第11章

 ――あらあら、どうしたの。そんなに泣いて。ほら、こっちにいらっしゃい。


 ――まあ。理九くんにいじわる言われたの? ブス? もう、あの子ったらそういう年頃なのかしら。困ったものねえ……


 ――大丈夫よ絃那。絃那はとってもかわいいもの。


 ――え? お母さんは目が見えないから分からないんだって? ふふっ、分かるわよ。お母さん昔、目が見えなくなる前に絃那の顔を見たことあるもの。よく覚えてるわ。とっても、とってもかわいかったんだから。


 ――だからもう泣かないで。そう、笑顔が一番よ。かわいいかわいい私の絃那。あなたはたくさん笑って、どうか、幸せになってね…… 



 ***



「……嘘つき…………」


 懐かしい母とのやり取りを思い出し、絃那はぽつりと呟いた。


 グレイの話では、母は絃那を生む前に両眼を失っている。絃那の顔なんて見られたはずがない。落ち込む絃那を元気づけるためについた嘘だったのだろう。優しい嘘だったのだ。


(話したいな、お母さんと……)


 言いたいことがたくさんある。聞きたいことがたくさんある。

 どうして何も教えてくれなかったの。今までどんな気持ちで生きてきたの。何も知らなくて、分からなくて、分かってあげられなくて。ごめんね、お母さん……


 ぴり、と手首に痛みが走る。

 絃那は眉根を寄せて腕を見下ろす。ちょっとした動きでも、気をつけないと手枷が皮膚に食い込んで痛い。


 これから自分はどうなるのだろう。


 グレイは島を出ると言っていたが。どこか知らないところに連れていかれて、偽月を創らされるのだろうか。


 言うとおりすれば大丈夫と奈央は言っていたけれど、絃那には月を創る自信なんてない。無理だ。できるわけがない。そんな才能があったら、疾うに偽月は完成している。


 第二の偽月の誕生は、世界各国で期待され、そして警戒され続けている。


 カグヤが創られ、誰もが諦めていた偽月の創造が不可能ではないと証明されて以降、日本国内でも、表向きは授業の課題という名目で密かに創造者が誕生していないか調査していると聞く。

 小学校や中学校の美術の授業で、必ず一度は月を描かされるのだ。その一作一作を、政府がこっそり確認しているのだともっぱらの噂だ。

 絃那も描いた記憶があった。勿論、何も起こらなかったが。


(なんで……)


 弥紘は、門廻家は、何をもって絃那が偽月を創れると思ったのか。

 不思議で仕方ない。彼らに勘違いさえされなければ、絃那はこんな目に遭わなかっただろうに。


 一方で、彼らのおかげで知れたのだ。

 もしかしたら一生知らずに過ごすかもしれなかった母の秘密を。母が巻き込まれた事故の真相とその犯人たちを。


 あんな人たちに協力なんてしたくない――

 険しい顔で目の前を睨んでいた時だった。


 ドゴォッ!!! と階下の方から大きな音がして。

「――、――!」

「――――! ――――!!!」


 複数の叫び声が耳に届く。

 絃那は硬直する。さっきまで風の音ひとつ聞こえないほど静かだったのに。

 まるで耳栓を取り外したかのように、急に周囲の音が溢れだした。


 音……防音……もしかして部屋の外に音が伝わらないだけでなく、外の音もここからは聞こえないようになっていたのだろうか。


 なら、音が聞こえるようになったということは。異能を使っていたオオカミの身に、何か――……


 破壊音は続いている。対して叫び声は徐々に聞こえなくなっていって。


 一際大きな音とともに、この部屋の、壁の一部が吹き飛んだ。

 絃那は反射的に身体を縮こませる。


「な、なに…………っ、ひぃっ!」


 足早に駆け寄ってきた何者かが、その勢いのままガバッと抱きついてくる。

 絃那は悲鳴をあげ、逃れようと身をよじり暴れるが、


「絃那っ……!」


 聞きなれた声が耳に届き、はっとする。


「え……弥紘、さん……?」


 絃那は驚き、目を見張る。どうして彼がここに。


 覆いかぶさるように絃那に抱きつく弥紘の身体からは、大きく脈打つ心臓の音が聞こえる。呼吸も荒い。

 元は綺麗にセットされていたであろう髪も、身に着けている上質なスーツも所々乱れていて、


「……よかっ、た」


 呟く声とともに、強張っていた彼の身体から力が抜けていく。


「弥紘さ――」

『あの門廻がお前を手に入れようとした』

 頭の中にグレイの言葉が蘇る。絃那の心臓が嫌な音をたてる。


「怪我……怪我は――……」


 思い出したようにそう言って身体を離した弥紘は、絃那の手の拘束に気づく。

 瞳を憤怒の色に染め、弥紘は手枷を掴む。

 鎖のついた鉄製の拘束具は途端に柔らかな白綿に変わった。それを引きちぎるようにして、絃那の手首から取り払う。

 弥紘が放り捨てた白綿は落下しながら空中で姿を変え、カランと音をたてて床に転がる。ひしゃげた鉄くずがその場に残った。


「痛かっただろ」


 擦れて薄く血の滲んでいる絃那の手首を、弥紘は暗い表情で見つめる。

 彼がそっと手を添えると、その傷は跡形もなく消える。


「一時的に塞ぐことしかできないから。あとでちゃんと手当てしような」


 他には怪我してないか、と尋ねる弥紘の声は、絃那に触れる手は、とても大切な存在へ向けるもののように優しい。


 鼻の奥がつんとする。絃那は震える喉から声を絞り出す。


「助けにきて、くれたんですね……」


 霧崎伊織の娘だから。

 そう続けそうになって、ギリギリのところで、絃那はその言葉を呑み込んだ。


「いなくなったって聞いてガジェットを追ってきた。盗難防止対策で所有者本人なら現在地が分かるようになってるから。絃那が持ち歩いてくれてて助かった。まあ、ここに来る途中で捨てられたみたいで、正確な場所は割り出せなかったけど……そこからは、その……しらみつぶしだ」


 弥紘の顔には疲れが見える。もしかしたら絃那を見つけるために、かなり無茶をしたのかもしれない。


「とにかく無事でよかった。邸に戻ろう。まずはゆっくり休んで、それから――」


 絃那の顔が強張ったのを、弥紘は見逃さなかった。

 彼の声が途切れ、沈黙が生まれる。


「……絃那」


 そっと名を呼んだ弥紘は、続ける。


「話したいことが、あるんだ。絃那も……そうなんじゃないか? だから……ちゃんと、話そう? 2人で」


 まっすぐ絃那を見つめるその瞳は、少しも揺らがない。


 絃那はこくりと唾を飲み込む。

 覚悟を決めなくては。知ってしまったことに対して、自分は向き合わなくてはならない。


 不安を胸に抱いたまま、それでもなんとか弥紘に頷き返したその時。


「絃那!!!」


 叫んだ弥紘が絃那を抱えるようにして横に飛び退く。瞬間、天井から巨大な柱が突き出てきて。

 石の柱はベッドを巻き込み、大きな音をたてて真下の床に突き刺さった。室内全体が震える。


 何が起きたのか、遅れて理解した絃那は血の気が引く。咄嗟に弥紘が動かなければ、今頃自分たちは大怪我をしていただろう。


 チッと小さな舌打ちが聞こえた。


 壊れた壁の向こうにグレイが立っていた。

 彼はすでにボロボロで、身体のあちこちを怪我し、立っているのがやっとの様子だが、目だけは依然としてギラつかせたまま、敵意剥き出しでこちらを睨んでいる。


「絃那」


 ゆらりと立ち上がった弥紘は、彼女に後ろの壁際まで下がるよう移動を促す。


「目、瞑ってて。耳も塞いで。俺がいいって言うまで。お願い」


 その声は、どきりとするほど冷たくて。


「っ、は、はい……」


 絃那は隅に座って縮こまり、言われたとおり目を瞑り耳も塞いだ。

 暗い暗い世界に閉じこもる。


 何も見えない――何も聞こえない――


 それでも空気の動きが、肌をかすめる細かな何かが、床を伝う振動が。この空間でただならぬことが起こっていると教えてくれる。


 絃那の身体が震えだす。


 弥紘さん、と小さく彼の名を呼ぶ。


 どれくらい経ったのか。体感ではずいぶんと長く感じるが、実際は1分も経ってないに違いない。


 何も分からない。怖い。心細い。

 駄目だと言われたのに、絃那はつい目を開けてしまう。


「――っ」


 目の前の光景に、呆然とした。

 壁という壁は壊れ、もはや部屋と呼べないほどに、天井も床も穴だらけに破壊しつくされていて。


 そんな中、弥紘は1人、立っていた。

 彼は床の上に転がっている黒いものを静かに見下ろしている。それがグレイだと絃那はようやく気付く。


(何が……あったの……)


 絃那は言葉を失う。


「うっ……ぐ……」


 グレイが苦しげな声を洩らす。ありえない方向に曲がっている手足を庇いながら、彼は血まみれの顔でギロリと弥紘を睨みつける。


「……っ、この、化け物がっ……」


 弥紘は一歩彼に近づく。コツ、と彼の足が床を踏んだ瞬間。


「ああぁ、ぁあああぁっ!!!」


 グレイは突然絶叫した。何もない空間を見つめ驚愕の表情を浮かべながら、床の上をのたうち回る。


 弥紘は何も言わない。佇むその後ろ姿からは、何の感情も読み取れない。


 グレイの絶叫は続く。脂汗を流し、目玉が飛び出しそうなほど目を見開いて叫び続ける。


「弥紘さん!!!」


 気づけば立ち上がり、駆けだしていた。


「弥紘さんっ……弥紘さんっ……!!!」


 その背中に己の身をぶつけるようにして絃那は抱きつく。

 弥紘は、こちらを見ない。


(嫌だ)


 絃那は必死で弥紘にしがみつく。

 お願い。こっちを見て。弥紘をぎゅうぎゅうに抱きしめ、泣きながら「弥紘さん、弥紘さん」と繰り返す。


 と、弥紘が、ようやく絃那の存在に気づいた素振りをみせる。

 絃那は弥紘の背に顔を押しつけ、一層強く彼を抱きしめる。


 ――小さく、息を吐きだす音が聞こえた。


 絶叫が止む。

 恐る恐る様子を窺うと、床の上のグレイが泡を吹き、ぴくりとも動かなくなっているのが目に入る。絃那は息をのむ。


「死んでない」


 弥紘はぼそりと言う。「気絶しただけだ」


「そう、ですか……」

 安堵した絃那は、弥紘を見上げる。


 すると、すっと目を逸らされる。それは何気ない仕草だったが。


 絃那の胸に不安がよぎる。まただ、と思う。よく分からないけれど、また、唐突に突き放された。


 思わず弥紘の身体にまわした腕に力がこもる。


 何か言わなきゃと口を開こうとしたその時。こちらに近づいてくる複数の足音が聞こえて。


「おーおー。これはまた派手にやったなあ」


 場違いなのんびりした声とともに、すらりと細身の美しい男が現れる。


 弥紘と同じくパーティーから抜け出してきたかのような格好をしている彼、門廻隆成は、床に倒れているグレイを一瞥し、どこか意外そうな顔をした。


 それから弥紘と、弥紘にしがみついている絃那に視線を向けて。面白がるようにじろじろ見つめてくる。


 そうしている間に、隆成の部下らしき男たちがグレイを拘束し始める。


 状況を把握しきれない絃那だったが、弥紘にぽんと頭を叩かれ「行こう」と部屋の外へと促される。


「先に邸に戻ってる」


 すれ違いざまに弥紘が言うと、隆成は頷いて、


「うん。僕もすぐ戻るから。あとで部屋で話そうか」

 にこやかにそう返事した。


 行こう、と弥紘がもう一度絃那を促す。

 背中に隆成からの視線を感じつつ、絃那は弥紘とともにその場を後にした。




 結局、ここはどこだったのだろう。

 外に出た絃那が、目に入る見覚えがない景色に戸惑っていると、弥紘が「西区の端の方」と教えてくれる。


 どうやらここは、近々解体して新しく別のものを建て直す予定になっていた医療施設らしい。


 幻月島の、夜の、廃病院。


 屋内の様子からみて、言うほど古い建物ではないはずなのだが。

 廃れた、というより破壊されたように見えるボロボロの外観は、もしかして弥紘が突入した際の異能でこうなったのだろうか。


 なんにせよ、改めて外から建物を見上げると……ホラーだ。


 絃那は促されるまま、近くに停まっていた車のひとつに弥紘とともに乗り込む。


 車の中から改めて廃病院を眺める。グレイの仲間の男たちは皆捕まったのだろうか。奈央はどうなっただろう。

 ガルム――幻月島における警察官である――の姿は見当たらない。あたりは静かなものだった。


 車が動き出す。

 建物が遠ざかると、ようやく解放されたという実感がわいてくる。

 暖房の効いた車内、柔らかなシート。安心すると、途端に疲労感に襲われる。


「疲れただろ。邸に着くまで休むといい」


 気づいた弥紘がそう声をかけてくれる。


 門廻邸に着いたら彼と話をしなくてはならない。それまでに頭の中を整理しておきたかったのだけど。


(少しだけ……)


 絃那は目を閉じる。そうしていつしか夢の中に落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る