Ⅼ 中川家の名前
「原島君、ちょっと来てくれませんか」と、専務の後藤から内線が掛かってきた。
いつもなら秘書の中川千里が掛けて来るのになぜか、今日は後藤が直に掛けてきた。
後藤の部屋に入ると「昨日、中川君のお袋さんから頼まれましたと言って、興信所の人が君のことを聞いて行きました。君は中川君と結婚するのですか」と言われた。
「いいえ、考えていません」と答えると「私は君たちの結婚に賛成ですよ。君のことは『真面目で優秀な青年です』と言っておきました。私が仲人を引き受けてもいいですよ」と、原島と千里は結婚するものと信じているような口ぶりだった。
千里と根室食堂で飲んだ時、千里は「私の祖父は元はカネボウの役員でしたが、カネボウが倒産した後、保科研究社の代表になって、株も少し持っています」と言った。
そして「うちの会社には社員が500人以上いるのに男子社員は5~60人くらいしかいません。あとは独身の女ばっかりです。後藤専務は20も年下の社員に捕まりました」
原島さんも気を付けて下さい」と言った。
その時原島は心の底に「千里と結婚して中川家の財産を手に入れて、あわよくば、保科研究社の役員になって、その後は代表の座を狙おう」という野望が湧いてきた。
しかしその後に、銀座のレストラン「ロオジエ」で食事をした時、千里から「ロオジエは資生堂の経営なので、資生堂のライバルだったカネボウ出身の保科研究社の役員たちは、ロオジエは利用しません」と言われた。
もし会社の歴史を勉強をしていなかったことを役員たちに知られたら、後藤としても、原島を役員に推挙するのは難しいと思い、計画は一旦、封印することにした。
ところが千里は原島と結婚する気のようだ。後藤が仲人をしてくれて、原島を役員として推挙したら、他の役員たちは筆頭専務の後藤に反対はしないだろう。
原島の野望に再び火が付いた。
☆☆☆
翌日、元港南中央物産の第一事業部にいた紺野という男から「今日どこかで会いませんか」と電話があって、新宿のツインタワーの前で会うことになった。
ツインタワーには五年前までは、旧港南中央物産の本社があった。
ここはジョージィと知り合い、奈津美他、20人の仲間と苦楽を共にした思い出の場所である。
しばし、夕日に染まっていくツインタワーの白い壁を眺めた。
ふと、ジョージィが来たような気がして振り返ると、現れたのは約束していた紺野であった。
紺野がいた第一事業部はリースを主な業務としていたが、スーパーやコンビニを展開する流通系の会社の子会社となって、今や日本を代表する優良企業となっていた。
紺野は「港南中央物産時代、第三事業部にいた原島さんは、ロシアにミサイルの燃料となる化学薬品を密輸しましたね。ところがですね、6月20日のSNS に信濃路という名前で『港南中央物産がロシアに輸出したのは難病患者のための医薬品です』という投稿がありました。この信濃路というのは原島さんではないですか」と言った。
原島がロシアに密輸したのは紺野が言う通リ、ミサイルの燃料に必要な薬品で、医薬品ではなかった。
6月20日と言えば「淳弥のB級グルメ紀行」で原島が叩かれていたころであった。
だがこの投稿を境に形勢は逆転し、淳弥のB級グルメ紀行を書いた館野淳弥が責められることになった。正にこの信濃路という人の投稿は原島にとって、救いの神であった。
だがこの信濃路という投稿者は原島ではない。原島が頼んだのでもない。正体不明の人であった。
紺野は「原島さんも得体の知れない人物に付きまとわれるのは迷惑ですよね。
僕も密輸をした会社にいたと思われるのは迷惑です。第三事業部にいた原島さんには分からないでしょうが、会社は信用が第一です。僕は今いる会社が潰れては困るのです。第三事業部のようになりたくはありません」と、第三事業部にいた原島にはなんとも失礼な言い方であったが、事実は事実で変えようがない。
だがそのとき原島は、ひょっとしたら信濃路と言うのは、千里の母親の信子かも知れないと思った。
千里は祖父の中川弥一が亡くなったあと、父の丈一郎は膵臓癌の第四ステージで寝たきりであった。もう先は長くない。
信子は丈一郎が亡くなった後、江戸時代から続く由緒ある中川家の名を残すため、原島を婿として迎えたかったのではないだろうか。
中川家に迎える男が前科は付いていないものの、密輸という犯罪を犯した原島だと知って、世間に対し、原島という男は悪い人物ではない、と思わせるためにSNSに書き込みをしたのではないだろうか。
信濃路という名前も信州に祖先を持つ中川家にとって、意味のある名前のように思えてきた。
原島にしても中川家の婿になることに、何ら支障はない。
原島は社長の座を目指して駆け出した。
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