すれ違い(2)

『千聖くんを起こす』という予想外のイベントが起きてから、三十分ほど後。

 私は千聖くんと優夜くんと一緒に蒸し暑い朝の通学路を歩いていた。


「くれぐれも気を付けてね? 怪我をした千聖くんなんて見たくないからね?」

 今朝、私が見た夢は『バスケの試合中にクラスの男子、坂本くんが怪我をする夢』だ。


 今日、六年二組のクラスは五時間目に体育の授業がある。

 そして、明日と明後日の時間割に体育はない。

 だから、今日見た夢が予知夢なら、今日の五時間目に悲劇が起きる。


 バスケの試合中、コートの外に座っていた坂本くんはボールが顔に当たって気絶する。

 衝撃のせいで唇を切ったらしく、坂本くんの口からは血が出ていた。

 あの分だと頬の腫れは数日続くと思う。

 命に別状はないし、絶対に見過ごせないってレベルの怪我じゃない。

 日常の不幸な事故として片付けても良いとは思う。


 でも、やっぱり防げるなら防ぎたい。

 だから、私は千聖くんに頼ることにした。

 運動音痴の私が無理に頑張るよりも、運動神経抜群の千聖くんに任せたほうが良いに決まっているから。


「大げさだなあ。ただボールを止めればいいだけだろ? 余裕だって。任せとけ」

 千聖くんはぽんぽん、と私の肩を叩いた。

「愛理は何もするなよ。突き指とかしそうだし」

「う……」

 しないもん、と言えないのが悲しい。

 私、クラスの友達とバレーの練習してて突き指したことあるもんな。


「とにかく、坂本のことはおれに任せろって」

「……うん。任せる」

「なんの話をしてるの?」

 急に、背後から声がかかった。

 振り返れば、春川さんと木下さんが立っている。

 黄色のワンピースを着た春川さんは今日も抜群に可愛い。


 彼女の周りだけ、空気がキラキラ輝いて見える。

 彼女の紫色のランドセルでは、ケーキやマカロンのキーホルダーが揺れていた。


「春川さん。おはよう」

「おはよう」

 春川さんは薔薇色の唇を軽く持ち上げ、上品に微笑んだ。


「おはよう、成海くん」

「……おはよう」

 さすがに無視してはいけないと思ったのか、千聖くんは困ったような顔で挨拶した。

 それに気を良くしたらしく、春川さんは一歩千聖くんに近づいた。


「ねえ、成海くん。坂本くんがどうとか言ってたけど、なんの話? 教えて」

「なんでもねーよ。春川さんには関係ねー」

「……酷い。そんな冷たい言い方しなくてもいいじゃない」

 春川さんは悲しそうな顔をした。

「成海くん、本当に変わったね。前は優しかったのに……まるで別人みたい」

 夏の風が春川さんの長い髪を揺らし、太陽の光が長いまつ毛に影を作る。

 彼女の大きな瞳には小さな涙が浮かんでいた。


「あー、成海くん、芽衣のこと泣かせたー。最低!」

 木下さんが鼻の穴を膨らませる。

「あーもう、わかったよ、ごめん」

 千聖くんは面倒くさそうに顔をしかめ、頭を掻いた。

「じゃあお詫びに私と一緒に学校行こ?」

 春川さんは一転して笑い、千聖くんの腕にギュッと抱きついた。

 両手で千聖くんの腕を抱きしめ、小鳥みたいに首を傾げる。

「はあ? なんでそうなるんだよ」

「いいじゃん、目的地は同じなんだからさあ」

 木下さんが割り込んできて、どんっと肘で私の腕を突いた。

 結構強い力で押された私は堪えきれず、一歩退いた。

 邪魔だから、どっか行って。

 木下さんは私を見てないけど、態度でそう言っている。


「……優夜くん。私たち、先に行こうか」

「待てよ愛理、だったらおれも――」

 千聖くんが何か言っているけれど、私は聞かなかった。

 優夜くんの腕を引っ張り、その場から逃げ出す。

 優夜くんは特に抵抗せず、私についてきてくれた。

「……ぼく、あの人たち嫌いだな」

 千聖くんや春川さんから充分に離れたところで、優夜くんは不満げに呟いた。

 私は無言で木下さんに押された腕を見下ろした。


「…………」

 実は私もそう思う、なんて。

 波風の立たない、平穏な学校生活を望んでいる私には、言えるわけがなかった。

 春川さんたちはスクールカーストのトップにいる人たちだ。

 あの人たちを敵に回す勇気なんて、ないよ。


「愛理ちゃんはいいの? 春川さんっていう人、どう見てもお兄ちゃんのことが好きだよね? このままじゃお兄ちゃん、取られちゃうかもしれないよ?」

「取られちゃうって……そんな。千聖くんは私のものとかじゃないし。私と千聖くんはただの幼馴染なんだし……」

 私は俯いて、スカートの裾を握った。

 シンデレラに立候補した私は、笑われたけど。

 ドレスを着た春川さんは、色んな人から可愛い、綺麗って、もてはやされていた。

 千聖くんがシンデレラと結ばれる王子様役に立候補したって、文句を言う人なんているわけない。

 みんな素敵、お似合いだって、言うに決まってる。


「じゃあ、春川さんとお兄ちゃんが付き合ってもいいの? 嫌じゃないの?」

 優夜くんは眼鏡のレンズの向こうから、じっと私を見つめた。

 優夜くんは菜摘ちゃんと同じようなことを言う。

 菜摘ちゃんもよく言うんだ。

 私に向かって、本当にそれでいいの? って。

 千聖くんと私は、ただの幼馴染。

 ねえ、本当にそれでいいの?……


「……それは、千聖くんが決めることだから。私がどうこう言うようなことじゃないよ」

 並んで立つ二人を想像すると、何故か胸がチクチク痛む。


「それに、もし。もしもだよ? 私が千聖くんと付き合う、なんてことになったら皆から笑われちゃうよ。私と千聖くんじゃ釣り合わないって――」

「何それ。皆って、具体的に誰? 誰がそんなこと言うの?」

 優夜くんは俯いた私の言葉を遮り、怖い顔で距離を詰めてきた。


「釣り合わないなんて言う人がいたらぼくが怒る。愛理ちゃんはこの前、ぼくのために田沼くんに怒ってくれたでしょう? だから、今度はぼくが愛理ちゃんのために怒るよ」

「えっ。なんで知ってるの?」

 驚いて顔を上げると、優夜くんは目を合わせて微笑んだ。


「田沼くんから聞いたんだ。あれだけぼくにちょっかいを出してきたのに、急におとなしくなったから、お兄ちゃんが何かしたのかなって思ってた。でも、実際に動いてくれたのは愛理ちゃんだったんだね。ぼくが幼稚園児のときだってそう。ぼくが本当のお父さんに連れて行かれないように、一生懸命戦ってくれた。これまで何度もぼくを守ってくれてありがとう」

 優夜くんは手を伸ばし、私の右手を両手で包んだ。


「ぼく、愛理ちゃんのこと大好きなんだ。愛理ちゃんには幸せになってほしい。だから、愛理ちゃんを傷つける奴は絶対に許さない。自分じゃお兄ちゃんと釣り合わないなんて言わないでよ。そんなふうに自分を悪く言わないで。それは愛理ちゃんのことが好きな人みんなを悲しませる言葉だよ」

 ぎゅっ、と。優夜くんは私の手を包む両手に力を込めた。


「ぼくの大好きな愛理ちゃんを傷つける人は、愛理ちゃんでも許さないからね。また言ったら怒るよ?」

「うん……わかった。気を付ける」

「わかってくれたらいいんだ。もっと自信を持ってよ。誰が何と言おうと、ぼくにとって愛理ちゃんは誰よりも素敵な女の子なんだから」

「ありがとう……」

 まっすぐな眼差しに、思いやりに溢れた言葉に、胸の奥が温かくなった。

 本当に優夜くんは優しい、良い子だ。なんだか泣きそうになってしまった。


 私が目元を擦っている間に、優夜くんは手を離した。


「――本当にもう。元はと言えばお兄ちゃんが悪いんだ。好きなら早く告白すればいいのに、意気地なし」

「?」

 優夜くんはため息交じりに何か言ったけれど、声が小さすぎて聞き取れなかった。

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