第8章
カタン、と物音が聞こえ、霧崎伊織ははっと目を開ける。
(……窓の音、かあ)
風が少し出てきたようだ。カタカタ、小さな音が続く。
ベッドの中からそろりと抜け出して、伊織は窓辺に近づく。
外は濃い闇が広がっている。
(大丈夫)
伊織は自分に言い聞かせる。こんな森の奥の湖畔にひっそりと佇むお屋敷に、誰もやってこない。
お客さんなんて来たことがない、ってあの人たちも言っていた。だから大丈夫。
伊織はベッドに戻る。ごろんと寝転がって、両手足を投げ出し、天井を見上げる。
静かだな、と伊織は思う。
自分の耳に届いてないだけかもしれないけれど、静かなものだった。やはり田舎の女子中学生が1人失踪したくらいでは、世間は動じないのだろうか。それとも、あの人たちがこっそり裏で手を回しているのかな。
このまま忘れてくれたらいい――
自分は、こうしてひっそりと生きていくから。どうぞ忘れて。
静かに目を閉じて、伊織は思い出す。彼女の運命を大きく動かした、あの日の出来事を。
***
――約3週間前。
ホテル天之牙、スイートルームにて。
伊織は見知らぬ男女とテーブルを囲んでいた。
いや、正確には『見知らぬ』ではない。つい先ほど、互いに軽い自己紹介を済ませている。
大きなガラステーブルを挟んで向かい側、正面に座っているどこかミステリアスな雰囲気の女性は
すっきりとしたベリーショートの髪に、縦幅が大きい一重の目を生かした濃いめのメイクが特徴的な彼女は、先刻、伊織を屋上庭園から連れ出してくれた人だ。
庭園を出て彼女らの泊まっているというこの部屋まで移動する際に行動を共にしたのだが、我が道を行くスタイルに見えて、所々仕草に気品があり、育ちの良さが伝わってきた。正確な年齢は伏せられた。20代後半、とだけ言っていた。
そしてその隣、伊織から見て斜め前に座っているのは、これまたどこかミステリアスな雰囲気を持つ男性。
名は
彼は無造作ヘア……は、寝起きだからかもしれないが、身体の線が細く、ほんのり気だるげで、妙な色気がある。伊織のまわりにはいないタイプだ。
室内には、少し前から沈黙が流れていた。
伊織は何を喋っていいのか分からなかったし、一空は万里の方をただじっと見ていて。
その万里はというと、手元のスケッチブックを――伊織のスケッチブックを、静かに見下ろしていた。
ビー玉のような水色の瞳で、見下ろしていた。
伊織がこの部屋に足を踏み入れた時には、彼は髪も瞳も黒色をしていたのだが、今はどちらも水色に染まっている。
……オオカミ、なのだ。彼は。
伊織の身近には、オオカミがいない。今日初めて、生で見た。勿論、話には聞いていて、たとえば満月を見て変身するだとか、そういうことは知っている。
知っているからこそ、余計に分からない。
どうして万里は、あのアリスは、オオカミになった――?
ふと、万里が顔を上げる。「伊織」
はい、と肩をびくつかせながら伊織は返事する。
ちなみに伊織も彼らに名前だけは名乗っている。知らない人に教えるのは若干の抵抗があったものの、まあ名前だけなら大丈夫だろう、と。珍しい名前じゃない、『伊織』はきっと全国にたくさんいるからいいや、と思ったのだ。
万里は伊織を見つめ、口を開く。
「どうやらキミは、偽月を創る才能があるようだ」
「偽、月……?」
万里は頷いて、
「オオカミが満月を見て姿を変えるのは知ってるだろう。それと同じことが、キミの描いた絵を見て起こった。これはれっきとした――偽月だ」
伊織は言葉を失う。
「信じられないわよね」
と、一空が呟く。
「でも……これさえあれば」
一空が万里をちらりと見る。
妹の視線を受け止めた万里は押し黙り、再びスケッチブックに視線を落とす。
そんな彼に、一空は思わずといった様子で口にする。
「ヒトのせいで不自由な暮らしを強いられる現状に不満を抱いてるオオカミはたくさんいるのよ? 兄さんだって――」
「……分かってるよ」
万里は一空の言葉を遮り、
「だからこそ――これは慎重に、上手く使う必要がある」
淡々とそう言う彼は、瞳を怪しく光らせた。
「あっ、あの――」
置いてけぼりにしないでほしい。伊織は泣きたくなりながら割って入る。
「私、私はこれから……どう、なるんですか……?」
瞳が揺れる。漠然とした不安に、伊織の心拍数がどんどん上がっていく。
万里はそんな伊織を気遣うように、ゆっくりと告げる。
「キミが偽月を創れると分かれば、多くの者に狙われると思う。偽月を求めるヒトもオオカミも世の中には腐るほどいるから。反対に、意地でも、そいつを殺してでも、創らせたくないって人達もいる。そういった全員から、狙われる」
ぞっとする伊織に、彼は追い打ちをかける。
「警察に駆け込んで保護してもらうのもひとつの手だけど、お勧めはしないよ」
「どう、して……?」
「キミは、ご家族とは仲がいいの?」
急に話を変えられ伊織は戸惑うが、おずおずと頷き返す。
すると万里は言った。
「なら、尚更お勧めしないかな。警察に保護してもらうためには、キミの能力を明かす必要があるだろう? でも警察って国の組織だから。安全が保障された暮らしを手に入れるまでに、たくさんの段階を経ることになる。その過程で、たくさんの人がキミの能力について知ると思う。勿論彼らは口外しないよう徹底するだろうけど、秘密を知る人が多いってことは、すなわち秘密が漏れる可能性が高まるってことだ。
秘密が漏れたら、危ない目に遭うよ。偽月を求める連中なら、狙いはキミ自身だからまだいいけど。オオカミ嫌いで偽月を創らせたくない連中はキミと、キミの家族にも憎しみを抱くんじゃないかな。でも、警察はキミを厳重に守ってはくれても、家族は同等には守ってくれないよ」
万里は困ったように笑って続ける。
「オオカミを嫌いな人ってね、たくさんいるんだよ」
屋上庭園で見た、アリスの母親を思い出す。
伊織はもはや真っ青になっていた。
実は伊織の住む町にもオオカミを毛嫌いしている人たちがいる。オオカミが生まれたらその家族ごと町から追い出す、と平然と言って笑っていたのを覚えている。
自分の能力がバレたら、そのせいで父が、母が、嫌な思いをするかもしれない。
ひどい嫌がらせをされて、今住んでいるところから出て行かないといけなくなるかもしれない。引っ越したその先でも、また嫌なことをされるかもしれない。家も、仕事も失って。生きていけない。だって、居場所がどこにも……
「私、私っ、もう描きません……!」
伊織は叫ぶように言った。
「もう月なんて描かない。それならもう誰にもバレないし――」
「そういうわけには、いかないんじゃないかな」
え、と伊織が戸惑った声をあげると、
「だってほら、もう、俺たちが知ってしまったし」
万里のその声は、ひどく冷たい響きを持っていた。
しん、と室内が静まり返る。
「――伊織。俺たちと取引しないか」
トリヒキ。伊織は呆然と万里を見つめ返す。
「キミの能力について秘密を守る。家族に危険が及ばない形でキミの身も保護する。だから、俺たちに月を――偽月を創ってくれないか」
断ったらきっと秘密をバラされるのだろう。考えうる最悪の形で。そう思える何かが、万里の言葉から感じられた。
これは交渉じゃない。脅しだ。
伊織はからからに乾いた喉を動かす。
「保護って……どうやって……?」
「キミに失踪してもらう」
目を見開く伊織に、万里は淡々と言う。
「今この場で失踪してしまうと、屋上庭園での騒ぎと結びつけられるかもしれないから、1週間後にしよう。それまでに、もし他にも月を描いた絵を所持してるなら処分しておいてくれ。いつキミの才能が開花したのか分からないから、念のため」
伊織ははっとする。
「あの、屋上庭園で私っ……あの女の子に、オオカミ化した子に、顔見られちゃってて……」
そもそも詰んでいるのではないか、と伊織は不安が濃くなるが。
「大丈夫よ」
一空がしばらくぶりに口を開く。
「あのオオカミの女の子はまだ小さかったから、本人も状況を掴めてないだろうし、聞かれても上手く説明できないと思う。直前に絵を見た、ってことまでは言えるかもしれないけど」
そう言って、一空は伊織のスケッチブックを手に取る。
「これを見て『月の絵を見た』とは思わないわ。多分、『お菓子の家の絵を見た』って思う」
一空の言うとおり、そこに描かれているのはファンタジックなお菓子の家だ。
旅行先で見かけた立派な日本家屋を、伊織がお菓子の家に変えて描いた。その背景の夜空の隅にひっそり描かれている月が――まさかの偽月だったのだ。
「それに、騒ぎで視線を集めてたのはオオカミの子とその母親だったから、私以外、伊織が傍にいたことに気づいてないと思う。大丈夫よ。
不安なら、今のうちに、この絵に手を加えちゃえば? 要は月じゃなくしてしまえばいいんだし」
たしかに。
伊織は慌てて色鉛筆を取り出す。
万里が言う。
「ついでにもう一枚、月の絵を描いてくれるか? キミの失踪をきちんと成功させるためには異能を使った方が確実だから。俺も持っておきたい」
そうだ。異能。オオカミは、不思議な力を使えるんだ。
どんどん現実感がなくなってくる。……でも、これは紛れもない現実なのだ。
「本当に……大丈夫、なんですよね……?」
伊織が尋ねると、万里は頷く。
「失踪してからの生活も心配しなくていい。何か困ったら俺や一空がどうにかする」
一空も彼に同調する。
「私たち親がいなくて、元は施設で育ったんだけど、子供のいない資産家のお爺ちゃんお婆ちゃんが養子にしてくれてね。2人はもう亡くなってしまったけど、私たちにお金とか家とか土地とか、たくさん残してくれたのよ。おかげで私も、お兄ちゃんも……今までいろんなものから身を守ることができたわ」
いろんなもの、を彼女は強く言った。そして続けた。「だから、大丈夫」
ヒトと、オオカミと。同じ血を継ぎながら大きく別れてしまった兄妹が、これまでずっと一緒に生きてこられた。こうして高級ホテルなんかにも泊まりにきている。
それは、これ以上ない『大丈夫』の証だった。
伊織はごくりと唾を飲み込んで、頷いた。
不安は消えた。自分の中で何かが壊れ、そして新たに何かが生まれていた。
「そろそろご両親の元に戻るといい。残りの旅行を楽しんで」
やるべき打ち合わせと事前準備を終えると、万里は言った。
はい、と頷いて、伊織は席を立つ。
秘密を共有した3人の視線が交わる。
最後に万里が告げる。「それじゃ、また――1週間後に」
***
計画は滞りなく進み、伊織の失踪は成功した。
失踪から2週間ほどが過ぎ、その間、伊織はいくつかの偽月を創り出している。
それらが何に、どのように使われているのかを伊織は知らない。
彼女はただ、描くだけ。
そうして明日も、偽月を創り続ける――。
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