を吐き出している己の姿を想像して陶然となった。
いやあ、歌いながら弾くならストラトキャスターかなあ。でもこのストラトキャスター、かわいらしいピンク色やしなあ。もう一本のストラトもナチュラルなサンバーストやし。ロッカーとしては、こうなんちゅうか、真っ赤とか真っ黒とか金ぴかとか、もうちょっと攻撃的な色がいいというか……。
映画『エクソシスト』の悪魔に憑かれた少女・リーガンよろしく、半ば白目で今にもよだれを垂らさんばかりの薄ら笑いを浮かべてぶつぶつ何事かを呟いている軽度肥満少年をさすがに不気味に思ったらしく、店主らしき四十がらみの男がジャックナイフのような鋭い視線を投げかけてきた。僕は、
「ああ、今日の潮時がやって来た」
とあきらめ、ショウウインドウをゆっくりと離れた。しばしの別れだ、我がレスポールよ。おれにはおまえを手に入れる金がないのだよ。さらばさらば、と呟きながら。
後ろ髪ひかれる思いで僕はギター達に別れを告げ、駅に向かった。
僕は電車に乗り、ドアにもたれかかった。そしてガタンコーガタンコーガタンコー、と徐々にクレッシェンドしてゆく車輪と線路のぶつかる音を、エイトビートでフェードインするドラムのサウンドと頭の中で重ね合わせた。
頭の中にはBOOWYの〈B・BLUE〉のイントロ部分が流れていた。
その頃は、目が覚めている時はいつもロックのことを考えていた。僕は絵を描くのが得意だったので、数学のノートにいつもレスポールやストラトキャスターやテレキャスターを、そして、
「いつかミュージシャンになってギターをカスタムメイドできるような身分になったらこんなやつを!」
という極めてあつかましい願望を抱きながら夢のオリジナルギターも描いていた。
色鉛筆を使ってしっかり陰影をつけて描かれたそれらは美しかった。僕はそのギターを抱えてステージを所狭しと走り回る己を想像した。もちろん想像上の僕はミック・ジャガーのようにすらりと痩せていた。ほっそりした腕で、それでもパワフルにギターをかきむしるように鳴らしながら汗だくで踊っていた。
ステージは歓声に包まれていた。特にコールされているのは僕の名前だ。
我が妄想に気を良くした僕はどんどんギターを描いた。描いて描いて描きまくった。そして数学の成績はどんどん落ちた。記憶している最低点は八点だ。それでもめげずにギターを描いた。妄想は熱く熱く膨らんでいた。
ある日、高本が近江という男と喧嘩していると聞き、旧校舎へ駆けつけた。
僕が到着した頃にはほとんど決着がついており、旧校舎の廊下にぶっ倒れた近江が寝ぼけているような声で呻き、高本が口の端から血を滲ましてこちらへ歩いてきていた。高本は凶暴な目つきをしていたが、僕の姿を見ると凶暴な目はそのままで大きく右手を上げた。
「原因なんや」
僕が訊ねた。
「そこに転がってるボケがおれらのバンドのことをおちょくった」
「そんだけか。血の気の多い奴やなー」
高本は右手の拳についた返り血をハンカチで拭き、ズボンの埃を払った。
「近江は前からムカつくところがあった。いつかやったるて思てたんや」
「それでもやな……。おい、近江。いけるか?」
ややあって、「むーん」という返事とも呻きともつかない声が近江の口から漏れた。
「大丈夫や。いけるみたいや。そんなに強ぉは殴ってへん」
「ゆうても魚河岸のマグロみたいに転がっとるがな」
「そんなことはええ。……墨田、おまえにええ話があんねん」
高本は僕の肩に手を廻し、にやりと笑った。
「エロ本か」
「ゲスい言い方すな。ポルノグラフィックマガジンや。これまでの初級、中級やないど。ごっつい上級もんや」
「これまでは初級やったか。……それはごっついか?」
「鬼のように興奮するど」
「もはや病気やな」
「恩恵受けとるくせにええかっこぬかすな」
「まあいったん……貸してくれや」
「貸す貸す。それとな」
「何や」
「うちの姉ちゃんが『工員』のライブ行って来たんや」
「ほんまか!」
勝手に声が跳ね上がった。
工員とは、当時の大阪のアンダーグラウンド・ロックシーン(その頃はインディーズという言葉が浸透していなかった)において半ば伝説化していたカリスマ的パンクバンドだ。やっとそろそろインディーズ専門雑誌が出はじめた、という時代において、工員のようなアンダーグラウンドでアナーキーなパンクバンドの情報はほとんど入手することができなかった。しかし音楽雑誌のモノクロページの隅っこの隅っこに小さく載っている、FBIに捕らえられた宇宙人の写真のように判然としない情報が語るに、とにかく工員のライブパフォーマンスは凄まじいらしいのだ。
ヴォーカルのギザがオールスタンディングの客に向かって、
「おまえら殺すぞーっ‼」
と叫ぶと、
「うおおおおっ殺してくれえっ‼」
と客が応え、
「おまえら犯すぞーっ‼」
と叫ぶと、
「きゃああああっ犯してええええ‼」
と少女が応えてブラウスのボタンを引きちぎり、ブラジャーを外してステージに投げつける。そんなことはもはや日常茶飯事で、それ以外にも客席に向かって唾を吐く、放尿する、ゲロを吐く、客を張り倒す、警備員をぶん殴る、客に蹴り飛ばされる、流血乱闘もお手の物。拡声器を取り出して一体何をするのかと思えば、やおら革パンツのポケットから『とっても見やすい・大阪二十四区まっぷ』という小さな地図を取り出し、
「オイ天王寺区‼ オイ東成区‼ オイ城東区‼ オイ港区‼ オイ中央区‼ オイ‼」
と読み上げはじめる。そんなヴォーカル(?)のバックでギター、ベースはフレーズになっているのかなっていないのかよくわからないメロディーを激弾きしている。演奏も何もあったもんじゃない。
「で、どうやったって?」
「姉ちゃんか? 怖かったってゆうてた」
「至極まっとうな感想や」
「でもな、かっこよかったって」
「かっこよかった?」
「グチャグチャでわけわからんかったけど、とにかくかっこよかったって。なんかようわからん、内面にある複雑な感情とかリビドーとかを遠慮なくぶちまけてる、そんな感じがしたらしいわ」
「本能的か」
「せや。ぎらぎらした中に、ちょっときらきらしたもんがあったんやて。ごっつい不器用な表現かもしれんけどな」
「……ふーん。ようわからんけど……」
「おう。ようわからん」
「でもちょっとええな」
「おう。かっこええ」
高本はトイレの洗面所で顔を洗い、口の中の血をゆすいだ。高本が吐き出した水は薄いピンク色をしていて、それは大きく渦を巻いて排水溝に吸い込まれていった。僕はその渦をじっと見ながら、『ぎらぎらの中のきらきら』について思いをはせていた。
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