XXXI 銀座のクロディーヌ

 港南中央物産の解散は大勢の人の職を奪った。奈津美も失業保険を受ける身となった。まさか、自分がこんなことになるとは思ってもいなかった。だが会社の都合による失業なので、受給資格は持っている。とりあえず貰えるものは貰って、就職活動をしようと思い、ハローワークに行ってみた。


 失業保険を受給するにはいろいろな手続きが必要で、何枚もの紙に名前と印鑑を押す。それだけでなく、ハローワークに寄せられている求人広告に目を通し、例え希望通リの会社が無くても、ハローワークの係員は「本当にこの中に希望する会社はなかったのですか。贅沢は言わずに面接を受けて下さい。どこでもいいから早く就職して、支払う失業保険の節約に協力して下さい」と言っているような顔つきだ。


 ハローワークの職員は厚労省の出先機関の国家公務員である。彼らからすれば、国の財政を考えて、支払う金は一円でも少なくしようと必死になり、一円でも多く貰おうとする受給者との戦いとなる。


 奈津美は「あの人も本当は国を愛し、健全な財政運営に努力しているのだ」と思うことにした。そうでなければあの職員と次に顔を合わした時、ぶん殴っている自分を想像した。ヤバイ、ヤバイ、そんなことをしてしまったら、本当に一円も貰えなくなってしまう。


 とり合えず、お上の言うことには逆らわず、どこか一社くらい、面接を受けてみようかな、などと考えていたある日、「篠原君、松野だけど元気かい。君に頼みたいことがあるんだけど、銀座に来てもらえないかな」と、元上司だった松野茂から電話があった。


 松野は「並木通りのクロディーヌというバーで待ってるからね」と言った。

 どうしてバーで待っているのだろうと思ったが、頼みたいと言ったことが気になって、クロディーヌに行くことにした。


 クロディーヌというバーは丸源ビルの一階にあった。入ってみると、松野ともう一人、中年の女性がいて、松野は「やぁ篠原君よく来てくれたね。こちらは丸源ビルの黒田さんだよ」と、女性を紹介してくれた。丸源ビルという会社は並木通りを中心に、銀座に10棟以上のビルを持ち、銀座のバーのほとんどは、丸源ビルの店子である。


 黒田さんは挨拶を終えると「じゃあ、松野さんあとはお願いします」と言い、店を出て行った。

 松野は「本当はあの人は社長のこれなんだよ」と小指を立て「社長は同郷の俺に『バーはこれから銀座から無くなっていく運命なので、他にいい商売は無いか』と聞いたので、俺は『セレクトショップはどうですか』と答たら『家賃は安くするからそれをやってくれないか、やり方は君にまかすよ』と言われてね、君にやってもらうつもりで来てもらったんだけど、お願いできないかな」


「どうして私を選んだのですか」

「君は港南中央物産時代、俺と原島がやっていた仕事を裏で支えてくれた恩人だ。

 それに仕事もできる。任せられるのは君しかいないと前から思っていた。

 どうだろう、引き受けて貰えないか」


 恩人というのは大袈裟だが、良きにつき悪しきにつけ、松野と原島を支え、港南中央物産のために頑張ってたという自負はあった。


「何を売るセレクトショップなのですか」

「候補はいっぱいあるけど、俺はロシアにコネを持ってるから、先ずは毛皮のコートとか、ロシアの特産品を輸入して、ここに並べればいいと思うな」


「毛皮なんてもう流行りじゃないですよ。もうどこにも売ってません」

「確かに毛皮を置いているデパートは無くなった。だが君が毛皮を売る相手は銀座のホステスさんのパトロン達だ。ああいう人たちは女に使う金を、惜しいとは思っていない。女が欲しいと言えばいくらでも金を出す。

 ホステスさんは何でも持ってるから、買い与える物も無くなってしまったのが実情だ。残ってるとすれば毛皮くらいだ。毛皮の中でも一番高級なロシア産の黒貂(クロテン)は例え着なくても、ステータスとして持つ物と言われている。ハリウッドでは

『毛皮、それは美しき選択、ステータスを守る豊かな時の演出』

 と言われてる。これほど価値のある物ならホステスさんも、例え着なくても一着は持っておこうと思うはずだ」


松野がこんなしゃれたセリフを言うとは意外だったが、ハリウッドの女優が着ているのは、テレビで見たことがあった。


「少し分ってきたわ、でもお金がかかるんでしょ」

「家賃は丸源の社長が普通の半分にしてくれると言ってるから、そんなに高くない。

 それと、店の改装はゼロだ。この店は銀座でも一番豪華な作りだから、下手に手を加えるより、このまま毛皮のコートを放り投げておいた方がさまになると思うな。


「でもそれだけでは済まないでしょ」

「うん、君にも少しは出してもらい、俺と橋本も出して株式会社を作り、君が代表になればいいんだ」


 橋本とは港南中央物産が健在だったころ、札幌支店長だった人で、奈津美が入社した時は本社の第三事業部にいた。その後札幌支店長となり、港南中央物産が分社化され、第一事業部と第二事業部が売却された時、橋本は売却された玩具会社に移籍した。港南中央物産が解散、消滅した後も奈津美のことを心配して、何度も電話を掛けてくれた。橋本が役員として入ってくれるのなら、この店を引き受けてもいいかなと、思った。


「奈津美君、あのママさんからのお願いがあって、もし君がこの店を引き受けてくれるのなら、そのままクロディーヌという名前にしてくれと言ってるんだが、どうだろう。悪い名前じゃないと思うけど」


「クロディーヌという名前に何か意味があるのですか」

「あのママさんは黒田さんだから、クロディーヌにしたと言っていた。

ある時、ハリウッドの映画関係の人が来て、元ミスフランスで、後に007シリーズのサンダーボール作戦に出演した、『クロディーヌ・オージェ』という人にこの店のことを話したら、クロディーヌさんは興味が湧いてきたらしく、写真とかサインなどを送ってくれるようになって、その写真がそこに貼ってあるよ」


松野が言った通リ、洋酒棚の中に黒貂の毛皮のコートを着たクロディーヌ・オージェの写真と、サインが飾ってあった。


こうして奈津美は『クロディーヌ株式会社』の代表になることとなった。




















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