第4章ー1

 幻月島中央区・門廻邸――


 弥紘は絨毯が敷かれた長い廊下を進んでいく。


 当主専用の部屋が集まる4階西側、その1番奥まった場所にある重厚なドアの前までくると、軽く3度ノックして、


「俺だ。入るぞ」


 返事も待たずに入室する。


 深縹の壁とウォールナットの床に囲まれた広々とした室内。

 奥にある大きな執務机でパソコンを操作していた男は手を止め、顔を上げて微笑む。


「弥紘、何度も言うけどそれは入る前に言いなさい。あと敬語つかえ。一応僕、ここのトップだからね?」


 忘れるなよ? と男は念を押す。


 門廻隆成たかなり。門廻家の現当主だ。

 身体がすらりと細く、どこか中性的な雰囲気がある彼は、青みを帯びた重めのミディアムヘアの片側を耳にかけ、端正な顔立ちと色白の肌を晒している。年の頃は20代前半、と会う人に言われがちだが実年齢はもっとずっと上である。


「要件はなんだ」


 執務机を挟んで向かい合い、そこに座る隆成を見下ろして弥紘は問う。


 隆成の青い瞳と目が合う。

 青の瞳に、ブルーアッシュに染まった髪。いつだってそうだ。隆成は常にオオカミ化していて、同じ邸に住み、かれこれ10年以上の付き合いになる弥紘ですら、まだ彼のオオカミ化を解いた姿を見たことがない。


 一般に、オオカミ化すると本人の意思で4時間程度はその姿を維持できるとされている。

 異能を使わずエネルギーの消費を抑えれば、もう少し長く維持もできるだろう。

 だが、当然限界はあって。体力が尽きれば、回復するまでオオカミ化はできないはずなのだ。そのはず、なのだが。


 隆成はその点、明らかに異質だった。だてに門廻の当主を任されていないのである。


 そんな隆成は、にこりと笑って言った。「敬語」


 小さく舌打ちしたのち、弥紘は「……要件はなんですか」と言い直す。


 満足そうな顔が憎たらしい。

 弥紘が苛立ちの眼差しを向けると、隆成はようやく話し出す。


「例のお嬢さんのことを聞きたくて。どう? 仲は順調?」


 お嬢さん。絃那か。

「……まあ、それなりに」


 弥紘の返事は意外なものだったのか、隆成は「へえ?」と眉をあげる。


「なら問題ないな。来月、月夜会があるだろ。その時ついでにお披露目してくれる?」

「月夜会で?」


 それは数か月に一度、区内の大きな会館で開かれる満月の夜の食事会だ。

 レベルA以上の能力を持った高位のオオカミたちが一堂に集う場であり、弥紘も毎回参加させられているが。


「あんたに挨拶が必要なら今するか? ちょうど門廻邸うちに来てるぞ」


 と、弥紘が口にした途端、

 隆成は思いっきり顔を顰める。


「いい、いい。いらない」

 汚いゴミを払うように、彼はぞんざいに手を振って、

「……ったく。門廻邸うちに連れ込むのはいいけど、このフロアには絶対入れるなよ? ネズミと間違ってうっかり殺しちゃっても知らないよ」


 隆成のヒト嫌いは今に始まったことではない。


 が、今の弥紘にはその反応が妙に癪に障る。

 弥紘は冷ややかな目で彼を見下ろす。


「ならなんだ。婚約だの結婚だの、みんな勝手にやってるだろ。わざわざお披露目する習わしなんて俺は聞いたことないんだが」


 特定のパートナーを持つオオカミは少ない。その相手がヒトとなればさらに数は減る。弥紘の件が珍しいのは事実ではあるけれど。


「んー……まあ僕も、どうしてもキミらにお披露目させたいわけじゃないんだけどさ」

 椅子の背に身を沈め、隆成は遠くを見る。

「なーんか最近、一部で妙な動きがみられるらしくて。コソコソ何してるんだろうって思って」


 何があったんだろうなあ。気になるなあ。と呟く隆成の顔はどこか楽しげで。

 彼が新しい玩具を手に入れ、それにご満悦であることがその様子から窺える。


 はあ、と弥紘はため息を吐く。


 いまいちよく分からない――が、要は何か調べたいことがあって、それを円滑に進めるために自分たちの婚約話を隠れ蓑にしたいとか、そういうことなのだろう。


「ちっ……分かったよ。一応準備はしておく。それでいいか?」

「うん、よろしくー」


 ひらひら手を振り仕事を再開する隆成に背を向け、弥紘は部屋を後にする。



 ***



「――パーティー、ですか?」


 動かしていたシャーペンを止め、絃那は顔を上げる。


 ここは門廻邸。3階の中で1番広い部屋だという弥紘の自室だ。


 大きなアーチ窓に、深いブラウンで統一されたアンティーク家具の数々が揃う落ち着いた室内には、微かに爽やかな香りが漂っていて、10日ほど前に訪れた高級ホテルのスイートルームにまったく引けを取らない。

 お風呂もトイレもついているから、本当にホテルのようである。


 泊まりにこい、と弥紘にやや強引に誘われ、やってきたのが約30分前。

 誰かに呼び出されたらしい弥紘が舌打ちしながら部屋を出て行ったのが約10分前。

 そして戻ってきたかと思えば、オオカミの集う食事会へのお誘いだ。


 方程式を展開している場合じゃない。

 絃那は困惑しながら弥紘を見つめる。


 弥紘はソファに座る絃那の隣に並んで腰を下ろした。


「隆成がそこで婚約のお披露目しろって」

「隆成……?」

「門廻家の現当主」


 ひぇっ、と絃那は声をあげる。

「滅茶苦茶偉い人じゃないですか!」


 そんな偉い人の命令を断ったらどうなるか分からない。

 そもそも絃那は弥紘のお願いを断れない。弥紘がやるというなら絃那もやるしかないのだ。


 不安が顔に出ていたのだろう。

 弥紘がぽんと絃那の頭を叩く。


「何かあったら俺が守るから。それに月夜会自体そんな堅苦しい催しじゃない。ただの立食パーティーなんだ。気負わなくていい」


「わ、分かりました」


 本当は不安しかないけれど。絃那はそう答えるしかなかった。


 そうして解きかけの問題に目を戻そうとして――「? まだ何か?」


「…………いや」

 弥紘は首を振る。


 気のせいだろうか。何か言おうとしていたように見えたのだけど。


 絃那は少し待ってみるが、弥紘の意識は既に他に向いていたようで、


「ここ違う」

「えっ?」


 弥紘は絃那の膝に乗っている数学の問題集の一か所をトントン指でつつく。


「……あ、本当だ」

 絃那は消しゴムを手に取る。

「ありがとうございます。弥紘さん、数学得意なんですか?」


 同じ学園に通う2年の弥紘が、1年の絃那の解いている問題を理解できるのは一見当たり前のように感じるかもしれないが、2人が通っているのは月白学園なのだ。


 あの学園はカリキュラムが特殊で、絃那たちヒトのクラスは大学受験を見据えて早いスピードで授業が進むし、弥紘たちオオカミのクラスは1週間のうち丸々2日が異能を使う実技授業となっている。


 だから教科によっては進行度を追い越している可能性もあるのではと絃那は思っていた。


 疑問が伝わったのだろう。弥紘は教えてくれる。


「オオカミの異能はこの世の原理・法則を無視するものだから、異能を習得するためにまずは知識からつけるんだ。月白学園は初等部から勉強漬けだぞ。中等部以降で実技の時間増やすために、早めに座学進める」


「へえー」と絃那は頷いて、

「あれ? でも小さい頃から異能をばんばん使えるオオカミもいるんですよね?」


 とんでもない天才児なんだろうか。


「……ああ。なんていうか、その理論が正しいかどうかはあまり関係ないんだ。自分の中できちんと納得して消化できればそれでいい、みたいなところがあって。

 例えばだけど『空が青いのはドジな天使が上空で青い絵の具をぶちまけたから』とか、そんなトンデモ理論でもいいんだ。それで一切の疑問を持たずに心から納得できるならな。でも『そんなわけない』って思うのが大多数なわけで。だから皆、空の色を変えるために、まず空が青くなる原理を学ぶんだ」


 本当に小さな子供とかなら、そんなトンデモ理論でも受け入れてしまう子もいるのだろう。

 ただ、そういう子も、1年2年と人生を重ねていくうちに世界を知って、いつかは本当の原理を学ぶ必要が出てくる。


「時代が進んで『実はあの説は間違いでした!』みたいなのが後から発表されることもあるだろ? あれも結果的に間違った理論で異能を習得するパターンだ。間違いだって分かる前はそれが本当だと本気で納得してただろうから、問題なく異能が使えてしまう。

 まあ、知識をつけただけでは異能は使えなくて、結局は才能がものをいう世界なんだけど……」


 弥紘は欠伸をする。


 眠いのだろうか。明日は木曜日、オオカミたちが丸一日実技授業となる日だ。

 疲れているのなら、自分なんか家に招かないでゆっくり休めばいいのに。絃那はおずおずと声をかける。


「弥紘さん、お疲れでしたら私のことは気にせず休んでください。私は勉強してますので」

 と、問題集を手に微笑んでみせると。


 一瞬ムッとした弥紘だったが、彼はすぐに頷いて、


「分かった。そうする」


 身体を倒しゴロンと横になる。……絃那の膝を枕にして。


「ちょっ、何してるんですか」

「休んでる。絃那は気にせず勉強しろ」


 できるか。絃那は慌てる。


「ね、寝心地悪いでしょう……? 悪夢見ますよ、悪夢っ」 

 このまま寝られたら困る――

「ソファ使うなら、私あっちの机で勉強しますからっ。1回どいてくださいっ」


 起きて起きてと絃那は左手で弥紘の頭をぽふぽふ叩くが、


「うるさ」


 弥紘がその手を掴んで押さえる。そのまま握り込んで離してくれなくなる。


 ええー……

「あの……勉強できないんですけど……」


 絃那は言うが、当然のように無視される。


 どうしよう、困ったことになった。弥紘は本気だ、本気で寝る気だ。


 ……もういっそ寝かせるか。

 寝てもらって、それから左手を回収しよう。膝は……膝は……我慢だ。


 絃那はまだ自由な右手を使い、弥紘の頭をこれでもかというほど優しく撫でる。さあ、寝て。


 すると弥紘は驚いたように目を見開き、絃那を見て固まった。なぜ。


「「……」」


 見つめ合ったまま、なんとも言えない沈黙の時が流れる。


 やがてその沈黙は破られた。ただ、破ったのは絃那でも、弥紘でもなく、


 ――コンコン、ガチャ。

「弥紘、入るよー。なあ明日の授業でつか、う、……」


 部屋に入ってきた背の高い赤髪の男子は、足を止め、ソファの上の2人を見てぽかんとする。


 弥紘は即座に跳ね起きた。絃那もまた、慌てて弥紘と身を離す。


「「「……」」」


 室内に、再び沈黙が降りる。


「えーっと……なんかごめん、お邪魔しちゃった……?」

 頭を掻きながら赤髪男子はへらっと笑う。


「……飛鳥あすか

 肩をわなわなと震わせ、弥紘は立ち上がり、鬼の形相で彼に詰め寄る。


「『入るよー』じゃねえよ! 入りながら言うな!! 入る前に言え!!!」

「だからごめんて」


 飛鳥と呼ばれた赤髪男子は笑い、結果、弥紘はさらに激高する。

 絃那はおろおろしながら彼らのやり取りを見守る。


 弥紘が自身の行いを棚に上げて飛鳥に説教していることを、絃那は知る由もないのだった――。

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