第6話

夜、俺が部家にいると、

「朔、ちょっと良いか?」

廊下から泰良の声がした。俺は机の上の課題とにらみあったまま、気のない返事をする。

「ん~…」

「開けるぞ」

引き戸が動いて、泰良が顔を出した。

「なあ、朔、今朝の…」

話しかけてきたけれど、今はそれどころじゃない。

「終わるまで、待って!」

「…」

泰良は静かに部屋の中に入ってくると、机の上を覗き込んだ。数学に苦戦する俺の手元見て、

「…そこ、ー《マイナス》に変わってないぞ」

「え、どこ?あ、ほんとだ。…できた!じゃ、ここも教えて!」

「どれ?…これは…」

結局課題のほとんどを泰良に頼ってしまった。泰良の教え方は、先生より分かりやすい。

「あとは、とにかく反復。これで、全部終わりか?」

「うん、ありがと、兄さん」

数学は少し苦手なのだ。教科書を閉じて机に突っ伏した俺を見て、ふっと、泰良が笑う。

「朔は『うっかり』が多いんだよ」

「うっ…。こ、今度のテストは気を付け…」「なあ、そう言えば朔」

泰良の声に、今朝「あとで詳しく」と言われていたことを思い出し、顔だけ泰良の方を向く。

「ああ、今朝の…わっ…!」

泰良が俺の椅子をくるりと回転させた。

「…今朝、言ってたよな?『気を付ける』って」

俺の机に片手を着いて、泰良はぐいっと俺の顔を覗き込んでくる。

(…壁ドン?)

正確には壁じゃなく机だけど。イケメンの迫力に俺は観念した。


「…というわけで、未遂です」

「いや、完全に現行犯だろう?」

あれから、俺と泰良は床に座って、向かい合っていた。電車内でのことのあらましを伝える。

(イケメンの真顔、こわ…)

「えと…」

俺は俯き加減のまま、泰良の様子を目線だけでうかがう。俺の向かいで腕組みをし、胡座をかいていた泰良が天井を仰いだ。

(怒ってる?というか呆れてるのかな?これ…とにかく)

「…心配かけて、ごめん」

俺が謝ると、今度はガクっと項垂れた泰良は、深く深くため息をついた。暫しの沈黙のあと、項垂れたままの泰良がぼそぼそと口を開く。

「気になることがあったら、すぐに言えって…いつも言ってるだろう?」

最近の泰良には珍しく、声が弱々しい。今朝の電車での出来事は、また、泰良のトラウマを刺激してしまったのかもしれない。

「ごめん…こうなるとは思ってなくて…」 

「何か起きてからじゃ遅い」

「…今度こそ、本当に気を付けるから」

今のところ、そこまでメンタルはやられていないみたいだけど、泰良はとんでもないことを言い出した。

「明日は、朝も放課後も練習休むから、一緒に…」

「え、それはだめ」

俺はすかさず泰良の申し出を却下した。

「え?なんで?!」

泰良が顔を上げる。「心外」とでも言いたげな表情の泰良に思わず冷ややかな視線を送ってしまう。

「逆に、なんでそれでいいと思ってんの?大会、金曜日からでしょ?」

もう、今週末なのだ。大きな声を出したいの我慢して、できるだけ冷静に話す。

「そんなことより、大会に集中してよ」

「『そんなこと』じゃないだろ?!」

「『そんなこと』だよ」

泰良がそう言い出すんじゃないか、ってことはちょっと予想していた。俺のこととなると、本当に過保護なのだ。

「あのさ…。バレー部のエースとして、とか、三年生として、とか、思いとか責任はないわけ?」

「…それは」

泰良が口ごもる。

「…兄さんの気持ちは…嬉しいよ?」

ただ、少し重いけど。

「それなら…」

「けどさ、俺『足手まといな弟』になりたいわけじゃないんだよね」

「…!」

泰良が言葉に詰まる。

一部のファンの間で、俺がそう言われているのは、知っている。当然、泰良にその話は泰良の耳にだって入っているだろう。ふうっとため息をついて泰良が両手を上げた。

「…分かった…俺の負け」

不本意だろうが、

「…明日は、博己が電車の時間合わせてくれることになってるから」

泰良はまた、深くため息をつく。

「昔から、『こう』と決めたら曲げないもんな、朔は…」

「…ごめん。でも、できるだけ、心配させないようにするから…」

そう言った俺の頭を、泰良がくしゃっとした。俺は、

「…また子ども扱い…。なんなの、兄さんも、阿久津先輩も」

俺の言葉に、びたりと泰良の手が止まる。

「…なぁ、朔」

「?」

「…いつの間に祐介と、仲良くなったんだ?」

(あ、そうだった)

「後で詳しく」は痴漢のことだけじゃなかったたと思い出す。

顔を合わせるのも話すのも今日で二回目だ。まだ、それほど仲良くはないと思うのだけれど。

「『仲良く』っていうか…あの人、誰にでもあんな感じじゃないの?」

阿久津先輩は、単純に人との距離感が近い人なのだと思う。

「…」

泰良が何か、考えに耽っている。

「まあ、今朝はおかげで助かったけどね」

「…面白くないな」

俺が軽い調子で言ったのが気に入らないのか、泰良がぶつぶつ言っている。

ふと、時計を見る。

「兄さん、俺、そろそろ風呂入って寝るから」

「あ、ああ、そうか。…なんなら、一緒に入るか?久しぶりに」

泰良が冗談を言うので、

「やだよ、狭いもん」

「…広けりゃいいのか?」

「…何言ってんの?」

思わずまた、冷たい視線を送ってしまう。

「朔、冷たいな…」

なぜ、しょんぼりしているのか?

(もう、そんな歳じゃないでしょ…)

俺はため息をついた。

外ではそつがない泰良。「完璧人間」と呼ぶ人もいて、俺も身内ながらそう思うことが多いのだけど、正直「え?ほんとは馬鹿なのかな?」と感じる瞬間も時々ある。今はまさにそうだ。

泰良のファンは、こういう姿を知っているのだろうか?

「とにかく、早く出てって」

「朔…」

俺は、やっと立ち上がった泰良の背中をおして、部屋から追い出した。

















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それ以外、あり得ない @migimi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ