第2章ー3

 眠れるわけがないと思っていたのに。


 元々寝不足だったのが幸いしたのだろう。

 絃那はいつの間にかぐっすり眠ってしまっていた。


 気づけば朝だ。


 そして目が覚めたはいいけれど。何かいつもと違う気がするなあと思えば。


「……⁉」


 目の前に他人の、男の身体が。

 瞬間、昨夜の出来事が、一気に頭の中に蘇り――


(ひぇっ……!)


 絃那は思わず身をのけ反らせるが、


「……ん、…………」

(ひいぃっ!)


 結果、より強く抱きしめなおされる。


 絃那の心臓が大きく跳ね、拍動のテンポが狂い出す。

 これは、これはまずい。

 身体が妙な汗をかき始める。


 今こそぶん殴る絶好の機会なんじゃないだろうかそうだきっと正当防衛を主張できるいいよやっちゃえ私が許す――混乱のまま絃那は拳を握り、弥紘を見上げ、キッと睨みつける。……が。


(うっ……!!!)


 熟睡中の彼を前に、その勢いをそがれる。


 寝顔可愛いな⁉


 胸がきゅぅっとなる。絃那は思わず両手で顔を覆い、声を押し殺して悶えた。


 顔が良いせいで破壊力が凄まじい。負けだ。絃那の負け。門廻弥紘の寝顔は可愛い。


「……っ、や、弥紘さーん……朝ですよー……」


 仕方なく絃那は彼の身体を揺らした。

 殴らず優しく揺らした。……反応はない。


「そろそろ起きましょうよ……あと、チェックアウト何時なんですか……? 私何も聞いてませんよ……?」


 ぺちぺち軽く頬を叩くと、弥紘が身じろぎする。

 弥紘は眉間に皺を寄せながら、目を僅かに開いた。


「やっと起きましたね、おはようございます」

「……はよ」


 弥紘はまだ眠たいのか、今にも目が閉じそうだ。


「二度寝してもいいですけど、私を解放してからにしてください」


 なぜか不満そうな弥紘の腕の中から、絃那はどうにか抜け出す。


 着替えと化粧ポーチを持ってバスルームに向かう。

 イレギュラーな体勢で寝たからか、髪に変な寝癖がついていた。

 そして、指輪をはめたままだったことに気づき、ぎょっとする。

 間接首輪。早く返さなくては。


 顔を洗い、髪を直し。その他ひととおりの身支度を整えて部屋に戻ると、弥紘が起き上がっていた。

 二度寝はやめたらしい。


「少し外を歩いてきてもいいですか? 屋上に綺麗な洋風庭園があるみたいなので。私、折角だから見てきます」


 と、ガジェットを返しながら伝えると、


「…………俺も行く」


 くあっと欠伸をして、弥紘は立ち上がる。




「わあ……!」


 目の前の見事なローズガーデンに絃那は感嘆の声をあげる。


 低い生垣に沿って道をつくる色鮮やかな秋薔薇たちは、どれも自信に満ちたように美しく花開いている。

 緑と蔓薔薇に覆われた大きなアーチやフェンスがあちこちにあるから、まるで薔薇の迷路だ。

 季節的に一番の見頃となるのはもう少し先になるのだろうけれど。今でも十分すぎるくらい素敵だ。


 薔薇に目を奪われていた絃那は、ふいに腕を引かれ、驚いて振り向く。


 何かと思えば弥紘だった。

 彼は絃那の手に自身の手を重ねて握ると、何事もなかったかのように歩き出す。


「……なんですか?」

「? 何って?」


 何って??? それは絃那が聞きたい。

 首を傾げながら並んで歩く。


「……結構人いるな」


 弥紘の呟きに、絃那は頷き返す。

 日曜日ということもあってか、庭園を訪れる人は多いようだ。

 それなりの広さがあるためまったく混雑はしていないが、同じ道を通る何人かとすれ違う。


 その度に弥紘へ視線が集まるのに絃那は気づいた。

 妙に目立っている。

 オオカミだからだろうか、と思ったが、弥紘は左手をポケットに入れているからガジェットは見えない。

 バレてはいない――なら、恐らく彼の容姿のせいだろう。


「罪な男ですね……」


 思わず言葉を零すと、弥紘に「は?」という顔をされる。絃那はそれ以上言わない。


 と、ちょうどまわりに人がいなくなる。

 2人きりだ。


 絃那は少し迷いつつ、声を落として尋ねる。

「……あの、弥紘さん。弥紘さんは……その、昨日、私に寝首を掻かれるかもとか、思わなかったんですか……?」


 また「は?」という顔をされる。

 絃那は呆れてしまう。


「私がオオカミをどう思ってるか知ってるでしょう? それなのにガジェットは手放しちゃうし、あ、あああんな風に一緒に寝ようだなんてっ……ど、どうかしてますよっ……」


 思い出して恥ずかしくなり、声は尻すぼみになる。


 弥紘は首を傾げる。

「寝首を掻こうとしてたのか」


「物の例えですよ、物の例え」

 と、絃那が言うと、


「ならいいだろ。俺はガジェットがなくても自分の身くらい守れる自信あったし、絃那は結局何もしなかったんだから」


 本当に気にしていないのだろうか。

 絃那はしばらく彼を見つめた後、ふいと視線を逸らす。


「もう……知りませんからね、私に何されても……」


 弥紘は笑った。

「いいよ。絃那になら何されても」


 ……またそういうことを言う。

 駄目だ、と絃那は思った。口では勝てない気がして、途端にクールダウンする。

 やめよう。せっかく素敵な庭園にいるのだから。もっと楽しい話題を……


「えっと……弥紘さんは、お花好きなんですか?」


 一緒に行くと言われた時も少し驚いたが。意外にも、弥紘もこの場所を楽しんでいるように見えたのだ。


 弥紘は「いや」と答える。

「ただ、あの島で暮らしてると目にする花は限られるだろ? 仕事で外に出た時も、のんびり花を眺める機会なんてほぼないから。新鮮には感じる」


「ああ、なるほど」

 頷いた絃那は、ふと思う。


「弥紘さんはいつからあそこに?」

「6歳の時。覚醒して即移住した。それからずっと」


 初めてのオオカミ化は6歳から10歳の間に起こる。

 弥紘はかなり早い段階でオオカミになったのだ。


「絃那は? なんであの島にきたんだ?」

「私は月白学園に通いたくて。特進クラスって、成績が上位の生徒は学費とか寮費とか修学旅行にかかるお金とかも全部無料なんですよ。しかも卒業して進学する場合は行きたい大学に推薦貰えるし」


 その分、入学のハードルは高い。

 入ってからも上位を維持しなくてはならないため、気は抜けないのだ。


 医者になりたい、と絃那は思っていた。

 目覚めない母を、いつか治してあげられるように。それが無理でも、せめて家計の助けになるようお金をたくさん稼げる仕事に就きたい。


 ただ、医者になるためにそもそもお金がかかるから。

 医大に入れるかどうかも分からないのに、本土の私立の進学校に高い授業料を払って通うのには抵抗があった。

 そんなお金の余裕が我が家にないことも察していた。

 だから、月白学園のことを知って飛びついたのだ。


「ふうん……?」

 弥紘が意外そうにする。

「なんだ。てっきり復讐のためにきたのかと」


 復讐て。絃那は苦笑する。

「弥紘さんは私をなんだと思ってるんですか」


「でもオオカミは嫌いだろ?」


 まあ、それはそうなのだけど。

 絃那は頭の中で気持ちを整理しながら言葉にする。


「……憎む心はあります。復讐するべき相手はこいつだ、ってオオカミが目の前に現れたら、流石の私も何かしら行動に出るとは思いますけど。……現状は考えてないです」


 絃那は笑って弥紘と視線を合わせる。


「嘘じゃないですよ。綺麗ごとに聞こえるかもしれませんけど、そういうわけでもなくて……なんていうか、単に余裕がないんです。お母さんを助けることに精一杯で、復讐まで手が回りません」


 絃那は何の力もない普通の女子高生だ。

 使える時間は限られているし、出来ることと出来ないことがある。

 その出来ることの中で、自分にとっての精一杯をやるしかない。

 だから、今は復讐なんて考える余裕はないのだ。

 何しろ、母はまだ生きているのだから。


 ここにきて、なぜか門廻家のオオカミに婚約を申し込まれ、お金の心配がなくなるという予期せぬ出来事はあったが。

 だからといって、絃那は今のところ自分の方針を変えるつもりはない。

 申し訳ないけれど、まだ弥紘を完全に信用できていなかった。

 彼が気まぐれで婚約を破棄する可能性は十分にあるのだから。

 復讐計画を手伝ってくれるとも思えないし。


 だから、あくまで復讐は二の次。とにかく勉強を頑張って医学部に進学する。

 そのつもりだ。


 伸びてきた手が、絃那の頭を撫でる。

 ずっと思っていたけれど、弥紘の手は大きい。当たり前だが男の子の手だ。


「すごいな、お前は」

「……すごくないですって」


 話、ちゃんと聞いていたのだろうか。


 弥紘はふっと笑う。

「すごいよ。ちゃんと考えて先を見据えて行動できるのは。俺はたとえそれが一番の得策だと分かってても、気に入らない相手に頭下げてお願いなんて絶対できねぇわ。死んでも御免だ」


「あー……」

 想像して絃那も笑った。


「確かに、弥紘さんは似合いませんね。土下座は」

「似合う方がおかしいんだよ」


 呆れ顔で頭に手刀を落とされる。痛い。


 絃那が笑うと、弥紘も笑った。

 そんな彼を見て、はたと気づく。


「何?」

「いえ……なんか、意外とよく笑いますよね弥紘さん」


 第一印象ではクールな人かと絃那は思ったのに。


 弥紘は笑みを引っ込める。

 気に障っただろうかと心配になっていると、


「……まあ。絃那は俺と全然違うから……一緒にいて結構楽しいし……」


 顔を逸らしながら弥紘がぼそぼそとそんなことを言うので、絃那は目を見張る。


「それは……ど、どうも……」


 繋ぐ手を、弥紘が握り直す。


 絃那は弥紘をちらりと見上げる。彼は絃那とは反対方向を見ていて、顔が見えない。


 弥紘さん、と小さく呼びかけてみる。

「……ん」と小声が返ってくる。やっぱり顔は見えない。


 なんとなく、会話が途切れる。


 何か喋った方がいいだろうか。考えているうちに気づけば庭園を一周していて。


「このまま朝食食べに行くか」


 尋ねてくる弥紘は、完全に元の彼に戻っていた。

 なんだか惜しいことをしてしまったような、そんな気分に浸りながら「はい」と返事をして。

 絃那は庭園を後にした。

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