第4章ー3
そんなことがあった翌日の朝。
係の仕事があるという麻由里と、珍しく別々に登校することになった絃那は、寮を出て1人校舎を目指し歩いていた。
すると、ふいにドスッと背中に何かがぶつかり、
「よお」
「……痛い。普通に挨拶してよ……」
絃那は背中をさすり、理九が持つスクールバッグをジト目で見る。
理九は詫びもせず、バッグを肩にかけなおす。
2人並んで歩く。なんだか一緒に行く流れになってしまい、絃那は戸惑いを隠せない。
まあもうすぐ学園に着く。ほら、旧校舎のエントランスが見えてきて……
「お前さ、噂になってるぞ」
絃那は思わず理九の方を振り向く。「噂?」
「門廻のオオカミと付き合ってるとかなんとか」
「へ⁉」
絃那はぎょっとする。
「ななななんでっ、どこからそんな情報が」
やっぱり昨日のアレだろうか。カフェテリアでランチしたのがまずかったのだろうか。
激しい後悔が押し寄せる。
「は? ……おい、まさか本当なのか?」
微塵も信じてなかったのだろう。
絃那の反応を見て、理九は顔色を変える。
エントランスの近くということもあり、周りに人が増え始める。
絃那は声を落とし、理九に向けてそっと両手を合わせた。
「本当、だけどっ……あの、お願い、これ内緒にしといて」
今度こそ、理九ははっきり驚愕の表情を浮かべた。
「おまっ……正気か……? 忘れたのかよ、お前の母ちゃん――」
「お金が必要なのっ……!」
絃那は理九の言葉を遮る。
聞かずとも彼が何を言いたいのかは分かる。分かっているし、分かった上で――
「っ、私は、私の意思で決めたの。枦川には関係ないでしょ? 横から口出ししないで」
理九が鋭い目で絃那を睨んでくる。
絃那は怯みそうになったが、負けずに睨み返す。
そんな自分に少し驚いてしまう。
逃げるか、屈するか、理九と対立しそうになった際、これまでの絃那ならその二択だった。ずっとそうだったのだ。
理九もまた、絃那相手に睨み合いになるとは思わなかったようだ。
彼は瞳に僅かな動揺の色を浮かべた後、口を歪め、目線を落とす。
「……金があればいいのか?」
「へ?」
理九が絃那の腕を掴む。
「俺がどうにかする。だから――」
その時だった。
ふいに横から伸びてきた手が、絃那を捕まえ強く引き寄せる。
まったく反応できずバランスを崩しかけた絃那だが、倒れ込む前に、誰かがその身体を受け止め、支えてくれて。
「……え、弥紘さん……?」
見上げた絃那はぽかんとする。
冷ややかな目で理九を睨んでいた弥紘は、絃那に視線を移す。
おはよ、と彼は普段通りの声で言って、
「絃那、ちょっと話があるんだけど」
思わぬ闖入者に呆気にとられていた理九が、はっと我に返る。
「おい見て分かんねぇのか。今俺と話してるだろうが」
「は、枦川っ……あの、一応先輩だからっ……!」
そんな言葉づかいはよくない。
狼狽える絃那の頭上で、怒気をはらんだ2人の視線がぶつかり合う。
まずい。皆が遠巻きにこちらを見ている。非常にまずい。
焦った絃那は弥紘に声をかけようとした。
すると、弥紘がぱっと絃那の身体を離して。
彼はエントランスに向かって歩き出しながら、絃那の方を振り返る。
「行くぞ」
絃那は躊躇う。弥紘と、理九と、交互に見て。
とにかくここから立ち去った方がいいと判断する。
というか、そもそも絃那は弥紘の言葉に逆らえない。
「枦川ごめん、また後で――」
そう断りを入れて弥紘の元に向かう。
絃那が追いつき、隣に並ぶと、弥紘は理九に見せつけるように彼女の頭を撫で、最後に理九をひと睨みして。
絃那を連れ、その場を立ち去った。
この時間は誰も使わないという2階の空き教室までやってくると、弥紘は絃那を中に入れ、自身も入室して後ろ手にドアを閉める。
「弥紘さん、話って」
なんですか、と聞こうとした絃那に、弥紘は無言で近寄ってきて、
「わっ、えぇ⁉」
あっという間に壁際まで追い込まれ、抱きしめられ、絃那は身動きがとれなくなる。
目を白黒させていると、今度は急にゴンッと頭突きされて、
「痛っ……ちょっ、弥紘さ――」
「誰」
頭を押しつけたまま弥紘は低い声で呟く。
「さっきの男、誰」
「男……枦川ですか……?」
何やら様子のおかしい弥紘を気にしながら、絃那は答える。
「ただのクラスメイトですよ」
「……なんか妙に親しげだったけど」
「それはその、彼とは幼馴染で……枦川はなんというか、私をいじめるのが趣味みたいなところがあって……」
「へえ」
声が冷たい。
ちら、と絃那は弥紘の顔を窺う。
「あの、どこから聞いてました……?」
「『お金が必要なのっ……!』のあたりから」
そうですか、と絃那は顔を引きつらせる。
いや、でも、それは弥紘も承知のはずだ。隠していたわけではない。その上で婚約を結んだのだ。
なのになぜ、弥紘は怒っているのだろう。
やはり理九のせいだろうか。
彼は愛想が悪いから。絃那は慣れっこだが、初対面の弥紘は、理九に睨まれ、タメ口をきかれ、気分を害したのかもしれない。
思考に耽る絃那にまたしても頭突き――今度はそんなに痛くない――をして、弥紘は不機嫌な声で言う。
「つーか、昨日のも。あれ何。なんで俺に直接連絡しないわけ?」
「何がです?」
「昼食。一緒に食ったろ。絃那が3人で食べたがってる、って俺は飛鳥から聞かされたんだけど」
なぜか絃那がねだったことになっている。
まあ、それはこの際いいのだけど。
弥紘はジトッと絃那を見つめる。
「3人ってのも意味分からんし。何、俺と2人じゃ嫌なの?」
「当たり前じゃないですか! 弥紘さんと2人きりで食事なんて、そんなことしたら――」
絃那は最後まで言えなかった。
やばい、と冷や汗をかく。弥紘の機嫌がどんどん悪くなっていく。
でも、きっと例の噂が広がっているのを知らないから、彼はそんなことを言えるのだ。
事態は深刻だということを早く教えてあげなくては。
「あのですね、まずいんですよ弥紘さん」
そう、喧嘩している場合ではないのだ。絃那は真面目な顔で告げる。
「私たちが付き合ってること、学園で噂になってます」
一瞬、沈黙が流れて。
弥紘が眉をひそめた。
口を開こうとする彼を、絃那は手で制する。
「大丈夫、まだ何とかなります。噂は所詮噂ですからね。ひとまず片っ端から否定しましょう。それと、今後は会う頻度を――」
「なんで」
なんで???
「他の奴に知られると困るのか?」
尖った声で弥紘はそう尋ねてくるが、
「困……り、ます、よね……?」
あなたが。同意を求めるも、想定していた弥紘からの言葉はいつまで経っても返ってこない。
何かがおかしいことに、絃那はようやく気づく。
「え? あれ? もしかして弥紘さん嫌じゃないんですか?」
嫌じゃねぇよ、とぶっきらぼうな呟きが返ってくる。
「えぇ? で、でもっ……私が月夜会に参加しないことになって、婚約のお披露目が延期になって、ほっとしてましたよね……? だから私――」
え、違うの? 絃那は信じられない思いで弥紘を見つめる。
すると弥紘は言葉に詰まった様子で、髪をくしゃっと掻き、俯く。
「弥紘さ――」
「今日の昼」
絃那の声を遮って、弥紘は言う。
「飯食ったら1階の応接室に来て。階段に近い方の部屋な」
話したいことがあるから――と。
「ええっ? じゃあ本当なんだ⁉」
驚きの声をあげる麻由里の口を、絃那は慌てて塞ぐ。「声でかい」
麻由里は笑って、
「ごめんごめん。えー、でもそっかあ」
廊下の壁にもたれながら、彼女は「はぇー」と間の抜けた声を出す。
1限目の授業が終わり、現在休み時間中。
授業の間ずっとうずうずしていた麻由里に、1限終了の合図とともに問答無用で廊下へ連れ出された絃那は、例の噂について問われ、今まさに全てを話し終えたところだった。
どうやら今朝のエントランス前でのやりとりが決定的になったようだ。絃那と弥紘の交際話は、瞬く間に広がってしまった。
あの後、弥紘と別れ、時間ギリギリに自分のクラスに戻った絃那は、クラスメイトたちの好奇心に満ちた顔の数々に出迎えられ、身を縮めるようにして席に着く羽目になった。朝からとんだ災難である。
「まさか絃那がねえ……」
そう零した麻由里は、目が合うと、ふっと笑う。
「大丈夫。私は応援するよ。態度悪いオオカミは嫌いだけど。絃那、そいつにいじめられてるわけじゃないんでしょ?」
絃那は頷き、ほっと安堵する。
よかった。麻由里にどう思われるか、少し気になっていたのだ。
「でもさぁ」
麻由里は絃那に顔を寄せ、声を潜める。
「ちょっと気をつけた方がいいかも。オオカミ信者の中にも、過激派がいるから……」
「あー……うん……」
絃那は苦笑する。
「松本さんとか、すごい顔で絃那のこと見てたよ? あと」
笑いを堪えるように麻由里は声を震わせる。
「なんか、枦川くんも」
「あー……あははは……はは……」
理九のもの言いたげな視線を思い出し、絃那は「はあー……」と深いため息を吐いた。
そして昼休み。
食事を済ませた絃那は、弥紘との待ち合わせ場所に向かう。
旧校舎1階にある応接室は、外部からの来客対応の他、生徒との面談等でも使用する場だ。
テーブルとゆったり座れるソファがあるだけの、こじんまりとした部屋が、3つ用意されている。
言われた通り、絃那は階段に一番近い部屋に入る。
弥紘はもう来ていた。
窓辺に佇んでいるその姿を見て、絃那は初めて会った時のことを思いだす。
懐かしい……気がするけれど、あれからまだ1か月も経ってないのだ。なんだか不思議だ。
「鍵、かけましょうか?」
廊下を行き来する人が多い。
何か大事な話をするなら、うっかり誰かが入ってこないようにした方がいいのでは。と、絃那は思ったのだが。
「かけなくていい」
弥紘はそう言う。
絃那は頷き、歩いて彼の元に近寄る。
正面に立っても、弥紘は絃那の顔を見ない。視線を外したままだ。
「弥紘さん……?」
「…………少し、待って」
絃那はおずおずと頷く。
そのまま1分、2分と時間が過ぎる。
弥紘は何を言おうとしているのだろう。絃那は考えてみるが、さっぱり分からない。答えを出せるほど彼のことをよく知らないのだ。
(座った方がいいかな……)
長くなるなら、折角ソファがあるのだから座っても。でも、窓の傍の方が、日差しが入って暖かいか。
なんだかんだで絃那は声をかけるのを躊躇う。邪魔をしてはいけない気がした。
外の廊下を人が通り過ぎる。複数の足音が近づき、遠ざかっていく。
その度に、絃那はじれったい思いに駆られる。静かにしてほしい。弥紘が今喋ろうとしている。
当の弥紘は、そんな音もまるで聞こえていないように、虚ろな目をしている。
横に結ばれた彼の口は動くことなく、時間が過ぎていく。
「……無理に、言わなくてもいいですよ……?」
迷った末に、絃那はそっと声をかけた。
弥紘は絃那との関係がバレても構わないようだった。少なくとも、すぐに婚約を解消する気はなさそうだ。
なら、時間がある。無理に今すぐ知る必要はないのではないか。
彼がこんなにも言い淀むのなら、尚のこと。
それまで彫刻のように動きを止めていた弥紘が顔を上げ、壁にかかっている時計を見る。
いつの間にそんなに時間が経ったのか。もうすぐ昼休みが終わる。
続きはまた今度か。なんなら放課後でも――絃那が弥紘に声をかけようとすると。
弥紘は深く息を吸い、吐き出して。
「……俺のオオカミ化、まだ見たことなかったろ」
今して見せていいか、と問われ、絃那は戸惑う。
「え? はあ。えっと、どうぞ……?」
弥紘は自身の左手を見つめる。
人差し指につけた指輪の表面を親指で軽く撫でる。
すると、一瞬、チカッと光が瞬いて。
(――あっ)
絃那は息をのんだ。
ふわりと揺れた弥紘の髪が銀色を帯びる。
瞳は紫黒に変わり、ものの数秒で、彼は完全にオオカミになった。
人からオオカミになる瞬間を、絃那は初めて見た。
知らなかった。こんなに一瞬なのか。カグヤは、見えないのか。オオカミの目だけが、あの微かな輝きの中に、月を見つけられるのか――
「あの……」
気づけば口を開いていた。
「……触っても、いいですか……?」
いや何を聞いてるの。
絃那は言ってしまってから激しく後悔したが、
「……ん」
と、小さな返事があり。
弥紘が、絃那に向けて頭を傾けてくる。
いいのか。ごくりと唾を飲み込み、絃那はおもむろに手を伸ばす。
ドキドキしながら銀色の髪を撫で、すくい、指に絡める。
「綺麗……」
綺麗だ。オオカミ化するとアッシュ系の髪色になる、と聞く。弥紘のは明るめのシルバーアッシュ。
弥紘が上目遣いにこちらを見て、すぐにまた目を逸らす。
やめろと言われないのをいいことに、絃那が弥紘の頭を撫でまわしていると。
弥紘はさらに頭を傾けてきて、ぽすんと絃那の肩に顔を埋めた。
「弥紘さん……?」
弥紘は動かない。返事もない。
戸惑いつつ絃那が再び頭を撫でると、弥紘は絃那の背に腕をまわしてくる。
きつく抱きしめられる。
「……ごめん」
「どうしたんですか?」
尋ねても、弥紘からは「ごめん」という呟きしか返ってこない。
「大丈夫ですよ」
絃那は弥紘の背をさする。私は大丈夫。だけど。
予鈴が鳴る。
弥紘は顔を上げ、絃那から身体を離した。
オオカミ化を解き、普段の姿に戻った彼は、少し笑って「戻ろう」と絃那を部屋の外へ促す。
絃那は頷いて、並んで歩く。一緒に応接室を出る。出ながら、考える。
(どうして)
来たときよりも一層沈んだ顔をしている弥紘のことが、ずっと、気になって仕方なかった。
「なんか臭くなーい?」
そんな声が耳に届き、絃那は伸ばしかけた手を思わず止める。
続けて、クスクス笑う声。大きい声ではないものの、放課後の静かな図書室の中ではよく響く。
絃那はさりげなく周囲を観察する――声の出所は、少し離れたテーブル席に集まって座っている4人のオオカミ女子だった。
目当ての本がある本棚に向かおうと、今しがた絃那が横を通り過ぎた場所だ。
絃那は小さくため息を吐く。
(先生がいなくなると、すぐこれだ……)
初めてではなかった。司書が不在になるタイミングを見計らって、陰湿な嫌がらせをされるのは。
そうして図書室を利用するヒトが減っていく、と寮の先輩が嘆いていたのを思い出す。
おそらくカフェテリアも、そんな流れで早々にオオカミ限定の利用場所になってしまったのだろう。
絃那は聞こえないふりをして本を手に取ろうとした。
ところが抜きとろうとした本と一緒に、本棚が急にぐらりと前へ傾いて。
血の気が引く。
ぎっしり詰まった大量の本が、大きな本棚が、絃那の顔面に迫る――
「――っ、きゃあああっ!」
絃那は手で頭を庇い、ぎゅっと目を瞑る。
が、予想した衝撃は襲ってこない。恐る恐る目を開ければ、衝突寸前で止まった本棚が、ゆっくりと元の位置に戻っていくところで。
「ぷっ……『きゃあああっ!』だって」
嘲笑が耳に届き、血の気を失っていた絃那の顔がカッと熱くなる。
戦慄き、俯いて、絃那は唇を噛む。
信じられない。
(普通そこまでする……?)
怪我をさせなければセーフとでも思っているのだろうか。
それとも、ヒト1人くらいどうなろうと知ったことではないということか。
ここはオオカミの王国だから。
司書が戻ってくる。
さっさと借りたい本を借りて、絃那は図書室を出た。
帰ろう。
寮に帰って、麻由里と甘いものを食べよう。ダイエット中とか言っていたけれど、今日だけは付き合ってほしい。
つかつかと足早に廊下を進んでいた絃那は、ふと、窓の外に見える中庭に目を留める。あれは――
(飛鳥さん、と……弥紘さんかな……?)
ベンチに座っている男子2人。顔は見えないが、あの赤髪と体格は飛鳥で間違いないだろう。
なら隣の黒髪は弥紘かもしれない。
絃那の足は、自然と中庭へ向かっていた。
なぜだか分からないけれど、今すぐ2人に、弥紘に会いたかった。
息を切らせながら、中庭に着く。
やっぱりあの2人だったようだ。聞き覚えのある声が耳に届く。何やら盛り上がっていて、楽しそうだ。
絃那は呼吸を整え、2人の元に歩いていく。そして、声をかけようとしたその時。
「危うく絃那を殺しかけた」
半笑いの声で弥紘がそう言うのが聞こえた。
(……え?)
絃那は咄嗟に足を止め、傍の低木の裏側にさっと回り込む。
心臓がドクドクと嫌な音をたてる。
(弥紘さん、今、なんて言った?)
危うく 絃那を 殺しかけた ?
聞いてはいけない。頭の中で警鐘が鳴る。ここにいては駄目だ。完全に身を隠せるほど大きな木はどこにもない。2人がこっちを向いたら終わる――
そう思うのに、絃那の足は動かない。聴覚はむしろ研ぎ澄まされて。
絃那は息を殺した。
震える両手を握りしめ、聞こえてくる2人の会話に耳を傾ける。
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