XⅢ 隅田川のみずもの影

 原島はかおたんラーメンの前にいた。レインはここでロシア人のタクシーを探せと言った。本当にタクシーはいっぱい止まっていた。だがほとんどの運転手は昼寝をしていた。ここはタクシー待機調整場といい、東京タクシーセンターという法人がタクシー運転手のために作った休憩所である。かっては隅田川沿いの今戸という所にもあったが、今はここだけになった。


 だからここで昼寝をするのは当然で、回りをキョロキョロする運転手がいたら、そいつは怪しい運転手である。

 ふと見ると一台のタクシーの運転手が車の外に出て、ストレッチをしていた。だが日本人であった。狭い車内に一日中座りっぱなしより、ストレッチをするのは健康のために必要である。


 どうも今日はロシア人の運転手は非番のようだ。今日は諦めて出直そうとしたとき、かおたんラーメンの向かい側にある星条旗新聞社から二人の日本人と外国人が出てきて、星条旗新聞社の真正面にある五行というラーメン屋のテラス席に座った。


 五行はかおたんラーメンとは正反対の綺麗な佇まいの店であった。涼しいテラス席は特に人気があった。

 原島はテラス席に座った日本人の若い方に見覚えがあった。大学を卒業して港南中央物産に就職したころ、より深い英語力が必要となり、Berlitz(ベルリッツ)英会話教室のビジネスコースに通っていた。その時担当の教師は違うが、同じ教室の受講生だったのが五行に座った男であった。


 その男は国家公務員総合職試験を目指す大学院生であった。多分試験に合格してキャリア官僚になったのだろう。どこの省かは分からないが、星条旗新聞社に出入りする役職にいるとすれば、外務省も考えられる。他にも防衛省や警察庁長官を目指しているのかも知れない。


 原島は港南中央物産第三事業部に籍を置く自分が、日本の法に反する取引を諸外国としている身として、法に従って行動する各省庁の官僚は原島とは対立する関係である。できればこの男には、自分が行っている不法な仕事と関係のない省にいることを願った。


 原島は一か月前から、ミサイルの燃料に使う化学薬品をロシアに運ぶ計画を実施していて、ようやく終わったところであった。運搬に使った漁船はうまく座礁させたことにして、ロシアに処分させたので、残る問題は運び役にした三人の船長の身の安全であるが、この三人にはたっぷりと金を渡したので、ほとぼりがさめたころにロシアに帰国させるように電話をすればいいことだ。


 原島はレインが言ったロシア人運転手とはいつか会うことにして、愛子(ジョージィ)が待つツインタワー前のカフェに向かった。

 今日は愛子の方が先に来て待っていた。


 原島はギャルソンクラブに行ったこと、レインという人に下着をあげたこと、奈津美も一緒に行ったことを正直に話した。


 だが愛子は原島の目を見ず、じっと堪えるようにうつむいていた。

「ごめんね、俺が悪かったよ」と言ったが愛子はうつむいたまま、涙が頬を流れていた。

「ごめん、ほんとうにごめんね」

「謝るのは私の方なのよ」と、言ったジョージィの涙は止まらなかった。


「どうしたの、愛子泣いたりして」

「ここでは無理だわ、家で話すわね」


「いいんだよ無理に話さなくても」

「でも言わなければならないことなの」


 原島は向島のマンションのカーテンを開いた、隅田川には「心の炎」というビール会社のオブジェの影が、人の心のようにユラユラと揺れていた。


「いいんだよ、今日でなくたって」

「でもいつかは話さなければならないことなのよ」


「僕だって、君に言っていない秘密は持ってるよ、君も嫌なことは言わなくてもいいんだよ」


 「でもこれはそうじゃないの、言わなくちゃならないの。

 聞いて省三……私、本当は結婚してたの」

 この一言が言えなくて、今までどれほど苦しんできたことか。ジョージィは胸につかえていた結婚の事実を原島の胸に打ち明けた。


「えーっ、本当なの‼…………」


 原島はジョージィの気持ちを察して抑えて言ったつもりだが、驚きは隠せなかった。


「本当なのよ、私はニューヨークにいたとき、スコットという人と結婚したのよ。

 でも生活が苦しくて、私は母がいる東京に逃げてきたのよ。

 ツインタワーで省三と巡り会ったとき、これが本当の愛だと思ったわ。

 でも、結婚した人を捨てた私は、省三に愛される資格はないのよ」


「そんなことはない、スコットと別れて僕と結婚しよう」

「それは無理だと思うわ。アメリカの法律は厳しいのよ、スコットは絶対に私を離さないわ」


「僕はスコットよりも誰よりも君を愛してる。だれにも君を渡さない。スコットが君を追ってくるなら、僕は君を連れてどこまででも逃げてやる」


「本当に逃げれると思うの」

「本当だよ、世界中どこへだって行ってやる」


「本当は私もこのままずーっと日本にいたいわ。そして日本人になりたいわ。

 省三だけがそれを叶えられる人だったのよ…………でも…」


「大丈夫だよ。僕は君が僕を嫌だというまで愛し続けるよ」

「私が省三を嫌いになるなんて絶対にないわ」


「じゃあ僕たちは別れる理由はないんだね。スコットが追ってきたら、僕はたち向かうよ」

「私のために戦ってくれるのね」

「違うよ、僕たち二人のために立ち向かうんだよ」


「でも大丈夫なの、立ち向かう相手は法律よ、省三も私も法律の専門家じゃないのよ」


「心配する気持ちは分かるけど、今はそれよりも、僕たちが愛し合っていることが一番大事なことだよ、きっとうまくいくよ。見てごらん」と原島が指した指の向こうに隅田川のみずもが月に照らされて、きらきらと光っていた。


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