【幕間】教皇と女子修道院長の対話
コマースウィック村に向かう街道を一台の立派な馬車が走っていました。
車内には、小柄で年老いていますが威厳のある修道女が姿勢よく座って青い瞳で窓の外を眺めています。彼女はエルドリス女子修道院のルシアナ修道院長でした。
「もうすぐ到着ですね。お疲れになったでしょう、ルシアナ修道院長」
隣に座る修道女がねぎらいの声をかけます。
「大丈夫ですよ。教皇が乗り心地のいい馬車を寄越してくれましたからね」
「ええ、本当に。それにしても、これから教皇の前に出るのかと思うと落ち着きませんわ」
そわそわする修道女にルシアナ修道院長は微笑みました。
「緊張せずとも大丈夫ですよ。尊大な態度をとる方ではありませんから」
「でもとても眉目秀麗で、以前面会したソラヤ修道女は思わず見惚れてしまって、変な受け答えをして赤面したそうで心配です」
前の座席に座る、2名の修道女もはしゃぎます。
「まだお若い修道士だった頃も大変な美青年ぶりで、いつも礼拝堂などで大勢の女性に囲まれていたとか」
「そうそう、近くの女子修道院から修道女達が王立修道院に押しかけたりで騒ぎになったと、今でも話題に出るそうですわ」
ルシアナ修道院長は眉を上げ、付き添いの修道女たちをたしなめます。
「それはひどく大げさな噂に過ぎません。怪しげな過去の話は口にしないようにしなさい。今の教皇は規律などにはとても厳しい方なのですからね。何より、これから遊びに行くのでは無い事をしっかり自覚しなさい」
しゅんと大人しくなった彼女たちを横目に、ルシアナ修道院長は再び窓の外を眺めながら、セレニテ女子修道院とイソルデ修道女の事で考え込んでいました。
女子修道院とそこに所属する全ての修道女は、『白の大宮殿』を中心に構成されている国をまたぐ巨大な組織とは別の修道女だけの組織として活動しています。しかし同じ神に仕える聖職者としては、やはり教皇が頂点となるのです。ホノリウス5世は決して修道女の存在を軽んじたりはせず、多数の女子修道院を統括しているエルドリス女子修道院にも敬意をもって接しています。が、組織の長として対等に話し合う相手としては非常に手強い存在です。
ホノリウス5世の頭の良さと言葉の巧みさをずっと昔から知っているルシアナ修道院長は、先日届いた書簡の内容を思い浮かべて改めて覚悟を決めました。
やがて馬車はコマースウィック村のすぐ横に広がる草地に到着しましたが、そこには陽光の下、夢のような光景が広がっていました。
信じられないほど巨大な純白の天幕が張られ輝いているのです。教皇旗が入り口に翻り、この天幕に教皇ホノリウス5世が滞在している事を示していました。
周囲にも幾つか大きな天幕がたち並び、領主の旗も見えます。
「あらまあ、まるでお祭りのようだこと」とルシアナ修道院長は呟きました。
馬車から降り、ミリアム司教の出迎えを受けたルシアナ修道院長と3名の修道女達は、案内されて天幕の中に足を踏み入れ、天井の低い広い部屋に進みました。そこでは、重々しい態度のアウレリウス枢機卿を従えて、ホノリウス5世が簡素ですが立派な椅子に座っていました。
「遠いところをようこそ。今回は私の依頼を受けていただき感謝の念に堪えません」
噂以上に美形な教皇の笑顔と快い声に、修道女たちが舞い上がっている気配を背後に感じながら、ルシアナ修道院長は丁寧に聖職者同士の挨拶を交わします。
やがて修道女たちは若い従者に滞在予定の別の天幕に案内されて行き、ルシアナ修道院長は別の従者に更に奥に通されました。
天幕の中とは思えない立派な作りの通路を通り、幕で仕切られた気持ちの良い部屋で室内の調度品や聖具を眺めていると、すぐにホノリウス5世が別の入り口から入ってきました。
「改めてようこそ。わざわざご足労を願って申し訳ない、ルシアナ修道院長」
ルシアナ修道院長はホノリウス5世の機嫌のいい顔を見て、笑顔を浮かべつつ両手を握り締めました。これから、ここで教皇と2人きりでの話し合いが始まるのです。
勧められて椅子に座り、ホノリウス5世とルシアナ修道院長は香りの良い薬草茶を飲みながらしばらく雑談をしました。
「私共の方でも蜂蜜はどうにも手に入らなくて。治療薬のために保存している分も少なくなってきましたよ」
「私も近々、養蜂の村に調査のために人を派遣するつもりです。早くミツバチが戻ってくれるといいんですがね」
ルシアナ修道院長は茶碗を小卓に置いてから率直に話し始めました。
「教皇。イソルデ修道女が引き起こした教皇への犯罪行為は、私が代表して心からの謝罪を申し上げ、公にせずに済ませていただき感謝します。本当にお怪我などが無くて不幸中の幸いでした」
ホノリウス5世はうなずきました。
「謝罪を受け入れましょう。しかし、ルシアナ修道院長の責任ではありませんよ。イソルデ修道女の個人的な悪事ですし、護衛をつけずにいた私にも見識が欠けていた責任はあります。また女子修道院の聖域に許可無く足を踏み入れた事は、私から謝罪をせねばなりません」
「……謝罪を受け入れます。それにしても本当に教皇の遵守の精神には感嘆します。女子修道院の聖域の件は、今後教皇が心を煩わされる必要は決して無いと私から明言いたします」
「それは有難い。懺悔の祈りは捧げても、やはり気重ではありましたからね」
気重? どうだか、と皮肉な事を考えたルシアナ修道院長はすぐに反省しました。
相手は教皇なのですから。
「罪を犯したイソルデ修道女は罪人として私が保護した後に、私とエルドリス女子修道院が責任をもって監視し罰を与え罪を償わせます」
「全てお任せします。ただ書簡にも記しましたが、彼女が<教皇領の管理者>では無いという事実は、私から彼女に証拠と共に直接伝える事は必ず守ってください。私から伝える必要があるのです。証拠を見たら、イソルデ修道女は驚くでしょうが。まあ彼女も厳密に言えば騙されていたのですし、貧しい女子修道院を修道院長として守ろうとして悪事を引き起こしたのですからね。心から改心して罪を償えば立派な修道女としてやっていけるでしょう」
しみじみと話すホノリウス5世を見ながら、ルシアナ修道院長はどうも胡散臭い……と思いましたが、この件はここまでにしておかねばなりません。もっと大事な要件があります。
「教皇、セレニテ女子修道院を閉院させるという件は決定なのですか? 私の許可は必要ないとのお考えのようですが」
「書簡に書いた通りです」
「私からはまだ何も返事をしておりませんが」
「偽の教皇勅書を利用して設立された女子修道院です。私が教皇直轄地を宣言すれば、全ての権利と修道院の聖域は消失します。ですから閉院扱いとして建物は一旦私の所属にします。色々調査の必要もありますのでね。この件ではあなたには許可は必要ないでしょう。今ここに居られる事が、了承の証しではないのですか?」
唇を噛み締めるルシアナ修道院長の表情を、ホノリウス5世は冷静に見つめました。
ホノリウス5世からルシアナ修道院長に送られた書簡には、イソルデ修道女の教皇誘拐事件の顛末と共に、セレニテ女子修道院の初代女子院長のセラフィーナ修道女が偽の教皇勅書で<教皇領の管理者>になりすました事などが(銀の横領と贋金の件以外は)詳細に記されていました。
ルシアナ修道院長は内容に驚愕しましたが、それ以上に困惑したのがセレニテ女子修道院は教皇の直轄地宣言と共に閉院する。所属の修道女たちを保護し然るべき場所に移動させる為に迎えの馬車に乗って今日ここにやって来て欲しい、という通告と依頼でした。
けれど相手が教皇でも、さすがに女子修道院の閉院という重要な事を黙って受け入れる訳にはいきません。
「教皇、閉院は本来は女子修道院長が願い出てから私共が事情を調査して決定するものです。このように頭ごなしに早急に事を進められては――」
珍しくホノリウス5世が言葉を遮りました。
「急ぐ必要があるのですよ、ルシアナ修道院長。必要があるから私は早急に行動しているのです。だから一か月前に教皇勅書を公開してほとんどすぐにこの地に移動してきました。本来はもっと日数をかけるべき事案なのは同意します。しかし時間が無いのです」
「直轄地宣言はともかく、セレニテ女子修道院の閉院はそこまで急がねばならないのですか?」
ホノリウス5世はしばらく黙ってから答えました。
「私は教皇直轄地を宣言します。その後はあの地にある全てを私は背負わねばなりません」
「背負う?」
「そうです。そして私は聖域に戻す為にやらねばならぬ事があります。その時になるべく背負った物は軽くしておきたいのですよ」
ルシアナ修道院長は戸惑いました。
「閉院が教皇の負担を軽くするのですか?」
「女子修道院ではない、ただの無人の建物にするのが重要なのです。しかし全ては断ち切れませんがね。しかしさて、どうしても反対されるなら、早急に他の方法を考えねばなりませんか……まあ今回の重要性に比べれば、私の災難の事実や世間の非難を受ける事など些細なものですがね」
ホノリウス5世の言葉を聞いて、ルシアナ修道院長は言葉に詰まりました。嘘を言っているとは思えませんが、どうしても言いくるめられているような気がします。しかしやはり今は譲歩するしかないでしょう。ホノリウス5世はさりげなく、自分からイソルデ修道女に誘拐された事を公表しても教皇側は全く困らないと言っているのです。それだけは絶対に阻止せねばなりません。
ついにルシアナ修道院長は決意しました。
「……わかりました。閉院に同意いたします」
ホノリウス5世は笑顔になりました。
「私から依頼したのですから、修道女達の保護と移動に伴う費用は全て私が負担します。またセレニテ女子修道院の資産や貴重品などは、後日全てそのままそちらに引き渡しますので、心配は不要です」
「いえその点は心配しておりませんが……ともかく、これからセレニテ女子修道院に赴いてイソルデ修道女と面会して告白を聞き私の監視下に置いてから、再度教皇とお話ししたいと思いますがよろしいでしょうか?」
「結構ですよ。私が直轄地宣言を行うまではあの土地はあなたの管轄でもありますから。もしあなたがイソルデ修道女達を連れ出してここに連れて来てくだされば、私の方の手間も省けます。すぐに馬車と警備の手配をしましょう」
「ありがとうございます。けれど教皇、手間が省けるとはどういう意味ですか? まさかセレニテ女子修道院から事情を知らない修道女達を強引に……」
「とんでもない。そんな無礼な真似はしません。修道女達には、自発的に敷地外に出てもらいます」
「自発的に、ですか」
やはりホノリウス5世は何かを隠し企んでいる、とルシアナ修道院長は確信しました。同時に少しばかり腹が立ち、どうしても一言嫌味を言いたくなりました。
「そうですね、お若い頃から修道女を意のままに動かすのはお手の物でしたものね」
「これはまた人聞きの悪い事を。私は正式に聖職者になった瞬間から今日まで規律を厳格に守っていますよ」
ルシアナ修道院長はホノリウス5世の澄まし顔を軽く睨みつけました。
「王立修道院時代、修道士だったあなたが修道女の集団脱走を手助けした事件を私が忘れたとでも? アントニウス」
ホノリウス5世はくすくすと笑いました。
「イソルデ修道女が匿っていた野盗連中がすでに聖域内にいないのは、部下が確認済です。ですから後はセレニテ女子修道院の修道女達だけで安全ですよ」
小卓の上の小さな銀鈴を振り従者を呼んでから、ホノリウス5世は小声で言いました。
「私は頼まれた事をやっただけですよ、伯母上」
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