Ⅷ 西麻布の居酒屋 権八 

 以外なことに原島という男から電話が掛かって来た。スコットは「まさか!」と思った。

 自分は奈津美という事務員にはっきりと「この会社はロシアとヤバイ取引をしていますね。担当者は誰ですか」と言ったはずだ。


 「ロシアとヤバイ取り引きをしていますね」と言われたら、普通の人は怯えて逃げ出すか、警戒して様子を見るだろう。だが原島という男は自分から堂々と「ロシアとヤバイ取引をしているのは自分です」と名乗り出てきた。


 それにあの奈津美という事務員も、一瞬「えっ?」という顔を見せたが後は落ち着きはらっていた。やばい事件には慣れていて、少々のことには驚かない図太い肝っ玉が出来上がっているようだ。

 よし俺はもうCIAの工作員のヴォルター・ハルシュタインだ。原島という男に会ってやろうと思った。


 スコットは覚悟を決めて。受話器をとった。

「はい、ヴォルター・ハルシュタインです。聞きたいことがありますので会ってもらえませんか」と呼吸を整え、努めて冷静に、落ち着いて話した。

 すると原島という男は「私はまだ会社にいます。ここでは話しにくいので、外で会ってくれませんか」と言って、西麻布の「権八」という店を指定してきた。


 権八は西麻布交差点の角にある居酒屋で、アパホテルから100メートルくらいの距離にあり、徒歩でも僅か2~3分で行くことが出来た。

 原島は「雑誌のプレイボーイ誌を持って、権八の前に立っているのが私です」と、目印をスコットに伝えた。


 権八の前に行くと、大きな体をした男がプレイボーイ誌のヌード写真のページを開き、頭上に掲げて立っていた。自分なら人通リの多いこの場所で、ヌードの写真の雑誌を頭上に掲げることは、絶対にできないと思った。一体この男は何という神経をしているのだろう。


 席に付くと原島は「日本語にしますか、英語にしますか」と言ってきた。

 多分英語には相当自信があるのだろう。負けてはならぬと意味のない対抗心が沸いてきて「日本語でいきましょう」と答えた。


 すると原島は「私が居る第三事業部が扱ってるのは化学薬品です。

 化学薬品の名前はほとんどがドイツ語です。ですからドイツ語が必要です。

 ところが私はドイツ語がさっぱり分かりません。ですからこんな物を持ち歩いていいます」と言って「独英辞典」を取り出して、「ドイツ語に堪能なヴォルター・ハルシュタインさんからは笑われそうですね」と言ってグラスを持ち、ドイツ語で、PROST‼(乾杯‼)と言った。


 スコットは「やられた」と思った。自分は日本語はできるがドイツ語は全くできない。

 だが自分が名乗った「ヴォルター・ハルシュタイン」はドイツ人の名前である。

 原島は俺がドイツ語が当然できるものと思ったのか。それとも俺を試したのか。


 原島は化学薬品関係の密輸を仕事にしている男だ。難しいドイツ語の専門知識を持っている男が、ドイツ語の会話くらいできないわけがない。ドイツ語を知っていながら知らぬふりをして「私は独英辞典を持ち歩いています」と言ったに違いない。


 スコットは原島のロシアとの不正取引を暴くどころか、自分がドイツ語のドの字も知らないバツの悪さを取り繕うのに必死になった。


 原島は余裕で「まあ一杯どうぞ」といってビールを勧めてきた。

 何とか挽回しようとしたものの、何を話したらいいのか分からなくなって「初めて焼き鳥を食べましたが美味しいですね」と言ってしまった。


 すると原島は「この権八という店はブッシュ大統領と、小泉首相が焼き鳥を片手にビールを飲んだことがあり、日米の友好に貢献しています。ヴォルタ-さんが何を狙っているのか分かりませんが、私たちもビールをジャンジャン飲んで、上手くやっていきましょうよ。ね、ヴォルターさん」と言ってボーイを呼び「ウオッカと焼き鳥と、あとは何でもいいからジャンジャン持ってきて下さい」と言い、今度はロシア語で「ザズダローヴィエ‼」(乾杯‼)と言って、ウオッカのストレートを一気に飲み干した。


 原島というヤツは実に豪快な男であった。

 スコットは完全に「負けた」と思った。


 ボスロフ商会ではロシア人に追い出され、港南中央物産では原島にコケにされ、散々な目にあったが何とかニューヨークに帰ったスコットは、ミチコにいわれた通リ、三井住友銀行ニューヨーク支店にヴォルター・ハルシュタイン名義の口座を開き、ギャリソン&ガリクソンの電話番号のボタンを押した。


 すると電話にでた女性は「ボスロフ商会では追い帰されたそうですね。振込をしてもいいか、ボスと相談します」と言って、しばらく待たされた後「許可が出ました、明日の午前10時に振り込みます」と言うと、返事も聞かずにプツリと切れた。 


 翌日三井住友銀行の口座には862ドル25セントという、中途半端な金額が振り込まれていた。壁のモニターを見ると、為替レートが映し出され、その日は1ドルが117円前後で推移していた。


 だがギャルソン&ガリクソンはボスロフ商会で追い帰されたことを、どうして知っているのだろう。スコットはやや不安を覚えた。





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