第12章ー1

 絃那が眠ったのを確認して、弥紘は身体の力を抜いた。


 スマホを取り出し飛鳥に連絡を入れる。飛鳥も、それから失踪にいち早く気づいたという絃那の友人も、絃那の無事を知ればほっとするだろう。


 枦川理九には――伝えるべきだろうか。


 そもそも絃那がいなくなったと彼は気づいているのだろうか。

 気づいていない可能性を考えて、弥紘は腹立たしくなる。絃那が危険な目に遭ったそもそもの原因はどうやら弥紘にあるようなので、そんな自分が彼に腹を立てる権利などないことは十分承知しているのだが。


 弥紘は手を伸ばし、絃那の手首にそっと触れる。

 滑らかな肌。弥紘が異能を解けば、その瞬間、ここにあの痛々しい傷が蘇る。思い出しただけで、腸が煮えくり返る。


(あんなものじゃぬるかった)


 もっと身体も、心も、ズタズタに傷めつけてやればよかった。

 絃那を怖がらせ、傷つけた奴ら全員に相応の報いを受けさせてやりたい。その『全員』の中に自分自身も含まれることを考えると、笑うしかないけれど。


 数十分にわたる走行を終え、車は門廻邸に到着する。


 絃那はまだ眠っていた。弥紘は彼女を起こさないようそっと腕に抱きかかえ、邸に入る。

 出迎えてくれたセトさんに、軽い食事の準備を頼み、自室に向かう。


 不在の間も自室はしっかり清掃が行き届いていた。

 弥紘が寝室のベッドに絃那を寝かせていると、ふいにスマホが震えだす。


 呼び出しの連絡。隆成はもう戻ってきたらしい。

 いまだ眠り続ける絃那にそっと毛布をかけて。弥紘は、自室を出る。




「いらっしゃい」


 隆成の部屋を訪れると、彼はいつものように執務机に収まった状態で弥紘を出迎えた。

 ドアを閉め、弥紘は彼の元へと歩を進める。


「まずは経過報告を共有しようか」


 隆成はそう言って、あの後のことをかいつまんで教えてくれる。それによれば、廃病院にいた者は皆、1人残らず捕縛済みで、


「弥紘が虐めてたあの黒服の男はレベルB。他にもBが2人と、あとはCとDがちらほら、ヒトも1人。ほぼ異能を使えないような雑魚ばかりだったよ」


 弥紘は眉を顰める。「B?」


 隆成は頷いて、

「黒服の男はBの上の方、A寄りのBってとこかな。顔と名前を元に昔のデータを確認しただけだから、今はどうか知らないけど。家の集まりにはほとんど参加しない、ゴロツキ連中らしくてさ。結構いるんだよね。うちみたいな少数精鋭はともかく、数百人のオオカミを抱えてる家もあるから、誰が今どこで何してるかなんて当主もいちいち把握しきれない。名字だけ与えて、あとは好きに職業選んで好きに生きろ、みたいなスタンスをとってるとこも多いんだよ。僕らって皆、基本的に自由主義だし。

 とはいえ、僕から見ても、あの男はレベルBの域を越えてはいないと思う。十六原絃那の母親が襲われた例の事故を起こせるほどの力はないし、そもそもガジェットを所持したまま島を出られる身分でもない。そして、例の事故の前後に彼らが島を出入りしたって記録も残ってない」


 険しい顔の弥紘に、隆成は告げる。


「勿論彼らも関わってはいるだろうけど。間違いなく、首謀者は他にいるだろうね。それも、強い力を持ったオオカミが」


 流石の弥紘も、慎重に言葉を選び尋ねる。

「どっかの名家がこの件に関わってるかもしれないってことか?」


 誰かが第二の偽月を創ろうとしている。誰かが王に、フェンリルに謀反を企てようとしている……


 隆成は肯定も否定もしない。

「現行のルールができて、もう30年だ。そろそろ変革を求める勢が本格的に動き出してもおかしくはないよ」


 そう言って、彼はため息を吐く。


「あーあ。もう少し泳がせとけば、もっと情報が手に入っただろうに。弥紘が碌に考えもせず突っ走るから、雑魚しか捕まえられなかったじゃないか。あいつら絶対たいした情報持ってないよ? どうしてくれんの? ねえ?」


 弥紘は冷ややかに隆成を見下ろす。

「あんた、絃那を餌にするつもりだったのか」


 隆成は肩をすくめる。

「大元を絶たない限り、あのお嬢さんはこれからも身の危険を感じながら過ごさなきゃならないんだから。それが本人のためでもあると思うんだけど?」


 一理あるのかもしれない。だからといって、あのまま絃那を危険に晒し続けることは、弥紘にはできなかった。


「危険な目になんて遭わせない。あいつを狙ってる連中を暴き出すまで、俺が守り切る」


 弥紘が強く言うと、隆成は笑顔で頷いた。


「うん。門廻家で守ろうね。だからさ――」

 彼の青い瞳が、弥紘を見据える。

「あのお嬢さんに創らせてよ、第二の偽月」


 脳が、一瞬動きを止める。


 次の瞬間には、苛立ちが込み上げた。

「あんたまで馬鹿になったのか。絃那に偽月なんて創れるわけないだろ」


 偽月を創れたのは霧崎伊織で、娘の絃那にその才はない。絃那を狙う連中は、門廻家の動きを勝手に深読みして、勘違いしただけなのだ。


 だろうね、と隆成は同意する。

「僕も本当に創れるとは思ってないけどさ。同時に『やってみないと分からない』とも思うわけよ。いいじゃん、どうせこれから嫌というほど暇を持て余すだろうから、絵の1枚や2枚、きっと喜んで描いてくれるよ?」


「……どういう意味だ」

 弥紘が眉を顰めると、


「十六原絃那の身柄は門廻で預かる。正体がバレれば即争いの火種になりそうなあのお嬢さんを、外に出すわけにはいかない。少なくとも、第二の偽月が求められているうちは」


 何をどう説明しようと、門廻家が絃那に接触した事実は消えない。

 たとえ連中を捕まえても、今後彼らと同じ勘違いする者が出てくる可能性がある。

 かといって、その度にこのような内乱を起こされるのは面倒だから。何より彼女が本当に偽月を創る才能を秘めていたら困るから。

 だから、彼らが手を出せないところに、閉じ込める。


「そんな怒るなって」

 睨む弥紘に、隆成は笑いかける。

「お世話係は弥紘がやっていいよ? 気に入ってんでしょ? 外に出さないなら好きなだけ一緒にいていいから。よかったね、好きな子独り占めできて」


 何もよくない。弥紘の頭に血が上る。

 絃那を自分だけのものにしたいと思っていた。

 自分じゃない誰かと笑っているのを見るだけで嫉妬した。

 どこかに閉じ込めて、隠して。あの笑顔も、柔らかな身体も、優しい心も、全部全部、自分が独占したかった。

 だから――


「やめとけ」

 冷ややかな声が響く。一瞬前まで笑っていた青色の瞳が、冷徹に弥紘を捉える。

「お前じゃまだ僕には勝てない」


「うるせぇよ、じじい」

 弥紘は低く吐き捨て、瞳孔の開いた目で彼を睨み返す。


 どくどくとこめかみが脈打つ。

 身体が熱い。暴れる心臓が胸を突き破ろうとしている。

 怒りが全部エネルギーに変わっていく。

 散々異能を使って疲れているはずなのに、不思議と隆成に負ける気がしなかった。


 そうして弥紘は一歩踏み出そうとして。

 すべてを終わらせようとして。


 それなのに、肝心の足が動かない。動けない。


『弥紘さん』


 ああ、絃那。

 絃那がしがみついている。また泣いている。


 奥歯が軋んだ音をたてる。弥紘は隆成を睨みつける。睨みつけて。睨みつけて。そして――


 …………握りしめていた拳を、ふっと解いた。


「……なんのつもりかな」


 弥紘がその場に膝をつき、床に手を添えて、頭を下げるのを見て、隆成は静かに問いかける。


 床を睨みながら、弥紘は言う。

「俺が守る。何があっても絶対に十六原絃那を守り切る。だから……この件は、俺に任せてくれ。あいつの自由を、奪わないでくれ」


 室内に沈黙が降りる。


 ギッと座椅子の軋む音がした。

 それから、ふいに、くくっと小さな笑い声が聞こえて。


「形だけでも頭を下げられるようになったのは、いい成長かなあ。でも――」

 呆れたように隆成は続ける。

「殺気が駄々洩れだ。言っとくけど、当主に向けていいもんじゃないからな、それ」


 弥紘が仏頂面のまま顔を上げると、

 隆成は息を吐いて、静かに告げる。


「……まあ、いいだろう。お前がそこまでするなら、とりあえずはあのお嬢さんをお前に任せるとするよ。とりあえず、ね。僕が心変わりしないよう、精々頑張るといい」


 どーも、と短く礼を言い、弥紘は膝を払って立ち上がる。

 すこぶる気分が悪い。

 やっぱり慣れないことをするものじゃない。もう二度と御免だ、と弥紘は心に思った。


 頬杖をついて弥紘の様子を眺めていた隆成が尋ねてくる。


「門廻で身柄預かるの、そんなに嫌だった? お前の様子見てたら、むしろ喜ぶんじゃないかと思ってたんだけど」


 嫌だ、と弥紘は嫌悪感を露わにする。

「門廻のものってのが嫌。あんたのものみたいで気に食わない。絃那は俺のだ」


 ぽかんとした隆成は、再び腹を抱えて笑いだす。


 そんな彼を弥紘はジロリと睨んで、


「あんたが当主の座を俺に譲ってくれるならそれでも全然いいんだけど?」

「あはははっ。駄目駄目。ガキにはこの仕事は務まらないよ」


 ふんと鼻を鳴らして、弥紘はドアへと歩き出す。


「こら待て。お前さっきじじいって言ったよな? 訂正しろ。僕はまだそんな年じゃな――」


 隆成の説教を聞き流し、弥紘は部屋を後にする。




 自室に戻ると、寝室の方で人が動く気配がした。


「絃那?」


 たった今起きたのだろう。ベッドの上にちょこんと座り少々ぼんやりしていた彼女は、やってきた弥紘の手元を見て目を瞬く。


「それ……」

「建物内にあったって。これで全部って言ってたけど、何か無くなってるものはないか?」


 ポシェットにスマホ、それからルルガでの購入品と思わしきもの。弥紘が手渡すと、絃那はひとつひとつ確認していく。


「……大丈夫、です。全部あります。……あ、あのっ、ガジェットは――」

「それも回収済み。壊れてなかったから大丈夫」


 絃那はほっとした様子をみせる。そんなもの気にしなくていいのに。

 弥紘は一緒に持ってきた薬箱をあける。


「手当てしよう」


 オオカミ化を解くと、異能の効果が切れ、絃那の手首に傷が復活する。

 弥紘は黙々と手当てしていく。「他、怪我してない?」


 大丈夫です、と絃那は頷き返してくるが。


「……その……髪は……? 切られた、のか……?」


 絃那の髪が僅かに短くなっている。ただ、連中にやられたにしては、綺麗に切り揃えられているような気がする。


 絃那はきょとんとして、

「……あ。い、いえっ、これは攫われる前に美容院で毛先を揃えてもらっただけで」


 よく分かりましたね、と絃那は照れたように笑う。


 分かるよ、そりゃ。

 最近の自分は、気づけば絃那ばかり目で追っているのだから。


「体調はどうだ? 食事を用意してるから、食べられそうなら――」


「あ、あの……!」

 慌てたように絃那は口を開き、

「えっと……先に、話をしてもいいですか……?」


 緊張を滲ませる声でそう言って、ちらと弥紘を見る。


「……わかった」


 弥紘は薬箱を片付け、絃那と向き合うようにベッドに腰掛ける。

 絃那は膝の上で手を握り合わせる。一度深く息を吸って。ぽつりぽつりと語りだす。


「……私、何も知りませんでした。私を攫ったあの人たちに聞いて、初めて母のことを知って――」


 弥紘が確認すると、絃那は連中に聞かされた内容を挙げていく。

 おおむね弥紘が隆成から聞き、把握している情報と同じだった。


「私……」

 絃那の握った手に力がこもる。

「私、自分が偽月を創れるとは思えないです。お母さんがカグヤを創ったって話だって、正直まだ、信じ切れない部分もあって……それは、分かってください。そのうえで、門廻家の皆さんがお望みなら」


 視線を上げて、絃那は弥紘を見つめる。


「私は偽月を創ります。精一杯描かせていただきます。……でも、あの……本当に期待しないでくださいね? 私、絵は下手くそで。美術の成績も、決してよくないんですよ」


 えへへ、と絃那は力なく笑う。

 胸が痛む。絃那の笑顔は好きだが、この笑顔は好きじゃない。


 弥紘は首を振る。

「そんなことしなくていい。偽月は創らなくていい。さっき隆成とも話をつけてきたところだ」


「えっ……あー……じゃあ……」

 やっぱそっちか、と絃那は苦笑して、


「分かりました。了解です。ただ……たまにでいいので、外に出してもらえたら嬉しいです。勿論勝手なことはしませんし、逃げたりもしないので」


 ……何か勘違いされているようだ。


「あのな、絃那」

 弥紘はゆっくりと言い聞かせる。

「これまでどおりでいいんだ。俺が、門廻家のオオカミが、お前に霧崎伊織の娘として何かを要求することはない。だから、何も心配しなくていい」


「え? でも……」

 絃那は戸惑いをみせ、言いづらそうに続ける。

「それじゃ私を婚約者にした意味が……」


 弥紘は小さく息を吐く。


「そのことなんだが。誤解なんだ。俺がずっと話さなかったから……いや、先に話してても、攫われてあんな話を聞かされたら、そう思ってしまっても仕方ないんだけど」


 弥紘は語りだす。絃那に婚約を申し込むに至った、その経緯を――。

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