Ⅶ 工作員ヴォルター・ハルシュタイン
ジム・ホワイトの葬儀の後、ジムの妻ミチコはスコットに「ここにヴォルター・ハルシュタインと書いて下さい」と言い、テーブルに紙とペンを置いた。
理由はよく分からなかったが「ヴォルター・ハルシュタインですね、スペールはどう綴るのですか」と聞くと、「Wallter Hallstein」 と書いて見せてくれた。
スコットはその通リ書くと「ニューヨークに帰ったら三井住友銀行ニューヨーク支店にこの名前で口座を作って下さい。住所はメリーランド州ベセスダにして下さい。
ベセスダの住所は知っていますね。あなたがジムを訪ねたあの家の住所です。
口座を作ったら○○○○に電話を掛けて下さい。それはギャリソン&ガリクソンの人事部の直通電話の番号です。
あなたはその日からヴォルター・ハルシュタインという名前で、ギャリソン&ガリクソンの社員になります。
出社は必要ありません。自由に活動してください。報告も要りません。しかし、あなたの行動は必ず誰かが見ていると思って下さい。以上です。質問はありますか」
と、淡々とした口調で言った。
夫が亡くなった直後なのに、しっかりしたこの人はやはり、CIAの工作員の妻だけのことはあるな、と思った。それともこの人も工作員なのだろうか。
どっちにしても出社もしないで国防産業から給料を貰える自分も普通ではない。
これからは表には出せない仕事をして、秘密をいっぱい持つことになるのだろう。
CIAの秘密工作員だった父に一歩近づいた気がした。
「僕はギャリソン&ガリクソンの社員なんですね、手続きは要らないのですか」
「そうです。社員として採用することが決まっています。入社の手続きは要りません」
「じゃあ、給料も貰えるのですか」
「週給の額は私には分かりませんが、あなたの給料として毎週振り込まれます。
成果によってはボーナスも貰えると思います。頑張って下さい」
「ジムさんは亡くなる前に『ベセスダの家にいるだけでいい』と言ってましたが、
本当にそれだけでいいのでしょうか」
「ジムは『ベセスダに六か月いなさい』と言ったと思います。六か月いたら次になにをしたらいいのか、誰かに言われなくても分かってくると思います」
「分からない時はミチコさんに電話を掛けてもいいですか」
「私は今日限りでこのマンションを引き払います。私のことは探さないで下さい。
それよりあなたはジョージィを探して下さい。きっと待っていると思います」
◇◇◇
ギャルソン&ガリクソンから給料がもらえることになったスコットは、ジョージィがいるかも知れない新宿のツインタワーに行くことにした。
ジム・ホワイトは『ツインタワーにあるボスロフ商会にいる女性を調べて………」と言って息を引き取った。ツインタワーに行けば必ずジョージィがいるはずだ。
ツインタワーは新宿西口の高層ビル街にあった。
白い壁は真夏の太陽に照らされて眩しく光り、白い影のように見えた。
B棟のエレベーターに乗り、25と書いたボタンを押すと、「このボタンはジョージィも押しているのだな…………」と、ジョージィの指に触れているように感じた。
25階のフロアには真っ黒いガラスがはめ込まれたドアーがあって、そこには「ЁФ ЪД・・・」 と書かれていたように見えた。近づいてみようとしたときドアーが開き、中から黒いスーツを着た大きな男が現れて、ロシア語らしい言葉で何かを言って、「帰れ!」という感じで押し返された。
あの文字がボスロフ商会という意味なのかどうか分からないが、英語にはない文字であった。
多分これがボスロフ商会で、出てきた男はKGB の工作員なのだろう。
様子は分かったので次に、A棟の港南中央物産に行ってみた。ボスロフ商会と比べると港南中央物産は大きな会社で、15階から30階までを占めていた。
その中で25階に特務課と書かれた看板があった。ここはボスロフ商会と違って、エレベーターを降りると正面に開きっぱなしのドアーがあって、中に入ると広い事務所の中に、50人分くらいのデスクが置いてあった。
だが事務所にいたのは女性一人で、他には誰もいなかった。多分他の社員は営業で外を飛び回っているのだろう。
スコットが入ってきたのを見た女性は、カウンター越しに「Do you have a appointment?」と言ったので、「約束はしていないのですが……」というと彼女は改めて「いらっしゃいませ」と言って頭を下げ「ご用件は何でしょうか」と言った。
やっぱりここは日本の会社だな、と思った。
彼女の胸にはネームプレートが付けられていて「篠原奈津美」と書かれていた。
その後は彼女と日本語で話した。
スコットは「この会社はロシアとヤバイ取引をしていますね、担当の人は誰ですか」と率直に聞いてみた。
彼女は一瞬大きく目を開き、スコットの顔を正面から見たあとは普通の顔に戻り、「お名前と連絡先を書いてもらえますか」と言って応接記録簿のような用紙をカウンターに置いた。
スコットは「スコット・シンプソン」と書くべきか、それとも「ヴォルター・ハルシュタイン」と書くべきか迷った末、あと一日滞在予定の西麻布のアパホテルの電話番号と、ヴォルター・ハルシュタインと書いて、奈津美に渡した。
ツインタワーを出ると陽は西に沈み、白い高層ビルの壁を赤く染めていた。
明日はニューヨークに帰って、銀行口座を作り、ヴォルター・ハルシュタインになる。
毎週給料が入ってくればもうジョージィと、言い争いをすることはない。ジョージィもニューヨークへ帰ってきてくれるだろう、とベッドの上に寝転んでホテルの天井を眺めていた。
すると「りりり、りりり」と、ホテルの部屋の電話が鳴り、取り上げた受話器の向こうから「港南中央物産でロシアとの貿易を担当している原島といいます。何かご用だったでしょうか」と聞こえてきた。
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