LII 開会式 そして終焉


専務の及川に呼ばれ、奈津美が役員室に入ると、そこには神戸工場の吉野もいた。

吉野はギャリソン&ガリクソン社と、ガラティアを共同で開発しているチームの主査である

 「今、専務にも見てもらってたところです」と吉野は言って、ギャリソン&ガリクソン社から来た、メールのコピーをテーブルの上に置いた。


 手に取ってみるとそれは、ギャリソン&ガリクソン社でガラティアを開発しているチームリーダーの、ダイアナ・ミッチェルから来たもので、「当社のスコット・シンプソンを、御社の開発チームに参加させて頂けませんか、何をして貰うかは御社にお任せします」と書かれていた。


 技術提携している会社どうしで、人の行き来があるのは普通のことである。

だがスコットは技術者ではない。開発を管理する部の人でもない。何をするために来るのだろうと考えた。多分、ダイアナが言う『御社にお任せします』とは『何もできない人です』と言ってるのと同じことではないか。きっとダイアナもスコットの処遇に困っているのだろう。だがこっちにしても、役に立たない人物を抱える訳にはいかない。ましてや自分は人員整理のためにここいる。


「私はどっちでもいいのですが、来てもらうとすれば、何をして貰えばいいのでしょうね」と、吉野は困ったような顔であった。


「奈津美君はどう思いますか」と及川に聞かれ「スコットという人は、中国のスパイに、ガラティアの試作品を盗まれた人ですね。そんな人は信用できません。私は反対です」と、きっぱり言った。すると「一度会ってもいいと思いますけどね」と及川が言ったので「私は前の会社にいた時、スコットに会ったことがあります」


「ほぅ、奈津美君はスコットと会ったことがあるのですか。どんな感じの人でしたか」


「はっきり言って、あまりいい感じは受けませんでした。アポもなしに入ってくるといきなり『この会社は密輸をしていますね、担当者は誰ですか』と言いました。本当に失礼な人です」と、港南中央物産にスコットが来た時の印象を話した。


「そうですか、そんな人ならまた何か問題を起こすかも知れませんね。仕方ないですね、今回はお断りしますか。では奈津美君、君がダイアナさんに、断わりの連絡をして下さい」


 奈津美は自分の席に戻り、ダイアナ宛てに断わりの電文を書き、送信のキーを押した。すると吉野がやって来て「本当は僕が断ればよかったのに、奈津美さんに嫌な役を押し付けてしまいました、すみませんでした」と頭を下げた。


「いいえ、これは人事課の私の仕事です。私は人事課の首切り係長と言われているくらいです。これくらい何とも思いません」と、精一杯強がって見せた。


 すると吉野は「僕は開発チームの主査ですが、階級は奈津美さんと同じ係長です。

 同じ係長でも奈津美さんは強くて素敵ですね。僕は強くて美しい吉田沙保里選手のような奈津美さんが大好きです…………」と言った後「誤解しないで下さいね『吉田沙保里選手が好きです』と言いたかっただけです」と、胡麻化していたが、何となく自分に好意を持っているように感じた。


「僕はオリンピックの雰囲気だけでも味わいたいと思って、来週休暇を取って、東京に行こうと思っています。奈津美さんは休暇はいつ取るのですか」

 この会社では夏季休暇は全員一斉ではなく、自分のスケジュールに合わせて、各自、自由に取ることになっていた。


「そうなんですか、実は私も来週休暇を取って、東京に行くんですよ」

「本当ですか、じゃあ、東京で会いませんか」と言われたが、奈津美は原島と会うのが目的であった。だが原島とは会う約束はしていない。吉野と会うことは可能であった」


「でも、ちょっと……………」と言おうとしたとき、串カツ屋のおばちゃんが言った「生返事はあかんで」の言葉を思い出し「開会式の日に東京で会いましょうか」と言ってしまった。

 吉野は「じゃあ東京で」と言って、神戸工場に帰って行った。

 奈津美は約束をしたわけでもないのに何となく、原島を裏切ったような気がした。


 ☆☆☆☆


 奈津美からのメールを見たダイアナは、「やっぱりダメだったのね、スコットを受け入れてくれるところはもう、どこにもないだろうな」と諦めざるを得なかった。

 だが依頼者のマーガレットには、本当のことを言わなければならない。

「マギー、やっぱりダメだったわ。ごめんね」


「いいのよ、ジョージィは分かってくれてるわ。あとはこっちで何とかするわ」

 ジョージィは分かっていた。マーガレットはほのめかす程度にしか言わなかったが、スコットのことは自分が誰よりもよく知っている。

 もしもの時は母のマリヤにリトルジョージィの面倒をみてもらい、オートクチュールのモデルに復帰する覚悟を決めた。


 ジョージィは日本へ行く費用は全部、自分が出すと言ったが、マーガレットは「日本へ行くのは観光ではありません。保科研究社に商談に行くのです。これはビジネスなので、渡航費用は全部、マギークロス社の経費で支払います」と言って、ジョージィには一銭も出させようとしなかった。


 7月22日、東京オリンピック開会式の前日、マーガレット、スコット、ジョージィはリトルジョージィを連れて、羽田空港に降り立った。

 中野坂上の宝仙寺で義父、菊池章一郎の三回忌を行った日、原島の目の前で、スコットの車に乗せられた。あれから五年経っていた。

 あのまま東京にいたら、今ごろ自分はどうなっていたのだろう。


 今よりも幸せだったろうか、それとも…………と、考えると涙がこぼれてきた。

「ママ、どうしたの」とリトルジョージィに言われて、そっと涙を拭いて、新宿行きのバスに乗った。


 新宿のヒルトン東京の窓から、真っ白いツインタワーが正面に見えた。

 ここで原島と出会い、向島での生活が始まった。思いだすまいとしても、あのころのことが次々と湧いてきて、もう抑えられなくなった。

 気が付けばいつの間にか、朝を迎えていた。


 リトルジョージィとスコットとは、都庁前で会うことにして、ジョージィとマーガレットは保科研究社に向かった。


 保科研究社の前でタクシーを降りると、社長の三田園と専務の後藤が迎えてくれた。役員室に入ると、中川千里という秘書が玉露茶を入れてくれた。

 玉露も上品な味と香りであったが、秘書の中川千里も上品で美しい人だった。


 マーガレットは昨年の販売実績の二倍以上の購入契約書にサインをした。

 三田園と後藤は「席を用意してありますので」と言ったがジョージィは、スコットとリトルジョージィが待っている都庁前に向かった。


 都庁前では聖火の到着式が行われていた。

 「キーン」という音がして空を見上げると、航空自衛隊のブルーインパルスのジェット機が、長い五色のスモークを引いていた。


 地上202メートルにある都庁の展望台では、奈津美と吉野が上空を見上げていた。

「僕は21年前、ブルーインパルスが描いたスモークの輪を見て、こんな飛行機を

 作りたいと思って、今の会社に入りました。奈津美さんはあの5色の輪を見ましたか」   

「見たと思うのですが、子供だったので、よく覚えていません」

「そうですね、僕が小学生でしたから、奈津美さんは未だ幼稚園児ですよね、でも見せたかったな。まるで、真昼の空に咲いた花火みたいでしたよ」


「花火なら今日、国立競技場で打ち上げますよ。競技場内は選手と関係者だけですが、花火は外でも見れますよ。行ってみませんか」

「そうですね、せっかく東京に来たのですから、競技場の近くまで行ってみましょうか」

「そうですね、道路は混むと思いますので、電車で行きましょう」

奈津美と吉野の二人は都庁前を後にして、国立競技場のある信濃町駅に向かい、中央線に乗った。


 ☆☆☆


 原島と千里は神宮外苑の喫茶店で、コーヒーを飲んでいた。

「今日ね、省三が外出してるとき、マギークロス社のマーガレットさんと、ジョージィさんが来たのよ。ジョージィさんて、すごく綺麗だったわ、憧れちゃうわ」

「君はもっと綺麗だよ」


「ほんと?、でも省三はジョージィと会ったことがないんでしょ。どうして分かるの」

「いやなんとなくだけどね」

「はぐらかさないでね、生返事はいけませんよ」と、千里が言った時、大阪のおばちゃんが言った「生返事はあかんで」を思い出してしまった。


「何を笑ってるの、そろそろ花火が始まるわ」

「そうだね、行こうか」と、国立競技場に向かって歩きだした」


「うわあ、人がいっぱいで前に進めないわ」

「そうだねもっと早く来たらよかったね」


 すると後ろの方から「誰だ俺のシャツにアイスクリームを付けたのはお前か!」

「すみません、僕が付けてしまいました。許して下さい」

 という声が聞こえてきた。

 振り向くと、外国人の男が拳を振り上げて、老齢の夫婦を威嚇していた。すると「スコット、やめてちょうだい!」と言う女の声が聞こえてきた。


「うぬ!!?、ひょっとして、あの声はスコットとジョージィじゃねえか?

あの野郎め、許せねえ!!」と人混みをかき分けて、10メートルくらい進むとそこには、あのスコットが今にも男性に殴りかかろうとしていた。だがそれよりも一瞬早く、原島の拳がスコットの顔面を捉えていた。


 スコットはその場に「ドサッ」と倒れ、動かなくなった。

「どうしたんだ!、何かあったのか?」

と、周りの声が聞こえ出し、倒れたスコットと、立ちすくす原島を取り巻く輪ができた。

すると、誰かが電話をしたのだろう。ピーポーピーポーと音がして、赤色灯を点滅させて救急車がやってきた。担架に乗せられたスコットと、ジョージィとリトルジョージィを乗せた救急車は、信濃町の慶応病院へ走って行った。


呆然として見送った原島の元に、人波をかき分けて奈津美と吉野が駆け寄ってきた。

「どうしたの?原島さん!」と奈津美は叫んだ。


「あぁ、奈津美さんか、君には関係ないよ。君は早くここから離れて下さい。でないと、君も巻き添えを食っちゃうよ」

「でも・・・」

「いいから早く行きなさい!」

 と言ってると、今度は「ウーウー」とサイレンが鳴って、数台のパトカーからドヤドヤと、警察官が降りてきた。原島と千里を乗せるとパトカーは、奈津美と吉野を残し、代々木署に向かって走って行った。


 原島は老齢の夫婦のためにスコットを殴った。

 しかし国立競技場の周りには、開会式を取材する各国の記者とカメラマンが何百人もいた。

 翌日の朝刊の社会蘭に「神聖なオリンピックの開会式の日に、外国からの旅行者が暴漢に襲われた」と、大きな見出しの記事が載っていた。

国内だけならまだしも、殴られたのがアメリカ人だったので、カリフォルニアのある新聞は、「パールハーバーを忘れるな」と、真珠湾の奇襲攻撃まで持ち出して、原島だけでなく、開催国の日本まで非難する記事を書き立てた。


ここまで来たらもう、誰も原島を擁護することはできなくなった。

保科研究社は原島を、懲戒解雇することにした。


千里の母の信子は「あんな男とはすぐに別れなさい‼ あなたには私がいい人を探してあげます‼」と、激怒した。


奈津美に結婚を申し込もうと思っていた吉野は「奈津美さん、この人とどういう関係なのですか?」と厳しく迫った。

奈津美は吉野の気持ちは察していたが、原島に心を寄せていた奈津美は、吉野からの求婚を聞く前に「私は誰とも結婚しません。私は首切り係を貫きます」と言っていた。


 東京の出来事はその日のうちに、ギャリソン&ガリクソン社にも知らされた。

新聞ではスコットは被害者のように扱われているが、ギャリソン&ガリクソン社の取締役のほとんどは、責任はスコットにあると分かっていた。だが、取締役の連中は、これ幸いとばかりに、無能で問題を引き起こすだけのスコットを、懲戒解雇処分とすることにした。


 ジョージィはスコットに離縁を迫った。

スコットは「俺が悪かった」と謝罪したが、ジョージィの心はすでに決まっていた。スコットはジョージィを繋ぎとめることはもうできないと、観念せざるを得なかった。

 閉会式も終わり、ニューヨークに帰る日がやってきた。ジョージィはツインタワーの前に立ち、沢山の思い出を脳裏に焼き付けた。

 ツインタワーの真っ白い壁に原島と見た隅田川が現れて、キラキラと輝いていた。

 この輝きを、いつまでも、いつまでも見ていたいと思った。だがその上に黒い影が現れて、思い出をかき消すように白い壁を黒く染めていった。


 陽が西に落ちてきた。ツインタワーの壁に映った黒い影に一条の光が差し込んで、明るくなったビルの前から、立ち去って行く原島の後ろ姿が見えた。

 「省三、待って!、私も一緒に行くわ」と、ジョージィは叫んだ。

 だがそれは、背後にそびえる白い高層ビルの影であった。

               







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

続 高層ビルの白い残像 shinmi-kanna @shinmi-kanna

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ