第2話
玄関で靴を履いていると、母さんが居間から顔を出した。
「ちょっと待って、朔ちゃん」
「なあに~?」
「これ」
と、母さんが顔の横に掲げたのは黒いランチバッグだった。
「兄さんの?」
「うん、忘れてっちゃって」
「珍しいね?」
「ね?」
母さんも、同意する。何でもそつなくこなす泰良は、忘れ物なんか滅多にない。
「だから、届けてほしいんだけど」
「おっけ~。分かった」
「お願いね」
「わ、重…」
手渡されたランチバッグは思った以上にずっしりと重かった。
(よく食べるからなぁ…)
体も大きいし、運動部だから当然なんだけど。泰良の弁当箱は、大袈裟じゃなく俺のやつの倍くらいある。
「じゃ、いってきま~す」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
泰良のランチバッグを提げ、母さんに見送られて、俺は家を出た。
早めに学校についた俺は、教室で一限目の予習をしながら朝練が終わるのを待っていた。窓の外に、生徒達が次々と登校してくるのが見える。
(そろそろかな?)
スマホを確認していると、ランチバッグの写真と、「忘れ物!」のメッセージに既読がついて、「今行く」という、短い一言が返ってきた。頃合いを見計らって、俺は一階下の三年教室に向かう。
(ちょっと、早かったか)
廊下から三年のクラスを覗くが、泰良の姿はない。まだ戻っていないみたいだった。
(誰かに頼むか?)
そう思って周囲を見渡すけれど、知っている先輩も見当たらない。
(しかたない。出直そ)
ふうっと、息をはいて、一度、自分の教室に戻ろうかと振り返ったその時、
「わぷっ…」
「おっ」
誰かとぶつかってしまった。その勢いで後ろに倒れそうになった俺の腕を、その誰かが引き寄せ、抱き締めた。
「ああ、悪い…!」
頭の上から声がする。相手がずいぶんと体の大きい人だということは分かる。少しして、相手の力が緩み、俺は顔を離した。
「…ふはっ…」
その瞬間、メガネが落ちてしまった。
(あ…っ)
「っぶなっ…セーフ」
どうやら俺のメガネは、落下せずに済んだみたいだ。
「す、すいません。あり…」
お詫びとお礼を言おうとその人を見上げる。
「…ちっちゃ…!…え…?…え、え?!」
「…」
(「ちっちゃい」って言ったな…)
事実なのだが少し苛つき、俺はお礼の言葉を飲み込んだ。そして、
「すいません、メガネ…」
と、声をかける。
「ああ、悪い。……これでいいか?」
その人は、受け止めたメガネを、俺の顔に掛けてくれた。意外だったが、片手がランチバッグでふさがっていたのでちょっと助かった。
「ありがとうございます」
俺は今度こそ、ちゃんとお礼を言い、改めて見上げる。
(でっか…。兄さんくらい?お、この人も…)
「イケメン…」
「え?俺のこと?!」
「あ、すいません。思わず…」
俺は、苦笑いしてごまかす。
「…っ?!」
その人が、顔を赤くしたのが分かった。初対面の人に失礼だったな、と、俺も少し顔が熱くなった。
(反省、反省…)
「あ」
その人の襟元に「ⅢーB」のクラス章が見えた。
(同じクラス!)
「あの、俺『小埜泰良』の弟なんですけど…」
「…え、泰良の弟?!」
名前呼びということは、それなりに関わりがあるだろうと判断して、
「はい。兄に…」
と、言いかけた時、
「朔!」
少し離れたところから、聞き慣れた声がした。
声のする方を向くと、泰良が駆け寄ってくるところだった。
「あ、兄さん!」
「あ…」
俺も泰良に近付く。
「よかった、会えて。はい!」
俺はランチバッグを差し出した。
「あ、ああ、ありがとう。わざわざ、悪い…」
泰良はバッグを受けとると、俺に微笑みかけて、それから俺の後の方に目をやった。
「…祐介になんかされたのか?」
「ゆうすけ?」
キョトンとして聞き返す。すると、俺の後ろで、さっきぶつかった人が、
「俺は何も…、あ~、いや、余所見してて、ぶつかったけど…。わざとじゃ…」
(この人、「ゆうすけ」って言うんだ)
泰良が、じっと「ゆうすけ先輩」を見ている。俺は、
「兄さん、ぶつかったのはお互い様なんだよ、俺も周り見てなくて」
「朔…」
泰良は、視線を俺に戻した。
「先輩のおかげで、後ろに倒れないで済んだし、メガネも落とさなかったから」
「は?…?」
泰良が再び、「ゆうすけ先輩」に目をやった。先輩は頭を掻きながら、
「だから、わざとじゃ…!」
さっきより、視線が冷たいような気がする。
その時、予鈴が鳴った。
「あ、俺、戻んなきゃ。先輩、ありがとうございました。俺、朔太郎です。小埜朔太郎」
「さくたろう…」
「じゃね、兄さん」
階段の方に体を向け手を振ると、泰良も右手をあげた。
「ああ」
「さくたろう!俺は阿久津祐介!またな!」
「はい」
「あくつゆうすけ先輩」も手を振ってきたので、俺は軽く頭を下げてから、階段を掛け上った。
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