空色の国 ⑤

 二人は早速荷物をまとめて出発した。テントの畳み方には苦戦を強いられたものの、適当に折っていった結果、コンパクトに収まったので、それ以上は気にしない。

 それよりも気に掛かるのは、今二人が身を置いている状況。不自然なまでに真っ暗な空間だった。


「どういうことですかね、これ。空色の雨が降ってきて、それが止んだら今度は空一面真っ黒。これじゃあ本当に、空の色が落ちて来ていたみたいじゃないですか。そんなファンタジックな世界、ありますか?」

「……分からない、けど。なんとなく、出た方が良い、気がする」


 二人は足早に歩く。トウはもう何度目か分からない頻度で、天を仰ぐ。星一つ無い空。月明かりも星々の瞬きも視認出来ず、あるのはただ、深潭のような暗闇のみ。

 それまでの清々しい青空から一変、吸い込まれそうな黒。何も無いという点では、同じだが、色による不安要素はまるで違う。


「な、なんか不気味ですね。光一つありませんし……」


 先程からメイがローブの一部を摘んでくるので歩き辛いことこの上ないが、いちいちそれを指摘してもいられない。彼女の歩行速度がそれで早くなるのなら、好きにさせておくというのが、トウの考えだった。


「……この国から、出るには、どうすれば、いいの?」

「て、適当に歩いてたんですか!? ど、どうするんですか。もう北も南も分かりませんよ!?」


 元から方角などあって無いような国だ。今更どこを進んでいようが、トウとしては気にならなかったが、メイがうるさい。メイの言葉を右から左に流しつつ、二人は当てもなく歩き続ける。

 と、水平線上の彼方。一つの淡い光が揺らめくのを視界が捕らえた。闇に灯る蛍火は仄かな暖かみなどという印象を露も与えず、それはまるで旅人を死地へと誘う火の玉。死に損ねた魂が現世を彷徨っているように見えた。

 そして暗すぎる今の環境ならば分かる。あちらこちらで、同じような火の玉が発生しているということに、二人は遅れながらも気が付いた。


「ど、どうします? あの光の方へ行ってみますか?」

「……本来なら、不審な光は、避けるべき。特に、旅人は」


 でも、と続ける。今はそう言う事を言っていられる場合ではないのかもしれない。迷い歩いている今、人がいる可能性の高い方へ動くべきだろう。


「迷った時は、元来た道、に戻るか。人に、尋ねるか……」


 とりあえず他の人と出会うこと。この不気味な空間に、自分たち以外の人間がいるということを確認しなければならない。二人は灯り続けているその元へと向かう。

 小さく見えた明かりはやがて大きく。その光の正体を掴めたのは、対象と視線が合う距離に近付いてからだった。


「あ、あれ? あの時の……」

「…………」


 そこにいたのはこの国に入国して、初めて会った国民の老翁。顔に無数の皺を刻んで、その瞳は下から照らすカンテラの光でさらに険しく映った。

 二人が接近し、話し掛けても、彼は殊更驚いた表情も見せず、ただ睨みつけるように視線をぶつける。


「お前さん方か……」


 一言、そう呟いた。忌々しく煩わしく、ぶっきらぼうに放たれたその言葉は、トウにどこか違和感を覚えさせる。


「いやあ良かったです、人がいて。こんな右も左も分からない環境初めてで、どうすればいいのか不安だったんですよ。あ、そうです。テントありがとうございました。おかげさまで濡れずに済みました」


 メイのそのお礼と同時に、トウがリュックから下手くそに折り畳まれた簡易テントを取り出す。好意として借りたものなのだからもっと綺麗に畳んで返すのが礼儀というものなのだが、老翁は文句も言わず、ただ無言でそれを受け取った。


「それでですね。ちょっと聞きたいんですけど、どっちに向かえばこの国から出られますかね? 私たちもう出国しようと思ってるんですけど、迷っちゃいまして」


 何も言わない。ひたすらに喋る所作も見せず、彼は二人に視線を向け続ける。これにはさすがのメイも、不審に思う。


「あの、どうかしましたか? 何か気に障るようなことでも……」

「いや……」


 迷っている、という様相でもない。話すタイミングでも掴みかねているのだろうか。メイも、形成されている独特な雰囲気に、困惑する。


「ええと、分からないなら大丈夫です。自分たちで何とかしますから。あの、じゃあ私たち、もう行きますから。テント、ありがとうございました」


 口早にそう言って、トウの身体を押すようにメイたちは踵を返した。とにかくここを離れることだけを考える。言いようのない不安に駆られながらも、足を踏み出した。

 そして、二人が歩き出す。

 そのタイミングで。老翁から、声が掛かった。


「……お前さん方、神は信じるか?」


 振り返る。眼つきの悪い老翁は、何かを見据えて続けた。


「私は、いや私たちは信じている。大いなる存在が、全知の長がずっと観察しているということをな」

「な、なんでしょうか。いきなり……」


 メイがトウの腕を握るその手に、力が籠った。緊張と恐怖、警戒に混乱。姿は確認出来なくても、その声からどのような心境か判断は出来る。対してトウは、老翁の言葉に反応を示さない。無感情な瞳を携えるだけだ。


「神はいる。この国が出来てからずっと、私たちが生まれる前よりさらに前から、私たちの動向を監視し続けていた。ありがたいことにな。だから私たちもそれに応えなければならない。その想いに、その期待に。そのためには神が労なくこの国を見れる環境を作らなければならない。そうは思わないか? 少なくともな、私たちはそう思った。だからこんな光景であって、そして、私は今、お前さん方の前にいる」

「ええと……?」

「神は、今、見ておられない」

「な、何がどういう……」


 メイの言葉は、最後まで続かなかった。彼女の身が思い切り引かれるのと、老翁の身体が前に躍り出たのは同時。トウによって引っ張られたメイは、バランスを崩したようにそのまま二、三歩後ろに下がり、トウの背後へと回った。

 瞬間、トウ目掛け老翁が腕を伸ばす。


「……危ない」


 いつもの声音のまま、トウが膝を折る。

 それだけ。

 素早い回避行動とも取れない単調な動き。たったそれだけで、老翁の拳は彼女がいたはずの空間を通過し、宙を空ぶった。


「な、何をするんですかいきなり……うぐっ!?」

「走る……」


 しゃがみ込んだ状態から、バネのようにトウが跳ぶ。ついでに背後にいたメイの襟首を掴んで、そのまま逃走を図った。


「おい、待て!!」


 背後で老翁の唸り声が聞こえた。振り向く余裕も無い。ただメイを連れ、トウは走る。


「ね、ねえトウ!! いったい何が……」

「とにかく、走る……」


 手元には明かりは無い。世界を照らす月も見えない。あれだけ青かった空が、黒くなった原因。別に空の色が、地上に降り注いだとか、そういう話では無く。

 単に空を分厚い黒雲が、覆っていたと。それだけの話なのだろう。生憎空模様は確認出来ないが、現実的に考えればその答えに行き着く。それに夜が重なれば、きっとこのように真っ暗な世界が出来上がるはずだ。

 ひたすら走る。ただし、がむしゃらにではなく、ある程度進んだ段階で右へと進み、また頃合いを見計らって左へ曲がる。真っ平らな地上を、ジグザグに進んでいった。


「と、トウ。あれ……!!」


 しばらく走っていると、眼前にまたも明かりが浮かぶ。先程と同じような、火の玉だ。それも複数、並ぶように浮かんでいる。

 走る足を止めずに、後ろを振り返る。あの老翁は、すでに見えなくなっていた。


「……明かりが無いから、こっちの方が、有利」


 進路を火の玉の無い場所へと変える。ここに住む国民と、遭遇することだけは避けなければならない。向こうは闇の中にいるこちらを探さなければならない分、自分たちから接触しなければ、まず出会わない。

 二人は、追ってくる対象が消えてもしばらく、走り続けた。


「どうして、あの親切そうなおじいさんが……」

「……親切、には見えなかった、けど。それでも、変わった、っていうなら」


 走りながらトウが指を差す。天を、暗幕でも降りたかのようなその上空を。


「空がどうかしたんですか? 確かに、不気味ですけど」

「……あの人は、神を信じてるって、言ってた。神が、自分たちを、観察してる、とも」

「そ、それがどうかしたんですか?」


 もう随分と走り続けている。言葉を絞り出す、メイの呼吸が乱れていた。トウは平然と、それに対して返す。


「きっと、ここに住む人たちは、神を、信仰してる。どういうものか、知らない、けど……」

「信仰しているから、暴力的になるんですか? よ、よく分からないんですけど。それなら、私たちと出会った時も、あんなに穏便に済むはずもありませんし。親切になんてする義理も無いでしょうし」

「……いつも穏便、じゃないんだと思う。条件、暴力的になれる、環境が、ある」

「暴力的な、環境ですか……? え、あ。それって、もしかして」


 メイの声が上に向かって放たれる。見上げる空には、分厚い雲がかかっていることだろう。その黒く冷たい天蓋が、しばらく続いていた。それは、昨日までには無かった光景。蒼く眩しい世界は、漆黒に塗り潰されて、まるで世界そのものが変わってしまったような印象を抱いたほどだ。

 老翁は、常に神の監視下にあると言っていた。それがもし、青い世界の時のことを指していたら。黒い世界、今の状況そのものが、神は見ていないという彼らなりの解釈であるのだとすれば。


「……神が、見ていない、ということに、すれば。悪事を、働ける。青空は神が、見てるから」


 神が見ていないところでは、つまり好きにしても良い。

 信仰心がある人間から見れば、それが当たり前となっている。雲が深く覆われている今なら、旅人を襲っても、盗賊の真似事をしても、咎める者は誰もいない。そういうシステムとして成り立っているのだ。


「なんという、傍迷惑な……」


 夜は溶ける。静かに過ぎ去っていくのは揺らめく火の玉。

 幽かに浮かぶその光景を、幻想的だと捉える事も出来る。ただしその焔が、得物を狙うための篝火であることを除けばの話だが。


「あ、空が……」


 しばらく突き進んでいると、どこまでも続く闇にようやく変化が訪れた。

 それは、早朝のように、薄ぼやけている空。遠く見えるも、やけに近く、そしてその情景が懐かしく感じられる。

 長い夜の、終幕だった。

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