第2章ー2

 目の前には、モダンで落ち着いた色合いの調度を揃えたスイートルームが広がっている。


 その出入り口のドアを背に、絃那は立ち尽くしていた。


 どうやってここまで来たかはほぼ覚えていない。あれよあれよという間に、手荷物は運ばれ、自身もまたここに着いていた。


 弥紘は慣れた様子で1人部屋の奥へと進み、柔らかそうなソファに身を沈める。

 そうしてようやく、入ってすぐの場所でぼんやり突っ立っている絃那に気づく。


「? 何してんだ」

 不思議そうに声をかけてくる。


 絃那はもはや何も言えなかった。

 無言で床に視線を落とす。


 立ち上がった弥紘が近づいてくる。


 絃那はびくりと肩を揺らし、1歩下がる。

 背中に冷たいドアがあたる。もうこれ以上は下がれない。すなわち詰み。


「どうした、また具合でも――」

「やっ」


 パシンと。伸びてきた手を、思わず振り払ってしまって。

 絃那ははっと我に返り、顔を青くする。


「ご、ごめんなさい……っ、その……」


 ひゅっと喉が鳴る。

 どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。


「なに? いいよ、言って」


 なんて、気遣うように優しく促されるものだから。

 堪えていた涙が、ついにぼろぼろ零れだす。


「ごごごめんなさい、今日はまだ、こ、心の準備ができてなくてっ……だからっ……」


 無理だ。

 絃那は泣きじゃくる。無理。


「心の準備?」


 繰り返した弥紘は眉根を寄せる。「なんの?」


「ななななんのって――」

 絃那は真っ赤になりながら口をぱくぱく動かす。


 弥紘はきょとんとした顔で、束の間それを眺めて、


「……あー…………」


 察した様子の彼は、少々気まずそうに「違う、誤解だ」と弁明を始める。


「前もって説明してたとおり、俺は本当に仕事でここにきてる。お前相手にいかがわしいことする気はない」


 誤解? ……本当に???


「じ、じゃあっ、なんで私を連れてきたんですかっ……?」

 絃那はつい早口になって指摘する。

「それにこの部屋っ、べべべベッド、1つしかないですよね⁉」


 弥紘は落ち着き払って言う。

「連れてきたのは空き時間暇だから。どうせならお前と色々話したいと思って」


「え?」


「ベッドは――……キングサイズだから。大きいからいいだろ」


 大きさの問題か? 絃那はよく分からない。


 伸びてきた弥紘の指が、絃那の涙をそっと拭う。彼は呆れ顔で絃那を見下ろす。


「そんなに嫌なら前もって断れよ、馬鹿か」

「……言うこと聞けって言ったの、どこの誰ですか」


 途端に弥紘は押し黙り――しれっと目を逸らした。



 ……なんてやり取りが、確かにあったはずなのだが。


「何もしないんじゃなかったんですか……?」


 弥紘の言葉に一応は納得し、ようやくドアの傍から離れた絃那だったが、早くも後悔し始める。

 絃那は今、ソファに座っていた。何故か、弥紘に抱きしめられながら。


「いいだろこれくらい。婚約者なんだから」


 よくない、と思う。

 耳の近くで弥紘の声がするのも、触れ合っている部分から弥紘の体温が伝わってくるのも、自分のとは違う柔軟剤のいい香りが漂ってくるのも、絃那はなんだか落ち着かない。そわそわする。


 弥紘の手が上に移動し、絃那の額を覆う。


「? 熱なんてないですよ」

「ん。元気ならいい」


 そう言われると、手を振り払うわけにもいかなくて。絃那はされるがままになる。


「なあ。お前って身体弱いの?」


 ふいに横から顔を覗き込まれ、絃那はどきりとする。


「っ、弱くは、ないです! 朝のことを言ってるなら、あれは本当に寝不足で……!」


 弥紘は「ふうん」と呟く。彼が納得したかどうかは分からない。


 沈黙が気まずい。絃那は話題を変える。


「それより、そろそろ名前覚えてくれませんか。私、十六原です」

「ああ……分かった、絃那って呼ぶ。俺のことも弥紘でいい」

「……苗字でいいんですよ、苗字で」

「高等部だけでも門廻は3人いる。紛らわしいだろ」

 そう言って、弥紘はさらりと付け足した。

「お前だって結婚すれば十六原じゃなくなるし」


 結婚。絃那はぽかんと呆気にとられる。


「え? 本気で私と結婚する気なんですか……?」


 弥紘は可笑しそうに笑って、


「んー……まあ」

 それもいいかなって思い始めてきた、とぼそりと呟く。


「絃那は? 俺じゃ不満……?」


 そんなこと急に聞かれても――「ま、まだよくわからない、です」


 あと近いです離れて。

 狼狽えながらそう答えると、弥紘にくすくす笑われ頭を撫でられる。


 ……どうやら、揶揄われただけのようだ。




 昼食は部屋に運んでもらって2人で食べた。


 別フロアには素晴らしい景色を眺めながら食事ができるレストランがあるらしいのだが、テーブルマナーに自信がなさ過ぎて恥をかきそうなので絃那は遠慮した。食事は美味しく食べるのが1番だ。


 そうしてお腹が満たされた後、弥紘は彼の言う仕事とやらに向かう準備をする。

 絃那は待ちに待った自由時間の到来である。


「4時間くらいかかると思うから、それまで好きに過ごしててくれ」


 着替えてスーツ姿になった弥紘が、ジャケットを羽織りながら言う。


 おお、と絃那は思わず声を洩らした。

「似合いますね、スーツ」


 弥紘が着ているのはチャコールグレーのスリーピーススーツだ。

 スタイルがいいと何でも似合う。ちょっとずるい。


「……誰でも似合うだろ、こんなの」


 照れくさいのか、弥紘はぼそっと呟いてふいと視線を逸らした。

 そしてテーブルの上の、ホテルのパンフレットを手に取って絃那の頭にぽすっとのせる。


「下のフロアに屋内プールとかエステサロンとかあるらしいぞ。ご自由にどーぞ」


 なんとまあ、至れり尽くせり。だが……


「分かりました」


 頷いた絃那は持参した荷物を開け、中から参考書と問題集を取り出す。


「え、勉強すんの?」


 5つ星ホテルまで来て? と、弥紘は戸惑いの声をあげる。

 言いたいことは分かるが、


「定期テストが近いので」


 きっぱりとそう告げて絃那はテーブルに向かい、自分の世界に閉じ籠もった。




(5つ星ホテルってすごい)


 絃那は感動した。

 図書館だと妙に集中力が上がる現象。アレと似たようなものが起こっている。


 寝不足という最悪のコンディションも、眠気がピークを越えたのか、逆に全く眠くない。

 思った以上に勉強が捗る。

 こんなことなら、もっと他の教科のテキストも持ってくればよかった。


(でも、もうすぐ弥紘さんが戻ってくる時間か……)


 と、テーブルの上の勉強道具を片付けていた時。ちょうど、ドアのロックが外れる音がして。


「あ、お帰りなさい」

 絃那がひょこっと顔を出して言うと、


「……ただいま」

 呟いた弥紘は顔を背ける。何故か耳が赤い。


「? どうかしました? ……わっ!」

 近寄ると、急に前髪をぐしゃぐしゃにされる。


「ひどい!」

 いきなり何をするのか。


 弥紘は悪びれもせず、べっと舌を出して、


「ほら、着替えるからあっち行ってろ」

 と、追い払うように言う。


 かと思えば、

「……それとも見る?」


 すごく、すごく意地悪な笑みを浮かべ、シャツのボタンを外し始める。


 絃那はぎょっとする。

「っ、みみみ見ません!!!」


 赤面しながら、絃那は慌てて死角になる場所に避難した。

 



 そんな感じで。なんだかんだ、気づけば1日を満喫していた絃那だったが、最後の最後に最大の危機を迎えることになる。


「……正気ですか、弥紘さん」


 一足先にベッドに入った弥紘が、早く来いと自分の隣をポンポン叩くのを見て、絃那は言葉を失う。


 確かに今日1日過ごして、心の距離はずいぶんと縮まったような気がする。

 というか、元が完全な他人同士だったから、そう感じるだけかもしれないが。

 とにかく、だからといって、こ、これは……


「や、やっぱり私、あっちの寝心地良さそうなソファで――」

「駄目」


 逃げようとする絃那の腕を弥紘が掴んで引き寄せる。

 捕まった。絃那は成す術もなく、弥紘の隣に寝かされる。

 近い。キングサイズがどうこうという話はなんだったのか。


「嘘つきー……」

 絃那は両手で顔を覆い、恨めしげな声を洩らす。


 しくしく泣いていると、弥紘が笑って頭を撫でてくる。

 先ほど洗ったばかりの髪からふわりと上品な甘い香りが漂う。


 絃那の長い髪を指に巻きつけて遊びながら、弥紘は尋ねてくる。

「寝れそう?」


「っ、無理ですよぉ」

 絃那は絶望の声をあげる。


「ううっ……近すぎて吐きそうぅ……」

「なんでだよ……」


 弥紘は絃那のおでこを指でペチッと弾く。

「おい、吐くなよ絶対」


 なら私を解放してくれ――そんな絃那の願いは届かない。

 弥紘の手が絃那の頬をするりと撫でる。

 下手に目を動かせば視線がぶつかりそうで、もうどうしていいか分からない。


 絃那が俯き、黙り込むと。

 ふいに弥紘の手が離れた。


 ほっとしたのも束の間。

 左手の人差し指から指輪を抜き取った弥紘は、絃那の手をとり、同じ指にその指輪をはめてくる。


「えっ…………えぇ?」


 指ほそ、と弥紘が呟く。たしかに指輪はブカブカだが。

 絃那が困惑の眼差しを向けると、


「生体認証機能がついてる。その指輪をお前がつけてる限り、俺はオオカミ化できないし異能が使えない」


 だから安心して寝ろ、と弥紘は言う。


 ……正直、オオカミというより男女で同じベッドを使用することに抵抗があるのだけど。


 絃那の目は指輪に釘付けになる。

 銀のアンティーク調の指輪。一見ただのアクセサリーだが、これはまごうことなき最先端技術の塊で。時間も場所も選ばずオオカミ化できるガジェットで。起動すると、そこに満月のホログラムが現れるという。


 その月には名前がついていた。確かその名は――


「【カグヤ】、でしたっけ……?」


 絃那が呟くと、弥紘は頷いた。


「そう。この世で唯一、オオカミの目を騙すことができる偽物の月」



 オオカミ化は満月の夜に限る。


 その条件を覆そうと、これまで多くの人々が挑戦し、敗れてきた。


 満月をどれだけ写しても、撮っても、描いても、彫っても……そのどれもが一度たりともオオカミを満足させられなかった。


 誰もが偽月を創るのは不可能だと思い込んでいた。


 そして今から約30年前。

 とある日本企業がついに偽月の創造に成功したのだ。


 その企業――幻中まもなかグループは偽月をカグヤと名付けた。

 元はどうやら絵画らしいが、幻中はそのデータを使って例のガジェットを作り出した。


 ガジェットの製造には、なんとオオカミの異能も用いられているという。

 それ故に、時代の遙か先を行く機能性を持ち、かつ複製不可能なガジェットが生まれたのだ。


 製造方法の詳細を、幻中は今でも明らかにしていない。

 それは幻中の社長と歴代のオオカミの王フェンリルだけが知っていて。幻中の持つカグヤのデータとフェンリルの高度な異能、2つが揃った時ようやくガジェットが作れるようになっている。


 その後、幻中は、解き放たれるオオカミに怯えるヒトへの影響を考慮し、ガジェットの数を絞った上で、あえて数年で壊れるように作ったものを国内外に向けて販売した。


 希少であり、複製不可能であり、製造が独占されたガジェットはすぐに莫大な富を生み出した。

 小さな無人島を、巨大なオオカミの王国につくりかえることすら可能なくらいに。


 そう、幻月島の土地の所有者は幻中なのだ。


 偽月カグヤ、ガジェット、そして幻月島。


 現在の人間社会とオオカミ社会は、幻中が両者に中立なおかげで成り立っていると言っても過言ではない。


 カグヤを持つ幻中がどちらかに加担しもう一方を切り捨てれば、パワーバランスは一気に崩れてしまう。


 だからこそ、近年では人々の間で懸念されていることがある。


 今後、第二の偽月を創る者が現れた時、

 その者が中立でなかった時、


 ヒトはオオカミに駆逐され、人間社会は崩壊するのではないか――と。



(オオカミになるための、魔法のアイテム……)


 絃那は複雑な気持ちで指輪を見つめる。


 母の件があってから『なんでこんなものが存在するのだろう』と度々考えてきた。その指輪。


 手放した弥紘は、確かに今、無力化されているのだろう。


 何故か急に申し訳なくなってきた。

 絃那が指輪を身につけることで、間接的に、弥紘に首輪をつけてしまっているようなものなのだ。


「……あ。でも、その……当然スペアは、持ってますよね……?」


 絃那が尋ねると、弥紘は「持ってるけど」とあっさり認める。


(なら、いい……のかな……?)


 悩んでいるうちに、弥紘がベッドまわりの明かりを消す。

 室内が薄暗くなる。

 そして弥紘は絃那の手をとると自身の背にまわして。弥紘もまた、掛け布団を引き寄せつつ、絃那の背に腕をまわし……


「え……ちょっ……」


 あっという間に、抱き合う形になる。


「これならこっそりスペアを取りに行けない。安心して寝ろ」


 ……だからそういうことを心配しているのではなくて。というか。


「こ、この状態で寝ろと……?」


 絃那は抗議の眼差しを向けるが、彼はすでに目を閉じていて。


「や、弥紘さんっ…………弥紘さん……?」


 すうすうと小さな寝息が聞こえてくる。


(嘘でしょ……?)

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