4.君にだけは
5月23日、木曜日。午前8時15分頃。
今日もまた、1日が始まろうとしていた。
「ふああ……」
僕は教室にある自分の席に座り、頬杖をつきながら、どでかいあくびをした。
あくびの反動で、目の端に涙が溜まる。それを右手の甲で拭ってから、もう一度あくびをする。
「おっす、おはよー」
「おはようー」
教室に、だんだんとクラスメイトたちが集まってくる。みんな各々の席へと座り、鞄を下ろして教科書を机に入れる。
僕は窓の外に見える、初夏の空を眺めていた。千切れた雲が点々と浮いていて、それがより空の大きさを実感させていた。
「ん?」
ふと、隣に気配を感じた僕は、頬杖をしたまま目を横へやった。
そこには、黒影さんがいた。自分の机の上に鞄を置いて、座るために椅子をひいたところだった。
「やあ黒影さん、おはよう」
僕がそう言うと、彼女はパッとこちらへ顔を向けて、「お、おはよう」と、ぎこちなくもきちんと挨拶を返してくれた。
「どうだい黒影さん?体調の方は」
「う、うん。なんとか回復したよ」
「そっかそっか、よかったよ」
「さ、差し入れ、あ、あ、ありがと、ね」
今日の黒影さんは、いつもより表情が柔らかい気がした。微笑み……とまではいかないけど、口許が緩くて、いつもみたいな緊張感がなく、リラックスしている表情だった。
(体調、本当に良くなったみたいだ。よかったよかった)
僕は彼女の横顔を見つめながら、心の中でそう呟いた。
「……えー、それでは教科書の96ページから続きを始める。第二次世界大戦についてだ」
教卓の前で、社会科の宮崎先生が教科書を開きながら、僕たち生徒へそう告げる。
それを受けて、みんな机から社会科の教科書とノートを出す。僕もみんなと同じように、のそのそと机からその二つを出して、シャーペンの芯をカチカチと出していた。
「あ、あれ?えっと……」
ふと見ると、隣の黒影さんは、まだ机に教科書を出していなかった。ノートだけがぽつんと置かれており、黒影さんはなにやら焦った様子で、机の中をまさぐっていた。
僕は先生に聞こえないように声をひそめながら、「どうしたの?黒影さん」と尋ねてみた。
「あ、し、白坂くん。え、えっと……ボク……き、教科書、忘れちゃったみたいで……」
「あらら。なら、僕の一緒に見る?」
「い、いいの?」
「うん、もちろん」
「ご、ごめん。じゃあ……えっと、お言葉に甘えて」
黒影さんは机と椅子を、少しずつこっちに近づけた。僕の机と彼女の机がぴったりくっついたら、その境目部分に教科書をひろげて置いた。
「えー、第二次世界大戦はだな、1939年から始まった。ドイツがポーランドへ侵攻したことが、開戦のきっかけとなっている」
先生が教科書を読みながら、淡々と授業を進めていく。僕と黒影さんは、一緒に教科書を覗き込んで、先生が読んでいる部分を目で追っていた。
「この時にドイツを指揮していたのが、かの有名なナチス・ドイツだ。次のページを開いて」
そう指示されたクラスメイトたちは、みんな一斉に次のページを開く。
僕もみんなと同じように、教科書を一枚、ぺらりと捲った。すると、隣の黒影さんが「え?」と、小さな声をあげた。
「ん?どしたの?黒影さん」
「…………………」
黒影さんの視線は、とある写真へと注がれていた。それは歴史上の人物の写真で、厳つい顔をした男が、キリッと前を向いていた。
その写真の上から、シャーペンで髭の落書きが足されていたのだった。それは実に長い髭で、中国の仙人とかに出てきそうなほどの長さだった。彼女が驚いたのは、きっとその落書きなんだろう。
ああそうだ、思い出した。前の授業の時に、あまりに眠すぎたから適当にページを開いて、ここに落書きしたんだっけ。すっかり忘れてた。
「……………………」
横目で彼女を見てみると、口がちょっと笑っているように感じた。僕はそれに、少しだけ驚いた。
いつも彼女はオドオドしていて、なかなか笑ったりするのを見たことがない。だからなんだか、彼女の笑顔がすごく珍しく思えた。
(せっかくだし、彼女を笑わせてみたいな)
そう思った僕は、彼女が教科書の写真をじっと見つめている横から、シャーペンでさらに落書きを加えた。
サングラスを、かけさせたのである。
しかもただのサングラスではなく、富豪の人がかけるような、グラス部分が逆八の字に斜めっているやつだった。
「んふっ……」
黒影さんは、ちょっとだけ頬を緩めた。授業中だから声をあげないようにしなきゃと考えているんだろう、口先はきゅっと閉じられているんだが、口角は間違いなく上がっていた。
そんな彼女の反応が面白かったので、僕はさらに落書きを追記した。
男の額に、「肉」と書いたのだ。
「んっ……!ふ、ふふ」
黒影さんは、さっきより笑った。目尻も下がっていて、笑いを堪えているのが丸分かりな様子だった。
授業中だから、笑っちゃいけない。だからこそ笑いたくなる。
「…………………」
彼女はちらりと、僕の方へ顔を向けた。僕はニヤッと笑いながら、さらに落書きを追加した。
男の写真の外側に、とある文章をひとつ入れたのだ。
『趣味:家庭菜園』
「んくっ!ふ、ふふふ、ふふふふ……」
彼女は口元を手で押さえ、肩を震わせて、必死に声を出さないよう奮闘しながら笑っていた。
(やった!嬉しいな……!黒影さんの珍しい笑顔を見られたぞ)
僕はシャーペンを教科書の上に置いた。そして、落書きされまくった男の写真を指さした。
「…………………」
彼女がまた、僕の顔を見る。俺は黙ったまま、こくこくと頷いた。
そう、これは黒影さんも落書きしていいよという、ジェスチャーだった。
彼女にもそれが伝わったようで、黒影さんは僕のシャーペンを手に取って、しばらくの間固まっていた。
「…………………」
だが1分ほどした頃、彼女はシャーペンを写真に向けて、落書きし始めた。
なんと彼女は、男に鼻毛を追加したのだった。
それはとんでもなくボーボーな鼻毛で、しかも毛先がくるんと美しくカールしていた。
「くっ!くく!ははははは!!」
僕はまさか、彼女がこんな攻めた落書きをするとは思わなかったので、堪えきれず普通に笑ってしまった。
「そこの二人、さっきから何を笑っているんだ?」
その様子を見た先生が、さすがに僕たちへ注意してきた。僕はすぐに「すみません!」と言って謝った。
「僕が彼女へ話しかけてしまったんです!僕のせいです!」
「そうか。授業中は、私語を慎むしないように」
「はい!失礼しました!」
僕がそう言うと、先生は「ん」とだけ答えて、また授業を続けた。ふいー、危ない危ない。落書きがバレずに済んでよかった。
それにしても、黒影さんの落書き面白かったなあー!結構お茶目なところあるんだなあ。
(ん?)
机に目線を落とすと、そこには黒影さんのノートが教科書の上に置かれていた。
そのノートの中央に、「ごめん」と書いてあった。
「…………………」
僕は黒影さんの顔へ目をやった。彼女はすごく申し訳なさそうに、眉をひそめて目を伏せていた。
(ああ、僕を笑わせちゃったことを気にしてんのかな?)
そう考えた僕は、彼女のノートに「気にしないで」と書いて返事した。そしてさらに、「さっきのやつめっちゃおもろかった!さすが黒影さん!」と追記した。
「…………………」
黒影さんが、おそるおそる僕を見つめてくる。僕は右手の親指を立てて、ニッと笑った。
すると彼女も、強張っていた表情がふっと解かれて、薄く笑いを浮かべてくれた。
……楽しい。
すごく楽しい。
白坂くんと一緒にいるのが、楽しくて仕方ない。
「お!?じゃあ、チェリー気に入ってくれたんだ!」
授業と授業の合間にある休み時間。その時にボクは、昨日教えてまらった曲の感想を彼へ伝えていた。
「う、うん。爽やかな歌で、いいなって思った」
「そっかー!いや~嬉しいなー!」
白坂くんは実に嬉しそうに、朗らかに笑っていた。そんな彼の笑顔を見ていると、こっちまでつられて口許が緩んでくる。
よく『眩しい笑顔』って表現があったりするけど、彼に関しては間違いなくそうだと思う。彼が笑ってくれる時、本当にキラキラ輝いているように見えてくる。
「あ!そうそう!黒影さんからオススメされたのも、昨日聞いてみたよ!」
「え?ほ、ほんと?」
「うん!いやー、すごく綺麗で、でもどこか切なさもあって、めちゃくちゃよかったよ!」
「よ、よかった、気に入ってもらえたみたいで」
「うん!教えてくれてありがと!たぶんしばらく、ずっと聞いちゃうと思う!」
「ど、どういたしまして」
え、えへへ。嬉しい。
「どういたしまして」なんて、初めて言ったかも。
ボクなんかがオススメするなんておこがましいと思ったけど、白坂くんは聞いてくれたんだ。
自分の好きなことを話せるのって、こんなに気持ちよくて、心が解放されるんだ。
楽しい。本当に楽しい。
ずっとずっと、彼と話していたい。
「…………………」
でも、そう思う一方で、ボクの頭にはある思いが沸き上がっていた。
それは、「ボクなんかが楽しいと思っていいのかな?」と、そういう思い。
ボクなんかが、こんなに楽しくていいのかな。そもそも、彼もボクと一緒にいて楽しいって思ってくれてるのかな。
本当は……無理してないかな。ボクに話を合わせて、疲れさせてしまってないかな。
白坂くんを不快な思いにはさせたくない。陰キャが喋りすぎても気持ち悪いし、ちゃんとペースを抑えてしておかないと……。
「…………………」
「黒影さん?」
「え?」
「どうしたの?急に黙り込んで」
「い、いや……な、何でもないよ。大丈夫」
「そう?」
「う、うん」
「そっか、君がそう言うんだったら、深堀りはしないけど……」
「…………………」
「あ、ねえねえ黒影さん。Lime交換しない?」
「え?Lime……?」
「うん!またオススメの曲とか教えてよ!Limeだったらさ、動画のURLとか送りやすいし!」
「……い、いいの?」
「え?なにが?」
「だ、だって、ボクと……Lime交換して、いいの?」
「???うん、どうして?」
「…………………」
「あれ?ごめん、もしかして嫌だった?」
「う、ううん!違う!ボクは嫌だなんて、絶対思わない!た、ただ……えっと、ボク……あんまりLime交換したことなかったから、ちょ、ちょっと緊張しちゃって……」
「そっか!よかった、安心したー!じゃあ、交換してもいいかな?」
「う、うん、もちろん」
ボクと白坂くんはお互いにスマホを取り出して、Limeの連絡先を交換した。
す、凄い……。ボクのLimeに、家族と公式アカウント以外の人が追加されてる……。
「これからもよろしくね、黒影さん!」
そう言って、白坂くんはまた満面の笑みを、ボクへと向けてくれた。
「…………………」
白坂くんが、本当はボクのことをどう思っているか、分かりようがない。
でも、彼の眩しい笑顔を見ていると、もしかしたら彼もボクと一緒にいるのを……楽しんでくれてるんじゃないだろうかって……。
そんな淡い期待が、胸に沸き上がってきて、止められなくなる。
キーンコーン カーンコーン
午前中の授業が終わって、お昼休みとなった。
ボクはいつもの如く、500円をポケットに入れて、直ぐ様教室から出ていく。そして購買でパンを二つ買って、女子トイレに入る。
そのトイレでパンを食べながら、スマホで漫画を読むのが、ボクのお昼休みの過ごし方だった。
昔は教室で寝たフリをして過ごすこともあったけど、それはそれで結構辛い。なぜなら、周りで楽しそうに喋っている同級生たちを見るのが、堪らなく苦しいからだ。
それに、ひそひそと周りから笑われるのも辛い。「絵に描いたようなぼっち」とか、そんな風に言われてたこともあった。
だからこうしてトイレに籠っているのが、一番傷つかなくて済む。
(……あ、もうそろそろお昼休み終わっちゃう)
ただひとつ難点なのが、教室にまた戻る時が緊張するということだ。
カラカラと音を立てて教室に入ると、少なからず注目を浴びてしまう。それが堪らなく嫌だった。
自意識過剰かも知れないけど、陰キャというのはそんな些細なことにも気を揉んでしまう生き物なのだ。
『あ!そうそう!黒影さんからオススメされたのも、昨日聞いてみたよ!』
「…………………」
でも、今日はいつもと違って……教室に戻るのが、そこまで怖くない。
だって教室には、白坂くんがいるから。
彼に会うために教室へ帰るんだって思うと、いつもより気持ちが楽になる。
(本当はお昼休みもお喋りしたいけど……きっと白坂くんも、他のお友達と一緒にご飯食べたいよね)
白坂くんはあれだけいい人なんだから、友達が少ないはずがない。きっとたくさんの人と一緒にご飯を食べてるはず。
ボクなんかが、その輪に入るのは絶対無理だ。間違いなく邪魔しちゃう。
(そうだよ、だいたい話してもらえるだけで御の字なんだから、これ以上親しくさせてもらうのは……贅沢、だよね)
白坂くんのお陰で、教室に行くのが少しだけ怖くなくなった。それだけで充分だから。
「……よし」
ボクは意を決して、トイレの個室から出る覚悟を決めた。ごくりと息を飲み、個室の鍵へ手を伸ばしたその時……。
「……んだってー!マジびびるよね!」
「やばいねー!キツイキツイ!」
女子トイレに、二人の女の子が入ってくる声が聞こえた。
私はピタッと動くのを止めて、息を殺した。こういう時、外に誰かいると出られないんだよね……。特に、ボクの苦手なギャルっぽい人もいるし……。
別に大したことないはずなんだけど、出るのは誰もいなくなってからにしようかな……。
「あー、やば!めっちゃ唇荒れてるわー!」
「いいよー、リップ」
「あ、ごめーん!」
「そう言えばさー、さっきの社会科の時さー、白坂くんと黒影が注意されてたじゃん?」
「あー、あったねそんなこと」
二人の会話が、個室の扉越しに聞こえてくる。おそらく、鏡で自分の容姿を確認しているんだろう。
ボクと白坂くんのくだりを知ってるってことは、この二人は同じクラスの人なんだ。だ、誰なんだろう……?分からない。
「なんかあの時さー、白坂くんが黒影を庇った感じだったじゃん?自分が喋りかけたんですーって」
「うんうん」
「白坂くん優しいよねー!黒影を庇うなんてさ。私だったら無理だわー!」
「それな~!ていうか、ウチは話すのがまず無理」
「ねー、なんかいっつもビクビクしててさー、イライラすんだよね!目障りだからマジ消えてほしい!」
「喋り方がとにかくキモイ!自分のこと『ボク』とか言ってるし」
「え!?マジ!?そうだったっけ?」
「そうそう、どこのアニメかよって!」
「うえ~!吐きそう!なんか可愛い子がそれやってるならまだしもさ~!あんな陰キャがやってても痛いだけだって!」
「マジそれな!鳥肌ヤバいわ!あ、てか次の授業ってなんだっけ?」
……そうして、二人は女子トイレから出ていった。彼女たちの声が、どんどんと遠ざかっていく。
「…………………」
私は、個室から出ることが出来なかった。誰もいなくなったはずなのに、一歩も動けなかった。
彼女たちに言われた陰口が頭の中に反響して、止まらなかった。
キーンコーン カーンコーン
授業が始まるチャイムが、学校中に鳴り響いていた。
「…………………」
ボクは結局、教室へは戻れなかった。
誰もいない女子トイレで1人、声を押し殺して泣いていた。
本当なら、今すぐにも帰りたかった。でも、教室には私の荷物が置きっぱなしになっている。だから放課後になるまで待つつもりだった。
(……やっぱりボクは、ここに居ちゃいけないんだ)
そうだ、何を自惚れていたんだろう。ボクは居ても居なくてもいい人間なんじゃない。居ない方がいい人間なんだ。
どこにいたって人を不快にさせてしまって、どんなことをしても気持ち悪いと思われる。
(死にたい、死にたい。死にたい死にたい死にたい……)
胸の中が、真っ黒な気持ちで溢れてくる。途方もない絶望感と虚無感に襲われて、もう胸が痛いことすら分からなくなってくる。
(ごめんなさい。ボクなんかが生きててごめんなさい。不快にさせてごめんなさい。存在しててごめんなさい)
顔も分からないクラスメイトに、私は必死に赦しを乞う。答えなんて、返ってくるはずもないのに。
(白坂くん、やっぱり……ボクの誤解だった。ボクと一緒にいて楽しいなんて、そんなことあるはずないよね。変な期待を抱いて、本当にごめん……)
一人称だって、もうボクとか言わない。ていうか、もう二度と喋らない。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
ボクなんかがここにいて、ごめんなさい……。
……ブー、ブー、ブー
その時、自分のスマホがバイブレーションした。何だろうかと思ってみて見ると、それはLimeの通知があったことのお知らせだった。
「……え?」
しかもそれは、白坂くんからだった。
『おっすー!いきなり連絡してごめんね。授業始まっちゃってるけど、大丈夫かい?もしかして具合悪くなったとかかな?』
「…………………」
ボクはすぐに、彼へ返信を送った。
『ずる休みしてごめん。身体の具合は悪くないんだ』
すると、また彼から返信があった。
『そうなの?大丈夫?』
『うん』
『本当?』
『大丈夫。心配かけてごめん』
……そう返信した途端、彼から突然電話があった。
「わ!え、えっと……」
出るかどうか迷ったけれど、最終的には彼と電話することを決意した。
「は、はい……もしもし」
『あ、黒影さん?ごめんねいきなり電話して』
「う、ううん……」
『本当に大丈夫?僕、さすがにちょっと心配なんだ』
「……大丈夫、だよ」
『………………』
「ほ、本当に大丈夫だから。ボ……私のことは……心配しないで」
『……黒影さん、今どこかな?』
「え?」
『よかったら、今どこにいるか教えてくれない?』
「…………………」
『もう家に帰っちゃった?いや、荷物が置きっぱだから違うかな?』
「……さ、三階の、女子トイレに……いる」
『女子トイレ?』
「うん」
『わかった、すぐに行くね』
「え……?」
『ちょっとだけ待ってて』
「う、うん……」
そうして、彼は電話を切った。
……なんで今、居場所を話してしまったんだろう。言わなければよかったのに。気がついたら、女子トイレにいることを口にしていた。
「おーい、黒影さーん。いるー?」
外の方から、彼の声がした。すぐに個室の扉を開けて、トイレから出た。
「……白坂、くん」
トイレの外には、心配そうに自分を見つめる白坂くんがいた。
「……黒影さん、やっぱり何かあったんだね」
「ど、どうして?」
「だって、目が赤くなってる。泣いてたのかなって……」
「…………………」
「それに、昨日と同じで、一人称がボクって言うのを止めてたから、何かあったんだなって気がついたんだ……」
「……白坂くん」
「もし僕でよかったら、話し聞くよ?」
「……し、白坂くんは、授業……いいの?」
「え?ああ、大丈夫。お腹が痛いって適当言って出てきたよ」
「…………………」
「あれだったら、場所変えようか?保健室とかだったら話しやすいかも……」
「……ううん、大丈夫」
「黒影さん?」
「し、白坂くんに……心配される価値なんて、自分には、ないから……」
「…………………」
「白坂くんの、大事な授業の時間、潰しちゃうから……。ほ、本当に大丈夫だから……」
気がつくと、白坂くんの顔が歪んで見えた。
それは、涙で景色が滲んでしまったから。
ぽろぽろと雫が頬を垂れていって、顔が濡れていくのが分かる。
「……………………」
白坂くんは、何も言わなかった。何も言わずに、ただ自分の隣に立っていた。
一体、どれほどの時間泣いていたのだろう。しーんと静まり返った廊下に、自分のすすり泣く声だけが反響していた。
「……黒影さん」
押し黙っていた白坂くんが、囁くように小さな声でこう言った。
「もしかしてなんだけど、一人称のボクっていうのを……からかわれたのかな?」
「……………………」
「昨日の君の反応を見て、実はちょっと察してたんだ。君はその一人称を、昔バカにされたことがあったんじゃないかって。それをコンプレックスに思ってるんじゃないかって」
「……………………」
白坂くんの言葉を聞いて、静かにこくりと頷いた。
「そっか……」
「……………………」
「からかってきたのは、誰なの?」
「……分からない。トイレにいたら、陰口が聞こえてきて……それで……。でも、同じクラスの人だとは思う……」
「……同じクラスの人、か」
「……………………」
「みんな、変なところに拘るよね。一人称なんて、どうだっていいじゃないか。それで誰かを傷つけたわけでもないんだし」
「……………………」
隣にいる白坂くんを、横目でちらりと目をやった。
その時、思わずギョッとした。
白坂くんは、腕を組んで、物凄い形相で怒りながら、泣いていた。
怒ってる白坂くんもかなり珍しいけど、泣いている白坂くんはもっと珍しく感じた。
いつも明るくて、優しくて、温和な雰囲気の彼が、こんなにピリピリした空気をまとっているなんて。
「白……坂、くん」
「……………………」
「なんで……君が泣いてるの?」
「……なんでって、そんなの」
「……………………」
「……悔しいからだよ」
「え……?く、悔しい……?」
「うん」
「……………………」
「黒影さんがさ、こんな……トイレにこもるくらい酷いこと言われたのに、僕……慰められる言葉がなんにも思い浮かばなくてさ」
「──!」
「人を傷つける言葉は簡単に言われるのにさ、人を助ける言葉が全然出せなくて、それがめちゃくちゃ悔しくて……」
「……う」
「……………………」
「うう、ううう……」
「……?黒影さん?」
また嗚咽し始めた自分を、白坂くんは心配してくれた。
「黒影さん……大丈夫?あ、いや、大丈夫じゃないよね……」
あたふたしている白坂くんの優しい声が、心の底に染みていく。
ありがとう、白坂くん。
自分のために泣いてくれて、ありがとう。
本当に、初めて。
誰かが自分を思って、涙を流してくれるなんて。
白坂くんと一緒にいると、自分が影じゃなくなる。ちゃんと血の通った人間になれる。
君と一緒なら、授業中も笑える。君に会いたくて学校へ来れる。
白坂くん、白坂くん、白坂くん……。
「……黒影さん」
白坂くんは、“ボク”の背中を優しく擦ってくれた。それがすごく落ち着いて、心が洗われたような気がした。
「……白坂くん」
「うん?」
「これから……その、よかったら……」
「うん、なんだい?」
「白坂くんと二人だけの時に、“ボク”って言っていい?」
「二人だけの時?」
「うん。白坂くんだけが、バカにしないでいてくれるから……」
「……そっか、わかった。君がそれで心が軽くなるなら」
「うん」
ボクがそう言うと、白坂くんは優しく微笑んでくれた。
……白坂くん。
君にとって、ボクってなんなんだろう。
こんなに優しくしてくれるのは、同じクラスメイトだからなのかな。それとも、仲の良い友だちだからかな。
……いや、何言ってるんだろう。どっちにしたって、ボクにとっては贅沢すぎる関係性だよね。こうしてボクのことを心配してくれて、あまつさえ涙を流してくれた。それだけでも、今までの人生で一番……ボクのことを想ってくれた人であることに、変わりない。
だから、それ以上なんてダメ。
それ以上は、求めちゃいけない。ボクは身の程を知った方がいい。クラスメイトから友だちへ、友だちからその上へ……。
ボクはそもそも、中性的な人間になりたくて、“ボク”って言ってるんだ。女の子にも男の子にもなりたくないんだ。だって初めから、“ボクなんかにそういう関係性は望めない”と、自分で分かっているから。
「……………………」
そう思っているのに。
白坂くん、君の笑顔を見ていると、どうしても心が揺さぶられる。
友だち以上のことを、期待してしまう。
ごめんね、白坂くん。この気持ち、早く壊すから。君には迷惑かけたくないから。
君にだけは、君にだけは絶対……。
死んでも嫌われたくないから。
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