第7話 僕の人生を頑張って生きろ

 翌日、学校を休みたかったが、父さんに心配をかけるわけにはいかなかった。たとえそれが本物の父さんではなくても。

 咲希と話したくない。嫌われ、幻滅されたと知るのがたまらなく怖かった。それでも電車は時間通りに最寄駅へと到着する。足取りが重い。同じ制服を着た生徒たちが、僕をどんどん追い抜いていく。どんなに歩みが遅くとも、いずれは学校へと到着する。

 クラスへ入る。だいぶ遅い時間だったのだろう。クラスメイトはほとんど揃っている様だった。当然、咲希もいる。いつも通り、本を読んでいた。なるべく足音を立てないように通路を移動しようとしたが、背中を勢いよく叩かれた。バシッという音がクラスに響く。

「金木、昨日は悪かったっ!」

 大きな声で日高が謝る。クラス中の視線が僕らに集まる。ちらりと咲希を見ると、咲希も僕を見ている。なんでこんなことするんだよ。僕は意味がわからず困惑する。

「な、何で……」

「俺が本番で上手く歌うために、みんなの歌声を聴くのに集中しろって言っちゃったせいで」

 日高は周囲に視線を向けながら、大きな声で僕に話しかける。

「誤解されちまったみたいだからさ」

 そこまで聞いて、日高が昨日のフォローをしてくれているのだと気づく。だけど、僕はクラスメイトにどう思われていようと、どうでもよかった。

「別に……。そんなことしてくれなくていいよ……」

 僕は気づいたのだ。咲希と付き合うことなど出来ないと。だからどうでもよかった。

 そんな僕を見て、日高は僕の腕を強く引っ張る。

「痛いよ」

「金木、話があるから来い」

 その声はいつになく真剣なものだった。

「もうホームルーム始まるし」

「んなもん、サボればいいんだよ」

 日高はさらに力を込める。抵抗するのもめんどくさくなり従うことにした。

「わかったよ……。行くから離してくれよ」

 そして僕らは空き教室へと移動した。

「何があったんだよ?」

「何がって何が?」

 答えたくなくて、わからないフリをする。

「俺のせいでやる気なかったと思われたのは、悪かったと思ってるよ。でも、今のお前見てると、それだけじゃないだろ」

「……諦めたんだよ」

「諦めたって……。立花のことをか?」

 流石にその答えは予想していなかったらしい。日高は驚いた顔をする。

「そうだよ……。だから合唱大会もどうでもいい……。みんなにどう思われたっていい」

 日高から顔を背けながら言葉を紡ぐ。

「嘘だろ」

「嘘じゃないよ。僕なんかが好きになっていい人じゃなかったんだ。これで満足だろ?」

 そう言って、空き教室から出ようとした。すると背後から日高が呟く。

「つまんねーの」

 それは心底面白くないといった声だった。その瞬間、僕の中で何かが弾けた。振り返り、日高を睨みつける。

「悪かったなつまらなくてっ! でも仕方ないだろっ! 誰が好き好んで諦めるとっ!」

 僕の言葉を聞くと、日高は意地悪そうに笑う。

「ほーら、やっぱり諦めたくないんじゃん」

「それは……」

「なぁ、金木。お前、朝っぱらから教室のど真ん中で告白しようとしたくらい、立花のこと好きなんだろ? なら足掻けよ」

「足掻いたよ……。でも日高が言ったんじゃないか。僕はステータスが低いって。僕にできることなんてたかが知れてるんだよ」

「金木ってソシャゲとかやらんの?」

「……え?」

 唐突に話題を変えられて困惑した。咲希への想いと、ソシャゲをやることの何が関係するというのだろう。

「別にソシャゲじゃなくてもいいけどさ、ゲームやったことないだろ」

「ない……けど」

「ゲームじゃレベルを上げてボスに挑むのは常識なんだよ。俺は別に、金木のステータスが低いままなんて言ったつもりはないぜ」

「それは……。僕が変われるってこと?」

「イヤホン買って、曲聴き込んだんだろ?」

 僕は首肯する。

「テッテレーンッ! 金木はレベルが上がったっ!」

 笑顔になる日高。

「なんだよそれ」

「ステータスが上がったジングルだよ。喜べ」

「日高に言われても嬉しくない」

「なら立花に言ってもらえ」

「……言ってくれるかな?」

「お前が合唱で上手く歌えれば言ってくれるんじゃね? 知らんけど」

「そこは責任持てよ」

 僕は呆れる。呆れすぎて、思わず笑ってしまった。

「ようやくかよ」

「なに?」

「なんでもねーよ」

 日高がそう答えるとチャイムが鳴った。

「やべっ。愛花ちゃんが来ちまうっ! 行くぞ金木っ!」

 僕らは慌てて教室へと戻った。

 僕らは愛花先生の前で正座していた。

「学校に来ておきながら遅刻するとか、舐めてるのかお前らは?」

「すみませんでした……」

 僕らは揃って頭を下げる。

「以後、気をつけるように」

「はい……」

「わかったなら立ってよし」

 その言葉で僕らは立ち上がる。机に向かう時に咲希をちらりと見ると、僕のことを心配そうな顔で見てくれていた。

 昨日のことがあっても、咲希は僕のことを嫌いになっていないのかもしれない。それか日高のフォローのおかげか。僕たちが席に着くと、愛花先生はホームルームの続きを始める。

「わかってると思うが、明日は合唱大会だ。三限は忘れずに音楽ホールに集まるように」

 愛花先生がそう告げるとチャイムが鳴り、授業が始まる。愛花先生が教壇に立ったままということは、倫理の授業なのだろう。

「今日は胡蝶の夢の話だな」

 愛花先生はそう言うと、「胡蝶の夢」と黒板に板書する。

「蝶になる夢から覚めた男が、蝶になっていたのはただの夢なのか。それとも今の自分は蝶である自分が見ている夢なのか。といった内容だが、荘子が言いたかったのは、どちらが正解なのかということではない」

 この世界に来た自分にリンクする話で、思わず愛花先生の話に聞き入ってしまう。

「荘子が真に言いたかったのは、蝶であるときは蝶であり、人である時は人である。そのどちらもが真実であり、自分であることには変わりない。どちらが真実かを論ずるのではなく、どちらも肯定し、それぞれの場で満足して生きることが大事だと言うことだな」

 どちらの世界でも満足して生きる……。

「最近、異世界転生なるジャンルが流行っているな。お前たちの中でも読んでるのもいるだろう。だけど、逃げるために読むなよ? 自分がどこにいようと自分なんだ。お前たちが頑張って、お前たちの人生を生きなきゃいけないんだ」

 それは僕に向かって言っているように聞こえた。僕はずっと現実が辛くて、マンガの世界に逃げてきた。そしてこの世界にやってきて、僕は違う人間になれたと思った。

 でも僕は僕でしかなくて。それが苦しくて。それでも愛花先生は、僕の人生を頑張って生きろと言う。なんて重い言葉なんだ。昨日の僕だったら受け止めきれなかっただろう。今の僕が先生の言葉を少しだけ前向きに受け止められるのは、あいつのおかげだろうか。

 日高はあくびを噛み殺しながら、愛花先生の話を聞いていた。本当に厄介なやつに目をつけられたものだ。僕は苦笑する。だけど。僕の人生を頑張るために何ができるだろうか。

まずは明日の合唱大会でちゃんと歌えるようにならなければ。でも、もう全体練習はない。どこかで個人練習するしかない。でもどこで? その時、中野の言葉を思い出す。そうだ。カラオケに行けばいいんだ。

 授業が終わると、イヤホンを持って階段下まで移動した。曲を聴きながら、スマホで学校の近くのカラオケ店を調べる。人生で一度もカラオケに行ったことがなかったので、料金やらルールやら知りたいことはたくさんあった。その後も、休み時間になるたびに階段下で曲を聴き続けた。週末聴き込んだ甲斐もあって、だいぶ耳に馴染んできた感じがする。

 放課後になると勢いよく教室を飛び出す。歌える時間は限られている。急がないと。

 

 置かれているタッチパネルを操作し、さっそく曲を入れる。マイクを手にすると途端に緊張してきた。やっぱりマイクなしで歌おうか。本番もマイクは使わないんだし、そうしよう。マイクをテーブルに置くと、そのまま歌い始める。結果は酷いものだった。確かに前にみんなの前で歌った時よりはメロディに乗れてるし、歌詞も頭に入っている。でもそれだけだった。そもそも歌うという経験自体が圧倒的に足りていないのだ。

 だからといって諦めるわけにはいかない。もう一度曲を入れようとパネルを操作し、採点モードというアイコンを見つけた。そういえば自分の歌を採点できるとネットに書かれていた。これを使ってみるのどうだろうか。

 採点モードのアイコンをタッチする。派手な画面が表示された。また曲を入れて歌うが、音程が全く合わず、不思議に思っていると、マイクを使わなければ採点してもらえないということに気づく。恥ずかしいけど、背に腹は変えられない。

 もう一度曲を入れると、マイクを持って歌う。結果は65点だった。歌が上手くなるために、声量を大きくすることと音程のブレを少なくするようアドバイスされる。

声量は恥ずかしさを捨てて堂々と歌うのが必要だろう。僕は全体練習を思い出す。自信を持って歌っている人の方が上手に聞こえた。音程のブレはどうしたらいいのだろう。

 スマホで検索すると、「あ」だけで歌うのが練習になると書かれていたので、それを実践してみることにした。下手なのに大声で歌うのは確かに恥ずかしい。

 だけど、咲希に失望されること以上に恥ずかしいことがあるだろうか。

 よしっ! 大声で歌うことなんてたいしたことないじゃないか。

 段々と歌うことにも慣れ、少しずつ点数が伸びていく。だけど一時間ほど歌ったところで問題が起きた。喉がジンジンと痛むのだ。スマホで検索し、喉が痛くなった原因が姿勢の悪さと水分不足と筋肉の衰えだと知った。日高に指摘されていた猫背がここに来て影響するとは……。

 それに普段から人と会話しない僕にとって、筋肉の衰えは今からどうにかできるものじゃない。せめて水分を取ろう。空のコップを持って廊下へ出る。ネットには生姜湯やハチミツが喉に良いと書かれていたが、ドリンクバーには置いていなかった。ゆっくりと温かいお茶を飲むが、当然それだけで痛みが引いたりはしない。仕方ない。姿勢に気をつけながら、こまめに水分を取ろう。一休みするとまた曲を入れた。

 結局、三時間ほど練習をした。喉はガラガラで痛みはさらに増している。だけど、その甲斐あって点数は80点まで伸びた。帰り道に見つけた薬局で、ハチミツのど飴を購入する。飴を舐めると少しだけ痛みが和らぐ気がした。

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