第12話【前編】
ホノリウス5世の従者のマリヌスは、祭儀の為の行列が到着するのを待ちながら森の中で身を潜めていました。
「絶対にイソルデ修道女に私の前に顔を出させ、偽勅書の証拠を突きつける。ざまあみろだ」とホノリウス5世の今朝の言葉を思い出しながら、全く子供の仕返しがとんでもない大事になってしまったなと溜息をつきました。
大天幕を出発した祭儀のための行列は、厳かに森の中の道を進んでいました。
祭具を掲げ鈴を鳴らす司祭達が先頭に立ち、派手な衣装の大柄な領主が手綱を引く白馬に騎乗したホノリウス5世が続き、得意げなアウレリウス枢機卿と、緊張した面持ちのエルドリス女子修道院のルシアナ修道院長がすぐ横を付き従って歩いていました。
小型の鞄を抱えて行列に加わっていたグレゴリー司教は、エミリオ司教がかなりの急ぎ足で合流してきたので安堵しました。
「追いついて良かった、間に合わないかと心配しましたよ」
グレゴリー司教が少し息をきらせたエミリオ司教に小声で話しかけます。
「それが、留守番役のコマースウィック村の教会の神父に捕まっていて……セレニテ女子修道院が閉院になっても、修道女達はちゃんと保護されるから大丈夫だと納得してもらうのに時間がかかりました。はあ……今回の記録をあなたが取ってくれるので本当に助かりますよ、グレゴリー司教」
「なあに、こんな珍しい儀式はしっかり記憶して書き留めておきませんと。しかしねえ、女子修道院の皆さんが建物から出てきてくれるのか心配ですよ。聞いた話では、問題の修道院長が頑として顔も見せない態度みたいですしね。とにかく敷地内を無人にしないと直轄地宣言は無効というのが一応の決まりですから。教皇は別に心配もせずに張り切っているようですけどねえ」
グレゴリー司教の言葉に、エミリオ司教は胃の辺りを押さえました。ここまで大変な思いをして準備した大規模祭儀です。混乱なく成功させねばなりません。
グレゴリー司教はのん気に首を伸ばして行列の前方を見やりました。
「……そりゃそうとエミリオ司教、修道女の方の人数が増えていませんか?」
「ルシアナ修道院長が急遽、近くの女子修道院から何人か呼び集めたんですよ。妙な鐘の音の件もあったし祭儀と閉院の時にいざこざが起こって人手が必要になるかもしれないという事で……そんな事が無いように心底願います」
行列はやがて森を出て、低い塀の向こうにルーメン大聖堂の廃墟が見える場所に出ました。廃墟を目にした人々の低いざわめきを耳にしながら、馬上のホノリウス5世はここまでは上手くいったな、と思いました。廃墟からの謎の鐘の音で、立会人の一部が怯えて来るのを嫌がるかもと少しだけ懸念していましたが、かえって好奇心が強まっていたようです。
セラフィーナが仕組んだ呪術の詳細がわからない以上、出来るだけの対策を講じるしかありません。そこで、まずこの場所や建物を大勢の人目に触れさせ注視させようと考えたのです。領主は初めて見て予想より大きな建物に驚いていますし、枢機卿や司教達も感心したように小声で話し合っています。
コマースウィック村の村人達も、近年はほとんど誰も近寄っていないので、こんな建物だったのかと皆で指差しながら見上げています。
人間の視線で<見られる事>も一種の呪術です。これだけ大勢に見られれば<隠す事>の呪術がかけられていても少しは弱まったでしょう。
しかし、本番はこれからです。
ホノリウス5世は、アウレリウス枢機卿にセレニテ女子修道院の門前に行列を進め待機するように命じました。
イソルデ修道女はセレニテ女子修道院の屋根裏部屋の窓から、ホノリウス5世の長い行列がこちらにやって来るのを眺めていました。ああいう風に大人数でやって来て命令すれば、自分があっさり降参すると思われているのか、と軽蔑します。
ホノリウス5世は本気で自分を追放しここを教皇直轄地とするつもりだし、ルシアナ修道院長や組織には教皇の誘拐などを全て知られているのは確実です。もう逃げ道はどこにも無いと、イソルデ修道女は覚悟を決めました。けれど。
ホノリウス5世が正式に直轄地宣言を行おうとするならば、門から無人の敷地内に入らなければなりません。ならば阻止できるのは、門の開閉を決める権限のあるイソルデ修道女だけです。<教皇領の管理者>を否定され、悪事を働いた咎人となっても、組織に捕まるまでは正式な女子修道院長なのです。
――たとえ乗り込んできた組織に捕まっても、私がセレニテ女子修道院の門を開けず誰も出て行かなければ、私は教皇に勝った事になる。
大勢引き連れて大げさな準備をして来たのです、門の前で長時間粘るのは不可能でしょう。
そして、ホノリウス5世が女子修道院の門を破るような、荒っぽい真似は不可能だとイソルデ修道女は確信していました。
敷地に入れず、何も出来ず怒り狂っているホノリウス5世の顔を想像して、イソルデ修道女は歪んだ微笑を浮かべました。最高位に君臨している教皇に恥をかかせる事が出来たと思えば、締めくくりとしては悪くない……。
イソルデ修道女は屋根裏部屋から出ると急ぎ足で、古びてはいますが天井の高い広い礼拝堂に入りました。小さな窓の外から、司祭が鳴らす鐘の音や、人々のざわめきなど色々な音が聞こえてきます。
5人の修道女達が不安そうな表情で木の椅子に固まって座っています。小太りのカルミナ修道女がイソルデ修道女の姿を見るなり声を上げました。
「院長。調理場に保存していた薬草がほとんど全て黒くなって使い物になりません。採ったばかりですのに。本当にこの建物は大丈夫なのですか? ドリン修道女は体調が悪くて咳が止まらないですし、鶏も山羊も相変わらずずっと元気が無くて……」
「心配しなくても大丈夫です。天気が良くない日が続いたせいですよ。今日は一日静かに礼拝堂で祈りを捧げて過ごしましょう」
一番高齢のドリン修道女は不機嫌な顔で、当てこすったように言いました。
「全くここ最近、何がどうなっているのですかね、院長。廃墟から妙な鐘の音はするし今日は何やら騒々しいし、挙句礼拝堂に押し込められるなんてね。私の体調も悪くなるばっかりですよ。前の院長の時は落ち着いた暮らしが出来たのに」
イソルデ修道女は湧き上がる苛立ちを何とか抑えました。
元々、一番年若い彼女が院長になった時から他の修道女達とはあまり上手くいっていませんでした。しかし少し前から、徐々に皆がイソルデ修道女に反抗的になってきて、ルーメン大聖堂の廃墟から鐘の音が響く騒ぎの後からはっきりと攻撃的になってきたのです。
けれどこの5人の修道女を守るのが院長である自分の役目なのだと、イソルデ修道女は両手を固く握り締めました。
ミルドレッド修道女が、いきなり椅子から立って険しい表情でイソルデ修道女に詰め寄りました。
「先日、エルドリス女子修道院の修道院長と名乗る方が突然門前にやって来たと思ったら、今日は何ですか? さっき塀の隙間から覗いてみたら、遠目ですが白馬に乗った純白の衣装の方を先頭に聖職者らしき方が大勢見えました。あの方はまさか教皇ではないでしょうね?」
「教皇ですって? この小さな女子修道院に! 何のために!」
痩せて顔色の悪いクランティーヌ修道女が悲鳴を上げ、セラフィン修道女が皺の寄った手で顔を嘆きました。
「ああ、嫌だ嫌だ……ずっと真面目にやってきたのに今さら訳のわからない目に遭うなんて」
ミルドレッド修道女がイソルデ修道女を睨みつけました。
「院長、貴女は一体何をやったのですか? 贖罪の為の労働とはいえ、皆が反対したのに荒っぽい男達を廃墟に住まわせて……最近彼らも見かけませんけど……エルドリス女子修道院長が院長に何を言ってたのかも答えてくれませんが、今ここで白状してください」
「白状ですって……そんな言い方は……」
「あの行列はもしや組織が教皇と共に院長を告発し、捕らえる為に来たのではないですか?」
イソルデ修道女が青ざめた顔で黙っていると、ミルドレッド修道女が礼拝堂から出て行こうとしました。
「ミルドレッド修道女! どこへ行くのです?」
「これから私が外に出て話をしてきます。いくら共同体としての決まりがあっても、裁きの巻き添えは御免です!」
「……まさか、私を、罪人として引き渡そうというの?」
イソルデ修道女の声が震え、ミルドレッド修道女が憎々し気に吐き捨てました。
「やっぱり後ろめたい事があるんですね。教皇に抵抗なんて恐ろしい事をするぐらいなら、先にひざまずいて許しを乞います。とにかく開門して姿を見せて恭順の意を示せば……」
「門を開けるのは許しません!絶対に!院長命令です!」
クランティーヌ修道女がかすれた声で叫びました。
「こんな事になっても私達に命令するつもり? その気になれば教皇や組織は門を破って捕まえに堂々と入ってくるわよ! 聖域で罪人を匿うのとは訳が違う! 院長が罪人なんですからね!」
口々に非難したり罵る修道女達の声を聞きながら、イソルデ修道女は礼拝堂の入り口に立ち塞がりました。
ホノリウス5世は従者の手を借りて白馬から降りると、「聖なる葡萄の樹の杖」を持ってアウレリウス枢機卿とルシアナ修道院長を従えてセレニテ女子修道院の門前に進みました。
門には、呼び出しの為の小さな鐘がついています。事前の打ち合わせ通りアウレリウス枢機卿が鐘を高らかに鳴らし、「イソルデ修道院長! 教皇とルシアナ修道院長の来訪です! 門を開けなさい!」と良く通る大きな声で3回呼び掛け、しばらく待ちました。
ミルドレッド修道女や修道女達は、門の鐘の音とアウレリウス枢機卿の声を耳にして青ざめました。
しかしイソルデ修道女は動きません。カルミナ修道女が泣き出しました。
修道院からは何の反応も返事も無く、ルシアナ修道院長は悲しそうに俯きました。これが最後の機会だったのです。
ホノリウス5世は言いました。
「では、始める。アウレリウス枢機卿、ルシアナ修道院長をお連れしてこの場から離れてくれ」
2人が移動したのを確認してから、ホノリウス5世は懐から小さな銀の鈴を取り出しました。
「頼むぞ、ヴォルフ博士」
そう呟くと力強くゆっくりと銀の鈴を5回振りました。
――リン! リン! リン! リン! リン!
澄んだ鈴の音が、辺り一面、ルーメン大聖堂の廃墟にも広がり響き渡りました。
礼拝堂のイソルデ修道女達にもその音が聞こえ、一瞬皆は窓の方を見ました。
墓地で待機していたヴォルフ博士は、鈴の音が鳴り終わるやいなや大声を上げました。
「皆の者! 教皇の来訪だ! 教皇の来訪だ! 急ぎ祭儀に集え!」
いきなり、礼拝堂の天井から大音響が響きました。
まるで巨人が屋根の上で踊り跳ねているように建物が揺れ、あちこちの柱がみしみしと音を立てます。
壁に掛けてあった聖画が落ち、祭壇の祭具も激しく揺れます。建物が壊れそうな凄まじい音に、さすがにイソルデ修道女と他の5人が怯えて礼拝堂の隅に固まった時です。
陽光が差し込んでいた礼拝堂の中が瞬きのうちに漆黒の闇に包まれました。
建物の揺れと音は止まり、どこからか聖歌が聞こえてきます。
大勢の修道士が歌う清らかな聖歌が響き渡り、手に灯りを持った白い僧衣の修道士達が音も無く続々と礼拝堂に入ってきました。
壁も何も関係なく、あらゆる場所から全てを通り抜けて堂々と静かに歩む修道士の様子は荘厳そのものでした。
修道士達の持つ灯りで照らされた礼拝堂は、ひんやりとした空気に満たされ今まで見た事も無い場所に見えます。
広い礼拝堂は修道士で一杯になりました。皆、灯りを手に整列して祭壇に向かって静かに立っています。司教らしき赤い外套を着た人物が祭壇に上り何かを言いかけて、ふと奥の壁際の修道女達に気が付きました。
司教は体を傾けて最前列の修道士に何事か告げ、修道士はうなずくと真っすぐに足音も立てずにイソルデ修道女の眼前にやって来ました。
背が高く、白い僧衣に美しい紫色の肩掛けを身に着けています。
「修道女達よ。そなた達も同じ神に仕える者、決して蔑ろにはせぬ。しかし今より我々だけで重要な祭儀を行わねばならぬ為、聖域より出て行ってもらう必要がある。院内は真の暗闇ゆえ、建物の出口までは案内する。門を開けるのはそなた達だけでも大丈夫なはずだ」
イソルデ修道女は、灯りで照らされた修道士の顔を見上げました。
「セレニテ修道院ですって? あなた達はまさか……」
「我々はこの地を清め修道院を建て大聖堂で祈った、古い聖域で最も古い者。役目を終え墓地で眠っていたが、教皇の来訪により目覚めた」
修道女の誰かが震え声で叫びました。
「まさか、亡霊……!」
修道士はうなずきました。
「そう呼んでも構わぬ。だが恐れる必要は無い。我々も神に仕える者、そなた達と変わりは無い」
クランティーヌ修道女が震えながら小さな悲鳴を上げました。
「早く早く、ここを出ましょう!」
しかしイソルデ修道女は唇を噛み締め、背中を壁に押し付けるように立ち尽くしていました。
「祭儀をするなら、勝手にすればいいでしょう。私たちは終わるまでここにいます。修道女がいても不都合は無い筈です」
ミルドレッド修道女が叫びました。
「イソルデ修道女! まだそんな事を!」
風も無いのに礼拝堂の中の全ての灯りが揺れて、天井や壁に奇妙な影が踊ります。修道士は静かに言いました。
「今この地全ては我々の目覚めにより聖域となっているが、どうしてもと願うならば留まっても構わぬ。だが祭儀が終わり我々が去る時にそなた達も一緒に来てもらわねばならぬ。聖域内にいるというならば、それが規則だ」
イソルデ修道女は蒼白になって修道士を見ました。
「つまり亡霊の世界へ行かねばならないと?」
修道士は無表情なまま返事をしません。その時、セラフィン修道女が泣き声で言いました。
「院長! ドリン修道女が倒れて気を失いました! このままでは……」
イソルデ修道女は、床にうずくまって抱き合って震えている修道女達を見ました。一番老齢のドリン修道女は目を閉じて動きません。
――建物を出て、門の外に出る。それは、私が教皇に負けることだ……。
しばらく黙り、心を決めてからイソルデ修道女は修道士を見上げはっきりと言いました。
「私は女子修道院長です。出口まで私と皆を案内してください。その後まっすぐに建物を出て、門を開けあなた達の聖域外に出ると約束します」
門の前に立っていたホノリウス5世は、かすかに話し声が聞こえたので杖を握る手に力を込めました。
しばらくして閂の外れる音が響き、ゆっくりと門が開きました。
イソルデ修道女と、互いに支え合うように5人の修道女が立っていました。
ルシアナ修道院長の驚いたような呼び声が上がり、修道女達は門から飛び出すとホノリウス5世には目もくれず、動けない修道女を抱えつつ、何事か叫びながら必死でそちらに向かって走り出しました。
しかしイソルデ修道女は動かず、ホノリウス5世を見ています。
ホノリウス5世も動かず、じっとイソルデ修道女を見ました。
やがてイソルデ修道女は、大きく息を吐きました。
「……私の完敗を認めます。全くとんでもない悪辣な策士ですね、教皇」
「賞賛と受け取っておく。しかしそなたも悪党らしい潔い態度だな。褒めてやる」
「どうやって礼拝堂いっぱいに亡霊を出現させたのか教えてくださる、ホノリウス5世様?」
「断る」
少しだけ楽しそうに笑ってから、イソルデ修道女は背筋を正し落ち着いた足取りで門を出るとルシアナ修道院長の方に歩き出しました。
イソルデ修道女の後姿を見送ってから、ホノリウス5世は堂々と門の内側に歩いて行き「聖なる葡萄の樹の杖」を両手で地面に突き刺すと、大声で宣言しました。
「今よりこの地を教皇ホノリウス5世の直轄地とする!」
その瞬間、足元が、直轄地全体が揺れたのをホノリウス5世は感じました。
門が開いてから、大急ぎで駆け寄って来ていたアウレリウス枢機卿が息を切らしながらも答えました。
「立会人が教皇の宣言を確認しました。今よりこの地は、教皇領から教皇ホノリウス5世の直轄地となりました」
筆記具を手に一緒に走ってきたグレゴリー司教も答えました。
「教皇ホノリウス5世の直轄地宣言と、立会人アウレリウス枢機卿の確認を記録しました。これは正式な文書となります」
ホノリウス5世はうなずきました。
「後で署名をするので準備をしておけ。アウレリウス枢機卿、しばらくここで聖なる杖を見守っていてくれ。私はあちらでやる事がある」
「かしこまりました」
アウレリウス枢機卿が重々しく杖の側に陣取り、ホノリウス5世は空を見上げてから、急いで門の外に出ると、待機していたエミリオ司教に小声で指示しました。
「すぐに従者達に命じて、家畜などを全て敷地外へ出させろ。浄化の祭儀の時は極力生き物がいて欲しくない。ただし建物の中には決して入るな。時間が無いので急げ」
エミリオ司教が小走りで去り、ホノリウス5世は修道院を振り返ると呟きました。
「感謝するぞ、ヴォルフ博士。さてしかし、難しいのはこれからだ」
教皇直轄地から見た空の色が黄色がかっているのを思い返しながらホノリウス5世は、気を引き締めました。
従者のマリヌスは、ホノリウス5世が門の中に入り直轄地宣言をしたのを確認してから、素早く塀を乗り越えると廃墟に向かって走りました。彼が背負う袋の中には、短剣と弓矢が入っていました。
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