第3章

 霧崎きりさき伊織いおりは、上機嫌で庭園内を歩いていた。


 ふわりと漂う薔薇の香り。それが朝の澄んだ空気と混ざり合って、


(はあーっ、最高)


 思わず声に出してはしゃいでしまいそうになり、慌てて口元を押さえる。

 駄目駄目。お淑やかに、お上品にしておかないと。浮いてしまう。


 伊織は意識して背筋を伸ばす。

 澄まし顔で秋薔薇の咲く道をゆっくり進みながら、すれ違う人達をチラ見する。


 さすが高級ホテル。お客さんも、妙にオーラがある。

 近所には絶対いない、落ち着いた貫禄のある老夫婦。クラスメイトの男子たちと比べるのもおこがましいくらい、洗練された同年代の男の子。モデルさんですか? と思わず聞きたくなるような、お洒落でスタイル抜群の女の人。

 ついさっき、少し年上の、高校生くらいの美男美女が手を繋いで歩いているのも見かけた。兄妹、ではないと思う。絶対カップルだ。なんか……イチャイチャしていたし。


 伊織は昨日からこのホテル天之牙に泊まっている。

 倹約家な父と、同じく倹約家な母の元生まれ育った伊織は、普段ならこんな高級ホテル、絶対に泊まれないのだが。なんとこの度、父が懸賞で宿泊券を当てたのだ。


 一生分の運を使い果たした、なんて言っていた父は、おそらく今もまだ部屋で寝ているのだろう。

 伊織と同室の母も、昨日観光で散々歩き回って疲れたのか「もう少し寝させて」とベッドに潜ってしまった。

 そんなわけで、仕方なく伊織は1人で朝の屋上庭園を堪能しているのだ。


 迷路のような庭園内には、所々ベンチが置かれている。


 伊織は空いているベンチに腰を下ろし、鞄からスケッチブックと色鉛筆を取り出した。

 持ってきてよかった、と思った。なんだか今、ものすごく描きたい気分なのだ。


 スケッチブックのまだ使っていないページを開いて、伊織はそこに絵を描いていく。


 時間を忘れて、夢中で描いた。


 そうして自分だけの世界にどっぷり浸っていると、


「何描いてるのー?」


 と、すぐ近くで声がして。

 顔を上げると、小さな女の子が伊織の手に持つスケッチブックを覗き込もうとしていた。


 伊織は笑って言う。

「お花の絵だよ。見る?」


 うん、と女の子は元気に頷く。


 可愛い。幼稚園児……いや、小学生だろうか。

 女の子は淡い水色のワンピースを着ている。腰まである色素の薄い長い髪は、お姫様みたいにくるんとカールしている。


(ふふっ、不思議の国のアリスみたいだ)


 伊織の描いた絵は、女の子改めアリスのお気に召したようだ。

 アリスは他のページにも描いてあると分かると、一枚一枚捲って、伊織の過去作を辿っていく。

 と、その時。


「……う、」


 ふいに、彼女がスケッチブックを落とした。

 小さな手が胸のあたりを押さえる。


「? どうしたの――……、……えっ?」


 伊織は目を見開いた。そして、


「きゃああああっ!!! 」


 悲鳴が上がった。

 はっと視線を向けると、知らない女の人が、驚愕の表情を浮かべこちらを凝視していた。


「ママ」


 アリスが女性の方へ駆けていく。――緑色に染まった髪をふわりと揺らして。


 女性は引きつったような声を上げ、後ずさろうとして、バランスを崩しその場に倒れこむ。


 何事かと、騒ぎを聞きつけたホテルスタッフが、野次馬が、わらわらと集まってくる。


「ママ、ママ」

 アリスが泣いて縋る。


「いやああああっ! あっちに行って! 来ないでぇ!」

 女性が泣いて叫ぶ。


 ざわめきが広がり、あたりは騒然となった。


 伊織は呆然と立ち尽くす。

 と、ふいに誰かに腕を掴まれて――


「しっ。静かに」


 思わず声を上げそうになった伊織を、その誰かが制する。


 化粧の濃い、短髪の知らない女の人だった。


 彼女は落ちていたスケッチブックと出しっぱなしの色鉛筆を素早く片付けると、伊織の鞄に押し込む。


「逃げるよ。ついておいで」


 鋭い小さな声で言って、伊織を促す。


 伊織の心臓がドクドクと騒ぐ。


(何が、起こってるの……?)


 分からない。けれど、自分が何か、とんでもないことをしてしまったのだけは分かる。


 青ざめた伊織は、女の人の指示に従い、人混みを避け、屋上庭園を脱出する。


 最後に、ちらりと、後ろを振り返る。


 ざわめきが遠のいてもなお、母親を呼ぶアリスの悲痛な声が、耳に残って離れなかった――。

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