第9章ー2
頼りになる上に、本人が「応援する」と意思表示してくれているとはいえ、なんでもかんでも相談するのはどうなのだろう。
そんな迷いも、実際本人を目の前にするとすべて吹き飛んだ。
「飛鳥さん……っ!」
絃那は前方を歩く見慣れた赤髪男子に向かって駆け寄る。
隣に弥紘はいないと分かって、さらに足を速めた。
昼休み。担任に用事があって職員室を訪れていたその帰りだった。
思いのほか話は長引き、少々げんなりしていたが、素晴らしいタイミングで絃那を解放してくれた。担任に感謝だ。
「お? ああ、絃那ちゃん」
気づいた飛鳥が笑って応じてくれる。
いつもと変わらない彼に絃那はほっとする。飛鳥にも突き放された可能性を考えなかったわけではない。
「今、お忙しいですか?」
「いや? なに、そんな慌ててどしたの。もしかしてまだ弥紘と喧嘩してる?」
通行人の邪魔にならないよう飛鳥は絃那を連れ、廊下の端による。
「喧嘩……ではないと、思うんですけど……」
絃那にも分からないのだ。むしろ教えてほしいくらいだった。
「……あの。弥紘さんって……もしかして好きな人います?」
声を潜めて尋ねると、飛鳥はぽかんとする。
「え? 絃那ちゃんじゃないの?」
なんだ知らなかったのか。てっきり飛鳥はすべて承知の上だと。
絃那は少し気まずくなる。
「えっと……これは内緒なんですけど、実は私たちの婚約はお互いの利害関係が一致して成立したものであって。だから私、別に弥紘さんから好意を持たれてるわけじゃないんですよ。今朝も、お飾りの婚約者であることを釘さされましたし。弥紘さん、『お互い浮気は容認しよう』みたいなことも言ってきて」
「浮気は容認」
好きにしていい。俺も好きにする。――そう言われたのだ。
絃那がかいつまんで話すと、飛鳥は苦笑した。
「あー……うん、多分だけど、それはねえー……」
何かを言いかけた飛鳥は「おっ」と声を洩らし、
「ごめん、また今度教えてあげる。ほら、本人来ちゃったから」
えっ、と言う間もなく、背後から「何してんだ」と声がした。
「……弥紘さん」
足を止めた弥紘は、飛鳥と絃那を見比べて怪訝そうにする。
飛鳥は問われる前に笑って言う。
「たまたま会ったんだよ。ね?」
「は、はい」
嘘ではない。
「ふうん」
絃那は目を泳がせる。
どんな顔をして話せばいいのか分からない。逃げるような形になってしまうけれど、適当な理由をつけて退散しようか――
「そういえばさあ。絃那ちゃんたち、もうすぐ調理実習あるでしょ。クッキーつくるやつ」
「え、なんで知ってるんですか」
驚いて絃那は飛鳥を見つめ返す。確かに、彼の言うとおりなのだが。
「ああ、俺、家庭科の先生と仲良いから」
あはは、と飛鳥は笑って、
「ね、つくったクッキー俺にちょうだい。絃那ちゃんがつくったやつ食べたい」
飛鳥がとてもよく食べる人なのは、絃那も知っている。
普段お世話になっていることもあり、絃那は快く頷く。
「いいですよ、もちろん」
「……飛鳥」
と、弥紘が低い声で呼ぶ。
圧のある視線を向けられても、飛鳥は飄々と返す。
「なに? 欲しいなら弥紘も貰えばいいでしょ。ねえ?」
眉間に皺を寄せた弥紘は目を逸らして言った。
「俺は――いらない」
ずき、と絃那の胸に鈍痛が走る。
「あれ、いらないのー?」
「……くれるなら貰う。他に渡したいやつがいるなら、無理にくれなくていい」
「弥紘……お前なあー……」
続く会話は絃那の耳に届かない。
いらない。いらないのか。
そもそもあげようと元から考えていたわけではないけれど。調理実習であって、授業の一貫であって、弥紘のためにつくるわけではないけれど。
面と向かってはっきり言われると、なんだか……へこむ。
気分が落ちていく。もう会話を切り上げてこの場を去ろうか。そう思ったその時。
「あ、十六原さんーっ!」
廊下に響く声に何事かと振り向けば、奈央がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
絃那の元までやってくると、奈央は困り顔で言う。
「さっき、枦川くんが探してたよー? なんか用事があるみたいでっ……」
「枦川?」
なんだろう。でも、彼女はいいタイミングで来てくれた。
絃那は弥紘と飛鳥に頭を下げる。
「じゃあ私はこれで――」
歩き出そうとした絃那だが、途端にガシッと腕を掴まれ、つんのめる。
驚き振り向くと、弥紘と目が合った。
はっとした弥紘は、ばつが悪そうに絃那から手を離す。
その横で、飛鳥が手で口元を覆い、小刻みに身体を震わせている。
ぽかんとする絃那。
弥紘はくしゃっと頭を掻き、ため息を吐いた。
彼は絃那の左手をとり、両手で包むように握る。
「弥紘さん……?」
「……なんでもない。俺はこの後早退してそのまま2日ほど島を不在にする。次会うのは3日後だな」
「は、はあ……」
そうなんですね、とひとまず頷く。
弥紘が手を離す。結局よく分からないまま、絃那はもう一度2人にお辞儀をして、その場を後にした。
理九を見つけるのには少々時間をとられた。
てっきり教室にいるのだと思ったが。何人かの知り合いに尋ねながら、最終的に新棟の屋上に辿りついた絃那は、
(スマホで居場所聞き出せばよかった……)
と今更ながら思いつつ、目の前の重いドアを開ける。
照りつける日差しとそよぐ新鮮な空気を浴び、絃那は広い屋上を見回す。理九は――いた。
「枦川」
端の方で1人寝転がっていた枦川は、絃那に気づくと身を起こす。
「? 何?」
「何って、枦川が私に用事あるんでしょ?」
尋ねるも、理九は「はあ?」と言いたげに首を傾げる。
「……あれ、違った?」
何かの行き違いだろうか。
「違うならいいや」
と、絃那が踵を返そうとすると、
「――待て」
絃那は足を止め、振り返る。
「あー……いや、用事があるといえば、あったような気も…………」
胡坐をかいて座った理九はごにょごにょ言いながら、視線を彷徨わせる。
「何?」
「まあ、座れよ」
と、理九は自分の隣をポンポン叩く。
言われた通り絃那は腰を下ろす。
再び理九に向き合うと、彼はなぜか固まっていて。その目は、絃那の左手を凝視していた。
「お前、それ――」
「? ……ふぁ⁉」
左手の薬指に見覚えのある指輪がはめられていた。
弥紘の指輪。ガジェットだ。
(いつの間に⁉)
手品か。心の中でツッコミながら、絃那は素早く指輪を抜いて制服のポケットに押し込む。
まったく、何を考えているのだろう。
スペアがあるから、オオカミ化できないなんて事態にはならないだろうけれど。ガジェットはきちんと管理しなくてはいけなくて、無くしたら厳罰が下されることもあるとかなんとか、噂を耳にした。最悪、もう二度とガジェットを持てなくなる可能性もある、と。
なんてもの預けてくれたのだ。
2日ほど不在にすると言っていた弥紘の言葉を思い出す。これで2日間、絃那はガジェットを紛失するかもしれない恐怖に怯えながら過ごさなくてはならなくなってしまった。
「お前ら、まだ続いてんの?」
理九がため息まじりに言う。
「ったく、あんなののどこがいいんだか……」
「あんなのって」
弥紘たちのことを悪く言わないでほしい。絃那はふいと視線を逸らし、屋上の床に視線を落とす。
「枦川よりは優しいし」
「あぁ?」
ほら、すぐそうやって睨んでくる。
理九は「けっ」と吐き捨てるように言って、
「知ってるか、オオカミって大半が特定のパートナーを持たずに生きるんだぞ。遊びで付き合うことはあっても飽きたら即捨てる。価値観が違うんだよ、俺らとは」
理九の言うような話を聞いたことはある。
オオカミは恋をしない――そんな説が出回っているのだ。彼らはこの世の原理・法則を破り、何物にも囚われない、孤高の存在だから、と。
実際にはパートナーを持つオオカミだっているにはいるのだが、それはオオカミの中にヒトの本能が残っていて、そうさせているに過ぎない。
それを裏付けるように、強いオオカミで、人並外れた強い力を持つレベルA以上のオオカミでパートナーを持つ者は、現在でも極少数に限られている。……と、どこかのコメンテーターが言っていた。
本当なのかどうかは怪しい、と絃那は思っている。そもそもレベルA以上のオオカミ自体が少ないから、信用に足るデータとは言えない気がするし。それに……
「……ヒトだって、中にはそういうタイプもいるじゃん。そんなの個人によるんだから、オオカミってだけで決めつけちゃ駄目でしょ」
自分が愛されているとは絃那も思っていない。浮気を容認されたし。
でも、大事にはされていると思うのだ。
事あるごとに、弥紘はオオカミが苦手な絃那を気遣ってくれる。
それに弥紘と飛鳥だって、お互いを大事に思いやっているし。
彼らは、そんな冷たい心の持ち主ではないと思う。
絃那に反論されるとは思っていなかったのか、理九は目を見張る。
「お前、変わったな」
その声には、どこか呆れと軽蔑が含まれているような気がして、絃那は口を噤む。
(だって)
嫌いではないのだ。弥紘が。
でも、そうやって弥紘の嫌いじゃないところを見つけて、親しみを覚える度に、それは父への、母への、ひどい裏切りのような気がして。
絃那は、苦しくなる。
父はどう思うのだろう。
何よりも母を大事にしている父。
妻が1番、娘が2番、自分が3番――そんな優先順位をつけている父が、母を愛している父が、絃那は好きだけど。
父は、オオカミに絆されかけている今の絃那を知ったら、どう思うのだろう。
「弥紘さんたちは……違うんだよ。門廻のオオカミは、あの事故には関わってないの。そう、言ってたの」
言い訳じみたことを口にしてしまう。
そんな絃那を、理九は鼻で笑った。
「そりゃそう言うだろうよ。事実がどうであれ」
ぐっと言葉に詰まる。分かっている。でも、絃那はそう信じたいのに――
「はあ……枦川とは分かり合えないなぁ……」
「うるせぇよ」
ふんとそっぽを向かれてしまう。
絃那は空を見上げた。晴れ晴れとした青空。
『空が青いのはドジな天使が上空で青い絵の具をぶちまけたから』
いつかのトンデモ理論を思い出し、口元が少し緩む。
早退すると言っていた弥紘はもう学園を出ただろうか。
本土に行くようだったけれど、1人で行くのだろうか。誰かが隣に――オオカミの可愛い女の子が、隣にいたりして。
想像した途端、胸の奥が軋んだ。
手作りクッキーを『いらない』と言われたことも思い出し、絃那の目線が下へ下へと落ちていく。
絃那は項垂れる。膝を抱いてうずくまる。
「……付き合うのって難しいなぁ……」
ぽつりと言葉が零れる。
「オオカミなんか相手にするからだろ」
投げやりに言った理九は、そっぽを向いたまま小さく続ける。
「もう俺にしとけば?」
あはは、と絃那は笑った。
「枦川も冗談とか言うんだね」
理九はひくりと頬を引きつらせ、ため息を吐いて。
「やっぱお前、ムカつく」
そう、呟いたのだった。
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