すれ違い(3)

 私が教室に入ってから、十分後。

「置いて行ったな」

 千聖くんは自分の席にランドセルを置くなり私の前にやってきて文句を言った。


「だって、私がいるとお邪魔だったでしょ。空気を読んだだけだよ」

「空気なんて読まなくていいよ。あの後、春川の奴、おれにベタベタ引っ付いてウザかったんだから」

 あ、千聖くん、『さん』付けするの、止めたんだ。

 本人から『さん』付けしなくていいよって言われたのかな。

 春川さんとどんな話をしたんだろう。

 正直に言うと、ちょっとだけ。

 ううん、本当はすごく、気になった。


「そんなこと言っちゃだめだよ。春川さんの気持ちはわかってるんでしょ?」

 優夜くんでさえ気づいたのだ。

 好意を向けられている千聖くん本人が気づかないわけがない。

 それほど千聖くんは鈍感ではなかった。


「……まあな」

 千聖くんは少々気まずそうに目を逸らした。

「でも、もし告白されたとしても。おれは春川と付き合う気なんてねーよ」


 そのとき確かに、心のどこかで喜んだ私がいたのに。

「なんで?」

 つい反射的に口が動いて、聞いてしまった。


「春川さん、可愛いのに。付き合えばいいじゃない」

「…………」

 千聖くんは口をへの字に曲げてから、鋭い目で私を睨んだ。

「愛理はおれと春川が付き合ってもいいのかよ」

「うん。千聖くんが好きなら、それでいいと思う」

 ズキズキ。

 なんでかな、胸が痛い。


「……あっそ。わかった」

 千聖くんは、ふいっと顔を背け、自分の席に戻っていった。


 不機嫌そうに着席した彼を見て、私はきゅっと唇を結んだ。

 だって、誰と付き合うかは千聖くんの自由だもん。

 私が口を出す権利なんて、ないよ。


 反対する理由もないし……。

 そのはず、なのに。

 千聖くんの前の席の春川さんが振り向いて、千聖くんと何か喋っている。

 春川さんは楽しそうに、千聖くんは面倒くさそうに。

 会話している二人を見ていると、やっぱり私の胸はズキズキと痛んだ。


「ねえ愛理ちゃん」

 急に話しかけられて、私ははっとして顔を上げた。

 いつの間にか、私のすぐ傍に菜摘ちゃんが立っていた。

 菜摘ちゃんは何故か私を見つめて苦笑している。

 仕方ないなあこの子は、みたいな感じで。


「菜摘ちゃん。おはよう」

「おはよう。いいの? あれ。放っといても」

 菜摘ちゃんが視線で示した先には千聖くんたちがいる。

 何か春川さんが千聖くんの気に入るようなことを言ったらしく、千聖くんが笑った。


 ――あ、っ。

 その笑顔を見て、全身に衝撃が走った。

 笑ったんだ。千聖くんが。

 これまでのように、優等生の仮面を被ったまま浮かべる上品な笑顔じゃなくて、素で。

 綺麗な顔をくしゃくしゃにして。楽しそうに。


 ――グシャリ。

 私の中で、何かが潰れたような音が聞こえた気がした。

 その笑顔を見られるのは幼馴染だけの――私だけの特権だったはずなのに……。


 わかってる。これは私のわがままだ。

 千聖くんが決めることだ、好きにすればいい、みたいなこと言っといて。

 いまさら嫌だなんて言えるわけない。

 私にそんな権利も資格もない。


「愛理ちゃん。いま自分がどんな顔してるかわかってる?」

「……どんな顔?」

 私は力なく聞き返した。


 本当は聞かなくてもわかってる。

 目の奥が熱い。鼻の奥がつんとする。

 私はいま泣きそうになっている。


 胸が苦しくて、辛くて、仕方ない。

 その笑顔は私だけのものだったのにって、そんな勝手なことを思ってる。


「自分でもわかってるんでしょ? もう何度も言ってるけどさ。そろそろ観念して、自分の気持ちに素直になったら?」

「…………」

「ねえ。このままじゃ本当に春川さんに取られちゃうよ?」

 菜摘ちゃんはじれったそうに言って、私の机に手をつき、身を乗り出した。


「取るって、そんな言い方……千聖くんは物じゃないよ。第一、もし春川さんと千聖くんが付き合うことになったって、私にどうこういう資格は」

「いー加減にして?」

 軽く頰をつねられた。

 驚いて見れば、にっこり笑う菜摘ちゃんの額には、怒りの血管が浮き上がっていた。

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