セルフケア04
「では早速走りだそうと思うけど、小豆君は初心者だし軽く3kmをキロ7分で走ろうか」
「キロ7分?」
謎単語の登場に小豆が首を傾げると影山は得意げな顔。
「ランナー達は、1km辺り何分で走るかと言うのをキロ◯分って表現するんだ。だから今回の場合は1kmを7分かけて走るペースで3km走ろうというわけさ」
「なるほど」
そういえば箱根駅伝の実況解説でそんなワードを聞いたことがあったっけ。
「それこそ箱根を走ったり実業団に所属している選手なんかはキロ3分かからないペースを保ち続けるんだ。まあ、小豆君は初心者だからその辺は気にせずにいこう。小豆君は初心者だから」
「……」
さっきから微妙にイラッとくるなこの人の言い方。
とはいえ、影山の言うことも一理ある。いくら運動部経験が長かったとはいえもう7年近くのブランクがある。たまーに誘われて体育館に行ってバドミントンをやったりフットサルをやるくらいなものだ。いきなり無理をしても怪我をするだけだ。慎重になるに越したことはないだろう。
「分かりました」
「よし、それじゃあ行こうか」
素直に頷いた小豆に満足そうな様子の影山は軽やかな足取りで走り出す。小豆もそれに倣ってその背中を追いかけることにする。正直今日出会ったばかりのこの人物と並んで走るのは変な気分だ。だが、7分×3で21分。そんな短い時間であればこの時間も決して悪いものではないだろう。
♢
数分後。
小豆は腕時計もしていないし、ましてや走りながらスマホを弄るわけにもいかないのでどのくらいの時間が経過したかは分からないが数分経っていくつか気が付いたことがある。
まずはランニングシューズの性能である。借り物なのにも関わらず、このシューズは小豆が走るための力をもたらしてくれている。普段から歩く、走るという動作を特段意識したことなかったが、このシューズは地面を確かに掴み、それを推進力に変えてくれる。
運動不足の小豆の脚は早くもしんどくなっているが、このシューズの軽さもあってかまだ走れそうだ。なんならもう少しくらいならペースを上げれそうな気もするが、影山の忠告を思い出してそれを自重する。
それに案外走るという行為は気持ちが良い。部活の頃は走るというとネガティブな印象があった。試合で負けたり、弛んでいるという顧問の主観と偏見に塗れた理由からだったりで罰で走らされているというものだ。でも今のこれは違う。自分の意志――とは、ちょっと違うが、強制されて走っているわけではない。走るという行為自体別に生きていく上で必須なわけではない。なのに自らの時間を割いてこうして走っていることがとても贅沢なことに感じる。それに今までは気付かなかったが、走ると身体中の細胞が活性化していく気がする。気が付けば、デスクワークで凝った肩や背中周りの筋肉がほぐれて、さっきまであった嫌なことのことをすっかり忘れていった。
そしてこれが最後になるが……
「ぜーはー……こひゅー、こひゅー……」
「……」
――影山さん、アンタいくらなんでも遅すぎやしないか!?
あれだけ上級者ヅラしておきながら、ガチ初心者の自分と横並び――正確に言うとちょい後ろを走りながら既に虫の息である。横からつつけば死んでしまいそうなくらいだ。
小豆も運動不足なだけあって、流石にきついが自分よりきつそうな影山を見ているとまだいけそうな気持ちになってくる。
そんなこんなをしているうちに1.5㎞の往復を終えて合計で3㎞地点に到達。それと同時に影山は糸の切れた人形の様に倒れ、そして死んだ。……いや、勝手に殺してはいけない。小豆はベンチに腰掛けたい気持ちをグッと堪えて影山へと歩み寄る。
「影山さん、大丈夫すか?」
「……」
……返事がない。ただの屍のようだ。
こうなっては仕方がない。小豆自身、影山には何も思い入れはない。手を合わせてその場を立ち去ろうとした瞬間、
「どうだった小豆君!?」
「うひゃあッ」
ザオリクでもかけられたのか急に蘇った影山に悲鳴をあげる小豆。
「なんで生きてるんですか影山さん!?」
「キミは随分と辛辣だな。逆に何で死んだと思ったんだい? 僕はフェニックスの如く不死身さ」
「虫のような息遣いでしたけどね」
「それはキミのような可憐な女の子を前に格好つけたくなる男の性さ。言わせんなよ」
そのウインク、うざったい。
確かに最初の数百メートル何故か短距離でも走っているのかというペースだったが単なる張り切り過ぎだったらしい。――まあ、私が可愛すぎるのが悪いか。すまなんだ!
普通に考えれば影山の発言はセクハラだが、この男に下心はないのは最初に分かり切ったので小豆はむしろ承認欲求がくすぐられて気分上々↑↑。
「それで? 僕の質問にはまだ答えていないけど、どうだったんだい?」
「う……」
そんなの答えるまでもない。
走っている間は嫌なことを忘れていたし、走り終わってからも達成感によるものなのかふわふわと温かい気持ちだ。さっきまでは心に突き刺さっていた嫌なことは今となってはどうでも良い。
「……まあ、悪くなかったです」
「うむ」
気恥ずかしさからモショモショとした言い方になってしまったが、影山にはちゃんと聞こえたらしい。彼は満足げに頷く。
「今日キミは嫌なことがあったかもしれない。だが、そんな些末なこと、身体を使ってあったかいお風呂に入って美味いメシをたらふく食べていっぱい寝ると案外どうにかなるもんさ」
「……」
振り返ってみると小豆は仕事を理由に自堕落な生活を送っていた。勿体無いからと言って菓子パンだけで3食済ませたり、夜中遅くまで目的もなくダラダラとSNSを見たり、休日は昼夜逆転していることが当たり前だ。それでなんとなく身体がダルくなるけど、またそれを理由にもっと手抜きすることになり、更に体調が悪化するという悪循環だ。
別に手を抜くことが悪いということではないのだろう。時にはダラダラとSNSを見るのも悪くない。だけどオンオフ、メリハリをつけることが大事なんだ。
悔しいが、影山に強引にランニングに連れて来られたことで気がついた。
「ちなみに僕はこうやって走った後の銭湯とご飯が死ぬほど好きでね。小豆君、キミもどうだい? 」
そう言われると小豆の腹の虫がグーッと鳴る。仕事と運動で消耗したこの身体にあったかいご飯や味噌汁、肉や魚に野菜を早くかっこみたい。
「いいですね、いきましょう!」
思わず笑顔が溢れる。そういえば、自分で笑顔になっているってここまで自覚したのは久しぶりかもしれない。
「……」
せっかく良い返事をしたというのに影山は小豆の顔をじーっと見ている。
「どうしたんですか? 早く行きましょうよ」
「……いや、その小豆君。キミって笑うと案外可愛いな……」
「は、はあッ……!? 何言ってんすか! 私が可愛いなんて当たり前でしょ!」
今まで散々失礼なことを言ってたくせにいきなり何を言い出すんだこの男は。小豆は自分の顔にポーッと熱が集まるのを感じる。いや、これは走った後で血行が良くなってるからであって……!
誰に向けてかの分からない言い訳をタラタラと心中で並べる小豆を横目に影山はクルッと踵を返す。
「さあ、早くいこう! 美味いお店を知ってるんだ。僕も早く汗を流してビールを飲みたい!」
本当にマイペースな男だ。これは小豆の偏見だが、この男すぐ酔っ払う気がする。もしそうなったら介抱してやらねばならない。せっかくこんな良い気分にさせてくれたんだ。それくらいは快く引き受けてやろう。
「お、星が出てるぞ」
影山の言葉を聞いて空を見上げると満天の――とまでは言えないが、確かにチラホラ星が出ている。これも今日すぐに帰宅していたら見ることができなかった光景だ。
これからもきっと仕事でもそれ以外でも嫌なことが出てくるだろう。それは当たり前だ。
だからそれを嘆いていても仕方がない。こうやって自分の機嫌は自分で取っていくのだ。時には今日みたいに人の力を借りてもいい。
それを今日出会ったこのおかしな男が教えてくれた。本当に変な夜だったが時にはそんな時もあっていいのかもしれない。今日、これから続く長い人生を戦う術を増やすことができたのだから。
〈了〉
※こんな感じの短編を思いつくまま書いてみようと思います。応援やコメントしてくれて嬉しいです。ありがとうございます。
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