それ以外、あり得ない

@migimi

第1話

枕元のスマホが震える。

「ん~…」

表示されている時間を確認してアラームを切り、布団を被ったまま猫のように背中を伸ばす。階段を上る足音が聞こえて、俺はまた枕に顔を埋めた。

「朔太郎、朔」

兄、泰良の声。毎朝決まった時間に俺を起こすのは、子どもの頃からの泰良の役割だ。

「起きろ、朔」

「…起きてるよ~」

少し間を空けて答えると、さっと引き戸が開いた。体を起こして入り口の方を見ると、大きな黒いシルエットが立っている。

「はよ~」

向こうの表情は確認できないけれど、笑顔を向ける。メガネを取ろうとベッドヘッドに手を伸ばす。

「…?…ん?」

いつもだったらすぐ手に触れるはずのメガネが触れない。手探りの範囲を広げてみても、感触がない。

「あれ?」

少し焦っていると、ふぅっ、と、ため息が聞こえた。

「入るぞ」

と、シルエットが動き、ベッドのすぐそばにしゃがみ込む。

「ほら」

と、何かが目の前に差し出され、手を伸ばすと、慣れた感触が触れた。

「あ、メガネ」

「踏むとこだったぞ?」

どうやら寝ている間に、落としたらしい。

「ありがと」

受け取ったメガネをかけると、ようやくシルエットの輪郭がはっきりとし、すぐそこには、あきれたように微笑む泰良の顔があった。

(おお、イケメン)

じっと見ていると、泰良は目を逸らして立ち上がった。窓の方に手を伸ばし、さっと、カーテンを開ける。

「…!」

朝日が眩しくて、思わずぎゅっと目を閉じると、ふっと泰良が笑った。

「さ、起きろ」

「はぁい」

(イケメンだなぁ…)

泰良は、身内の贔屓目なしに整った顔をしていると思う。

(その上、背は高いし、バレー部で大活躍だし、成績も常に上位だし…)

我が兄ながら、モテ要素しかない。通っている高校のみならず、他校の生徒からも人気があり、「小埜先輩が、○○高の女子から告白されていた」なんて話は、度々俺の耳にも入ってくる。だけど「OKした」って話は聞かなくて、幼馴染みにその話をしたら、

「朔太郎がいるからな」

と言われてしまった。手のかかる弟のせいで、恋愛どころではないのかと思うと、なんだか申し訳ない。

(俺なら、大丈夫なんだけどな…)

ふと、泰良がすでに制服姿なことに気付いて問いかける。

「…朝練?」

「ああ…。だから、今日は先に出る」

「来週、大会だもんね」

昨夜、夕食時に話題に上っていたことを思い出す。

「…大丈夫か?」

「うん、平気。早めの電車乗るし」

「…」

(心配性だなぁ、相変わらず…)

高校に入学してすぐ、俺は電車で痴漢に遭った。大声を上げ、犯人の腕を掴んで次の駅に引きずり下ろすと、相手は結構いい歳をしたサラリーマン。その上、

「男同士なんだから、いいだろう!」と開き直っていて、

「ヤバイな、あの人…」

と心底呆れた。

俺が痴漢に遭ったことを知って、「そいつ、ただじゃおかない!」と顔も知らない相手に切れまくり、その後「弟を一人にした俺のせい」と、自分を責めまくっていた泰良の情緒は、もっとやばかったかもしれない。

それからは、俺の身の安全と、泰良の情緒の安定のため、一緒に登校しているが、今日のように別登校になる時もあって、そんなときは、混み合う時間の電車は避けている。

まだ何か言いたそうな泰良に、

「遅れるよ?」

と、にっこり笑顔を向けると、泰良はぐうっとなにかを飲み込んで、

「…じゃ、いってくる」

と、部屋の出口に向かった。

「いってらっしゃい」

出る時に少し屈まないといけない泰良の背中を見送りながら、手を振る。

(でっかいなぁ)

百九十センチという泰良の立派な体格に対して、俺は百五十五センチ。男子の中ではかなり小柄だ。周囲からは、

「小埜兄弟って、全然似てないよな?」

と言われる。

(そりゃ仕方ない…)

俺と泰良は「兄弟」ではない。泰良の父親と俺の母親が兄妹という、実際の関係は従兄弟なのだ。まあ、母親同士が親友で、俺が生まれた時から一緒に過ごすことが多かったらしいが。

「着替えよ…」

ベッドから出て、パジャマ代わりのスウェットを脱ぐ。鏡に映る体には、火傷の痕が残っている。特にひどいのは右側の手足だ。前髪で隠れた額にも裂傷の痕がうっすら残っている。

俺は三歳の頃、両親と共に交通事故に遭ったらしい。両親はその事故で他界し、俺だけが奇跡的に一命を取り止めた。

事故の影響なのか、三歳という当時の年齢のせいなのか、事故の記憶も、両親との思い出もほとんど俺の記憶にはない。

一番古い記憶は、何かを繰り返し叫びながら泣きじゃくる、小さい泰良の姿かもしれない。事故があった当時、泰良は五歳。泰良は、退院後、泰良の家で療養していた俺から離れず、

「おれがいないときに、さっくんがしんだらどうするんだよぉっ!」

そう言ってまた泣いた。それでしばらく幼稚園を休んだらしい。

俺の交通事故は、俺ではなく、泰良の方にトラウマを植え付けてしまったみたいだ。

俺の目が悪いのも、事故の後遺症だと言われている。それも泰良の心配症に拍車をかける原因なんだろう。なかなかに根が深い。

泰良が中学生までは、寝室も一緒だった。泰良が「安心して眠れない」と言ったからだ。今だに毎朝起こしに来るのは、俺の生存確認なんだと思う。

泰良のトラウマを考えると、俺に向けられる過度な心配症に、事情を知っている者は何も言えなかった。









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