第9章ー1

 予てより眠りが浅い自覚が絃那にはあった。


 流石に赤ん坊の頃は違っていただろうが、物心ついて母の目が不自由であること、それによって生じる不便さを理解し始めた頃には、その傾向が出ていたと記憶している。


 何か物音を聞きつける度に絃那は目が覚めて『お母さんは大丈夫かな』と確認した。

 大丈夫だと分かるまで眠れなかった。

 小学生になり、自分の部屋を貰い、別々に眠るようになってからも、密かな安否確認は続いた。


 暗い中、自室を出て廊下を手探りで進み、両親のいる寝室まで歩くのは少し怖かった。

 でも、明かりはつけたくなかった。

 母はいつも真っ暗な何も見えない世界の中で生きている。それでも絃那を見つけてくれる。優しく笑いかけてくれる。

 だから絃那も母を見つけたかった。同じ闇の中で、見つけて、抱きしめる。

 時々失敗して、逆に母が迎えに来てしまうこともあったけれど。

 母はいつだって嬉しそうで、絃那も嬉しかった。


 そんな生活を送っていた絃那だが、睡眠に費やす時間自体はむしろ多いくらいだったため、体調に大きな支障をきたすことはなかった。

 怪我も病気もなく、すくすく育った。


 眠りが浅い故に困ったことなんて、よく夢を見ること――というか、そのせいで「絃那ちゃんめっちゃ寝言言ってた、ウケる」と修学旅行で同室になった友人らに笑われたことくらいだ。そう、だったのだ。


 見る夢がすべて悪夢に変わったのは、例の事故の後だ。


 夢の中で、絃那は決まって母の訃報を知らされる。

 取り乱し、息を切らせながら病室に駆けつける絃那は、現実の年齢より幼い時もあれば、疾うにやめたはずの習い事をやっていたりして、よく考えればすぐに夢だと分かりそうなものなのだが、そんなあからさまな違和感に気づく余裕もない。


 冷たくなった母を前にして、傍に立つ父に縋りついて、絃那は涙を流す。泣いて泣いて、喚いて、世界に絶望して――そして、目を覚ますのだ。


 悲鳴を上げながら跳ね起き、あたりを見回し、全部夢だったと理解した時のあの安堵感と言ったらない。


 どうせ今夜も悪夢を見る。身体が睡眠を拒絶するようになるまで時間はかからなかった。

 一時は病院で強めの薬を処方されるまでになった。


 それでもどうにか元の生活を送れるようになったのは、寄り添ってくれた父や友人たちのおかげだ。

 母が事故に巻き込まれたと知って、一緒に泣いて、自分のことのように怒ってくれた中学の同級生たち。そして、枦川理九。


 いつもいじわるしてくる理九が、その時は珍しく絃那を気遣ってくれたのを覚えている。

 彼の顔にはやるせなさが滲んでいた。理九の父親は警察庁に勤めていて、彼もその道を目指している。進展のない捜査に思うところがあったのかもしれない。


『……おかしいよな。マジで、何やってんだか……』


 理九は父親とその仕事をとても尊敬していたのに。

 受け入れられない絃那を否定しなかった理九に、一緒に怒ってくれた理九に、絃那はとても感謝した。


 たくさんの人に支えられてきたと絃那は思う。


 残念ながら、中には陰で心無い言葉を囁く者もいた。

 事故直後こそ優しい言葉をかけてくれたものの、時間が経ち、それでもしばらくショックを引きずっていた絃那に対し、悲劇のヒロイン気取りだのなんだの、あまり親しくないクラスメイトたちが言う声を聞いたこともある。

 自分のことはともかく、母のことまで悪く言われだした時には、怒りと悔しさでどうにかなりそうだった。


 それらの苦しみを含めて、こうして乗り越えることができたのはやはり、自分が1人じゃなかったからだと思うのだ。


 絃那1人では、絶対駄目になっていた。今の自分があるのは寄り添ってくれた彼らのおかげだ。


 ……だから。

 きっと、放っておけなかったのだろう。辛さは分かるから。少しでも楽になってほしいと思わずにはいられなかった。


 両腕で包んで、あったかくして、共にこの夜を乗り切る。


 大丈夫。

 所詮、夢は夢でしかない。何も心配することなんて、ないのだから――。




(……結局またこうして眠ってしまった)


 目が覚めて現状を把握した絃那は、心の中で小さなため息を吐いた。


 腕の中には弥紘が収まっている。

 少し前の自分なら、卒倒してしまいそうな状況だ。


 絃那は手を伸ばし、眠っている弥紘の黒髪をそっと掻き分け目元を確認する。クマはできてない。きちんと眠れたようだ。


 安堵していると、弥紘の口元が僅かに動いて。弥紘が身じろぎする。


(わっ……)


 より温かい場所を求めるように、弥紘は絃那の身体に擦り寄り、顔を埋めてくる。


 猫、と思いながら絃那は弥紘の背中をさする。

 気まぐれで甘えたな黒猫さん。彼が年上だということを、絃那は時々忘れそうになる。


 それより大丈夫だろうか。

 この体勢、呼吸しづらくないのだろうか。そろそろ起こしてもいいだろうか。

 でも昨日みたいなことになったら困る。起こさないように離れるか……


 弥紘の手は絃那の服を掴んでいる。それをゆっくり少しずつ外していく。


「……ん、……」


 もぞりと弥紘が動き、絃那の心臓が跳ねる。

 起きて――は、いないようだ。

 が、せっかく外しかけた手がまた握りなおされ、身体はさっきよりも密着してしまった。

 近い。腰のあたりに回された手の感覚が服越しに伝わってきてくすぐったい。というよりなんだかぞくぞくする。


『かわいい』


(――っ)

 ふいに甘い声が耳をよぎり、絃那は動揺する。

 昨日の記憶が一瞬で蘇る。


 本当に、なんだったのだろうあれは。弥紘の声ではない。弥紘はあんな甘々な声を出さない。


 絃那自身、寝ぼけていた自覚があった。だから多分、幻聴だ。そうなんだと思う。


 恐ろしいことに、それ以外は全て現実に起こっていたらしい。


 それを裏付ける痕が肌にしっかりと残されていた。絃那がそのことに気づいたのは、既に大半のクラスメイトに見られた後であり、なんとも言えない顔をした麻由里に「これ使う?」とコンシーラーを渡された時だった。


 鏡で首元を確認して絃那は絶句した。こんなことになっていたなんて思いもしなかった。

 寝起き直後からずっと混乱して、朝はまともに自分の姿を確認しなかったのが悔やまれる。

 それでも普段なら、ここまで大々的にバレることはなかったのに。

 体育でマラソンをやったのが運のツキだった。ああ、邪魔だからといってポニーテールになんかしなきゃよかった。汗だくになったからといって、ジャージを脱がなければよかった。


「もう無理ー! いっそ死んじゃいたいー!」


 机に突っ伏して頭を覆って絃那は叫んだ。叫んだところで皆の記憶が消えるわけではないと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。


 弥紘に悪気がなかったのは理解している。

 彼もまた寝ぼけていた。そもそも普段の彼は絃那を保温機能付きの抱き枕的なもの程度にしか思ってない。あれは完全に事故だった。


 そんな弥紘に思わず八つ当たりしてしまったのは少し後悔している。


 でも絃那は恥をかいたのだ。絃那だけが恥をかいたのだ。滅茶苦茶恥ずかしかった。少しくらい許して欲しい。


 絃那はため息を零す。覚悟を決める。


「朝ですよ弥紘さん。起きましょう」


 声を張って言いながら、何よりも先に弥紘の口元を手で塞ぐ。これで事故は起こらない。

 空いている手で弥紘の身体を強めに揺すると、彼は目を開ける。


「おはようございます。いい朝ですね」


 さっさと腕を外し、絃那はベッドからおりて窓に近づく。

 昨晩大雨が降ったような気がするが、空はからっと晴れていて、地面にぬかるみもない。

 朝日をたっぷり室内に入れると、弥紘が眩しそうに目を細める。


「……朝から元気だな」


 弥紘はまだ眠そうだが、身を起こし、欠伸をする。そしてぼんやりと絃那を見て――石のように固まった。


「? なにか?」


 弥紘は数秒おいて、ようやく「首」と答える。

「首と鎖骨のそれ――」


 彼の視線は絃那の肌に残るキスマークに向いていた。


 えっ、と絃那は驚く。

「今さら気づいたんですか⁉」


 たしかに麻由里の貸してくれたコンシーラーのカバー力は素晴らしかった。昨夜入浴するまで、しっかりとその役目を果たしてくれていたけれど。


 絃那は歩いて弥紘のところまで戻り、ベッドにのって、姿勢を正して正座する。

 コホンと咳払いして、真面目な顔で言う。


「分かってます、事故だってことは。ただ、このせいで私、昨日はすごく、すごく恥ずかしい思いをしました。それだけは胸にとめておいて欲しいですし、今後このようなことがないように気をつけていただきたいです。……聞いてます? 弥紘さん」


 呆けたような顔をしていた弥紘は、ようやく口を開く。


「……もしかして昨日機嫌悪かったのそれのせいか?」

「そうですけど」

「『もう無理ー! いっそ死んじゃいたいー!』って泣き叫んだのも?」

「……なんで知ってるんですかそんなこと」


 戸惑う絃那を他所に、弥紘はがくりと頭を下げる。

 彼は絃那の腕をとり、自分の元に引き寄せる。


「昨日は全然気づかなかった……」


 そう呟いて。弥紘は絃那の肌を、つつ、と指でなぞり、そこに付いた痕をまじまじと見る。


 至近距離で見つめられるのは落ち着かない。絃那は目線を逸らして言う。


「私も体育の授業で着替えた時にやっと気づきました。すぐコンシーラー塗って隠しましたけど……」

 時すでに遅し、です。と絃那は遠い目をする。


 弥紘は気まずそうに言う。

「それは……悪かった」


「はい。私だけがものすごく恥ずかしい思いをしました。反省してください」


 すると何を思ったのか。

 弥紘は困り顔で少し考え込んで、


「じゃあ……えっと、絃那もつけるか……?」

 と、彼は着ているシャツの首元に手をかける。


「はい?」

「キスマーク。それでおあいこってことで――」

「ちょっ、結構です! しまってください!!!」


 絃那が顔を真っ赤にしてブンブン手を振ると、弥紘は「そう」とボタンを外しかけていた手を止める。……なぜちょっと残念そうなのか。


 ともあれ絃那は安堵のため息を洩らす。


 すると、弥紘がポツリと呟く。

「絃那は……それ、見られると困るんだ?」


 絃那はぽかんとする。


「困りますよ! だ、だって、こんなの見られたら、ごごご誤解されるじゃないですかっ」


「誰に」

「誰にって……皆! 全員ですよ! 私、ふしだらな女だと思われるのは勘弁なんですけども!」


 叫びながら絃那は困惑する。

 なんだ、この弥紘との間の温度差は。

 もしかして彼は、羞恥プレイをお好みの方なのだろうか。


「あの、ほんと勘弁してください……」


 切実にお願いすると、俯いていた弥紘が顔を上げる。視線がぶつかる。


「弥紘さん……?」


 弥紘はふっと瞼を下げる。


「初対面だったのに婚約を結んでくれて、俺は本当に助かってる。ありがとう」

「へ? は、はあ……」


 いきなりなんだろう。絃那が戸惑っていると、


「悪いが俺はもう、婚約を取り消すつもりはないから。お前が内心で他の誰を想っていようが構わないけど、表向きは、俺の婚約者だってこと忘れないでくれ。それさえ守ってくれるなら後は好きにしていい。俺も……好きにするから」


「……どういう意味ですか?」

「そのままの意味だよ」


 答えになっていない。絃那は眉を下げる。意味が分からない。ただ――なぜか急に突き放されたのは、分かった。


 心臓が騒ぐ音を聞きながら、絃那は恐る恐る、弥紘の手に触れる。


「私が言ったこと、何か気に障りました……?」


 変なことを言ったつもりはない。常識的なお願いをしただけだ。なのにどうして。


 婚約は取り消さないと言っているのだから、金銭援助は断ち切られない。

 それなら絃那としては問題ないはずなのに、弥紘に突き放されたことに、思いのほか動揺している自分がいる。


 説明が欲しい。絃那は弥紘を見上げるが、弥紘は何も言わず、不安で瞳を揺らす絃那の頭を撫でる。

 手つきはいつもどおり優しいのに、なんだか悲しくなる。


「……一度きちんと確認しておこうと思っただけだ。何かを変えろってわけじゃない。今までだってそうだっただろ? だからこれからも、そんな感じでよろしく頼む」


 この話はこれで終わりとでも言うように、弥紘は「朝食食べよう」と立ち上がる。


 絃那は上手く笑えない。

 1人、置いてけぼりにされた気分だ。

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