第2章ー1

 幻月島の中は大きく5つの区に分かれている。東西南北、そこに中央を加えた5つだ。

 月白学園や学生寮があるのは、そのうちの北区である。

 北区は本土の千葉県と行き来するための大橋が架かっている場所でもあり、比較的ヒトが多い地区となっている。


 幻月島に来て早半年。絃那はまだ北区以外の地を踏んだことがなかった。

 北区を出なくても生活に困らないから、という理由もあるが、なんとなく他区に行くのが怖いのだ。

 例のごとく縄張りを大事にするオオカミたちが許可のない立ち入りを禁じているのは中央区のみで、他の区はヒトも自由に出入りしていいらしいけれど。やっぱり少し怖い。


 せっかく幻月島にきたのに、3年しかここにはいられないのに、勿体ない――なんて言われても困る。怖いものは怖いのだから。


 いつ何時県境を越えようが誰にも嫌な顔をされない本土での暮らしが懐かしい。

 たまには向こうに遊びに行って息抜きしたい。

 そう思っていたから、本来なら絃那は、このお誘いを喜ぶべきなのだろうけれど。



(ううっ……やだなあ……行きたくないなあ……)


 ついにやってきてしまった約束の土曜の朝。

 昨夜のうちに用意していた荷物を持ち、沈みっぱなしの心を伴って、絃那は学生寮を出発する。


 空は快晴。穏やかな風が右から左へと流れ、乾いた空気を運ぶ。

 残暑はようやく落ち着いたのか、今日は過ごしやすい気温になるそうだ。

 これがいつもの休日だったら、どんなに良かったことか。


 ため息を吐きながら、絃那は石畳の道路を進む。

 歩く度に小気味良い靴音が鳴るこの道は好きだ。今の時間だと、通りに面したベーカリーから焼き上がったパンのいい香りが漂ってくるのも好き。


 少しだけ気分が上がってきて、絃那の視線も上を向く。


 どこまでも続いていきそうな黒煉瓦の街並みを見渡す。


 夜が明けた後の幻月島に、おどろおどろしさはない。


 が、やはりどこか別世界のようだ。

 独特の景観に合わせ、住民もシックな服装を好む傾向があるから、余計にそう感じてしまうのかもしれない。


 ちょうどすれ違った同年代の女の子のクラロリコーデを見て、絃那は納得する。




 10分ほど歩いて、目的地である自然公園の近くまでやってくる。


 ここは幻月島では珍しく、本物の植物がたくさん生えている場所だ。北区は特にフェイクグリーンが多いので、貴重な場である。


 というのも、学生のオオカミたちが異能を使う練習という名目で天候や気候を好き勝手にいじってしまうせいで。

 夏でも雪が降ったり寒波に襲われたり、冬でも猛暑日があったり台風が発生したりと、そんなことを繰り返しているうちに、植物が駄目になってしまうのだとか。


 ではなぜここの植物は無事なのかというと、答えは単純で。

 公園を管理しているオオカミたちが異能で守っているからである。


 絃那は入り口から緑が生い茂る公園の中を覗き見る。

 懐かしい。春にここで寮の新入生歓迎会をかねたお花見をやったのだ。


 そういえば麻由里と仲良くなったのは、その時だった。

 なぜか理九が隣に座ってきて。強面の彼がいるせいで絃那のまわりにはほとんど人が寄り付かなくて。

 そんな中、麻由里だけは『ここ座ってもいい?』と話しかけてくれて。

『2人って付き合ってるの?』と聞かれ思わず『ない』と即答すると、

『だよねー。全然そんなふうには見えない、あはははっ』

 と麻由里に大笑いされた。

 その横で理九が珍しく顔を引きつらせていたのを絃那は覚えている。

 あれはなんだったのだろう。


 道路に近い、木陰になっている場所に移動して、絃那はスマホを確認する。


 大丈夫。早すぎず遅すぎず、いい時間。

 絃那はほっとする。


 寮に直接迎えに行くという弥紘の申し出を丁重にお断りした手前、遅刻するわけにはいかなかった。遅れたら何を言われるか分かったものじゃない。


(着いたって連絡しておこう)


 弥紘にメッセージを送ろうとした、その時だった。


「ぎゃはははっ!」


 どこからか品のない笑い声が聞こえてきて。見れば、道路の向こう、反対側の歩道を派手な髪色をした数人の男たちがふらふら歩いていた。


 呂律の回らない声と、おぼつかない足取りから、彼らが相当酔っているのが分かる。朝っぱらから――いや、きっと朝までどこかで呑んでいたのだろう。


 絃那は目を逸らす。


 男たちは指輪をはめていた。オオカミだ。どう見ても学生には見えないから、彼らは卒業後もガジェットの所有を認められた者――つまりレベルB以上のオオカミだ。そして、恐らくあの髪色は、彼らが今、オオカミ化していることを示していて……


 ――ドゴッ!


 大きな音に、絃那の肩がびくりと跳ねる。

 再び下品な笑い声が耳に届いた。


「おーい、ちゃんと狙えよ~」

「はいはい俺! 次、俺やるから!」


 見てはいけない――そう思いながらも、絃那は見てしまった。そして、見たことを後悔した。


 男たちは笑いながら周囲の建物を破壊して遊んでいた。

 耐久度の高いはずの、それ故に異能者が集まる幻月島内の建造物に用いられているはずの煉瓦を、簡単に壊して、瓦礫をつくって、街路灯に投げつけ遊んでいる。


 何がそんなに楽しいのか。

 おそらく、本人たちもよく分かってないに違いない。

 まわりなんて見えてなくて。絃那の存在も、飛んできた瓦礫で危うく怪我をしそうになった猫が慌てて逃げていく様子も、彼らはまったく目に入ってないのだ。


(あんな人たちが)


 いったいどれほど、この世界に存在しているのだろう。

 絃那は吐き気がした。眩暈がする。

 頭の中に、病室で横たわる母の姿がフラッシュバックする。

 ぐわんぐわんと頭が揺れ、身体がふらついて……


「――っ、おい!」


 ふいに、誰かに抱き留められる。

 誰。誰だろう。気になるけれど、それよりも具合が悪い。絃那は必死で浅い呼吸を繰り返す。

 大きな手が絃那の額に触れる。思わず視線をあげると、どこか焦った様子でこちらを見つめる弥紘と目が合った。

 絃那は驚き、咄嗟に身を離す。が、それでまたふらついてしまい、再び弥紘に支えられる。


「馬鹿、大人しくしてろ」


 弥紘はそう言うと、絃那の身体を抱き上げ、すぐ傍に停めていた黒塗りの車に向かう。

 こんな状態でなければ乗るのを躊躇していたであろう高級車の広々とした座席に、絃那はそっと乗せられる。


「大丈夫か」


 絃那はなんとか頷き返す。

 と、開いたままのドアの向こうからスーツ姿の男性が顔を覗かせて、


「お待たせしました。あの阿呆共はちゃんとシメておきましたので」


 運転手なのだろう。彼は涼しい顔で何事もなかったかのように「車出しますね」と弥紘に告げ、ドアを閉じる。


 運転手が乗り込む音がして。すぐに車が動き出す。


 窓の外の景色が後ろへ後ろへと流れていく。


「飲む?」


 弥紘はミネラルウォーターの入ったペットボトルを差し出してくる。


「さっき買ったばかりでまだ口つけてない。飲んでいいぞ」

「ど、どうも」


 絃那はありがたく頂く。

 キャップを開け、ペットボトルを傾ける。

 ……冷たくておいしい。

 脳が、身体が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。


 ほっと息を吐き、口元を拭ったところで、隣に座る弥紘がじっと自分を見つめていることに気づく。


「すみません、もう大丈夫ですっ……ち、ちょっと寝不足だったのがよくなかったみたいで……」


 絃那は慌ててそう言った。

 素行が悪いオオカミを目にして取り乱した、とは言いたくなかった。なんだか、情けなく思えて。

 

「膝、貸す?」

 弥紘が、ぽんぽん自身の膝を叩く。


「……へ?」

「寝不足なんだろ。着くまで時間かかるから寝てれば?」


 その気遣いはありがたいけれど。

 いったい誰のせいで寝不足になったと思っているのだろう、この人は。

 絃那は首を振ってやんわりとお断りした。




 それからしばらく、車内は沈黙に包まれた。

 弥紘はスマホをいじっていて、絃那は絃那で外の景色をぼんやり眺めて過ごす。


(……マジか)


 と思ったのは、車が何事もなく幻月島を出て、本土へと続く橋を渡り始めたあたりである。


 あまりにも、あっさりし過ぎていた。

 本来、島へのヒトの出入りは手続きがかなり面倒で、だからこそ、絃那は夏休みも実家に帰るのを諦めたというのに。しかも……


「何?」

 視線に気づいた弥紘がこちらを見る。


 絃那は躊躇いつつ問いかける。

「えと……それ、持って行くんですね……?」


 その指輪を。


 弥紘は平然と頷いた。


 絃那は一瞬、思考停止して、

「……つかぬことをお聞きしますが、その……レベルって……」


「俺? レベルS」


 ヒェッ。絃那は絶句した。


「か、門廻家の方ってもしかして皆そうなんですか……?」

「んなわけないだろ。Sって全体の0.2%だぞ」


 ですよね、と絃那は苦笑する。そして、マジかと思った。

 門廻弥紘はレベルS。



 レベルとはオオカミとしての能力の強さを表す値である。

 同時に、どれだけ自由に生きられるかを表す値でもあった。

 オオカミの世界にも、ヒトとの共存を目指すために設けられたルールがあるのだ。


 レベルは能力の低い方からD、C、B、A、Sと全部で5段階になっている。

 Dは異能がほとんど使えない者だ。例えば上位のオオカミが浮遊の異能で象を浮かせられるのに対し、レベルDのオオカミたちはペンを1本浮かせるので限界だったりする。

 それくらいにオオカミの能力の個人差は大きい。


 構成比はレベルDが全体の約24%、レベルCが約45%、レベルBが約30%、レベルAが約1%、レベルSに至っては弥紘の言うとおり約0.2%とされている。


 勿論オオカミも様々で、中には遅咲きタイプもいるため、最終的なレベルが決定するのは月白学園高等部を卒業する際となるのだが、以降は卒業時のレベルによってある程度人生が決まってしまう。


 まず、レベルD及びCの者だが、彼らは卒業と同時にオオカミ化に必要なガジェットを手放さなくてはならない。以降は満月の夜にしかオオカミになれないのである。


 そしてレベルBとレベルAの者はというと、幻月島でのガジェット所有は認められるが、島を出る際に規制が設けられている。

 レベルBは本土へ渡る際に皆ガジェットを手放さなくてはならないし、レベルAは手続きをして、ガジェットを向こうに持ち込む必要があると認められた場合のみ許可される。


 レベルSだけは、すべてにおいて自由だ。

 その代わりレベルSになるためには圧倒的な強さだけでなく、その異能を使いこなし制御できるかという点も求められている。



 門廻弥紘はレベルS。絃那は頭の中で繰り返す。


 なんでそんな人が自分と婚約を? なんでそんな人が自分と……自分と……


「……」

 ふと、絃那はある可能性に気づいた。


「あのぉ……今日の行き先って、本当にあそこなんですか……?」


 私に送った画像、間違ってませんか? と、絃那は一縷の望みをかけて尋ねるが。


「? あってるぞ」


 スマホを確認した弥紘は、さらりと告げる。

 絃那は今度こそ言葉を失う。


 そして、その発言通り。


 車は2時間ほど走った後、目的地である老舗の5つ星ホテル天之牙あまのがへと到着した。

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