Ⅱ 流れ流れて大阪へ 

 日本列島にまた暑い夏がやってきた。奈津美の席は冷房が効いているはずなのに、やけに暑く感じる。それもそのはずだ。奈津美の席は他の社員とは少し離れた窓際で、ブラインドを降ろしても西日が容赦なく照り付けていた。向かいに座っている課長の山岸を見ると、ネクタイをキッチリ結び、上着をシッカリ着ているのに汗もかいていない。長年この席にいるせいで、免疫ができているのだろう。


 暑さを感じない理由は他にもあった。動く必要がないのだ。山岸と奈津美のデスクの上にはパソコンが置いてあるだけで、他には何もない。そもそもやる仕事がないのだ。他の部の社員は忙しそうに働いている。夏季休暇を取るのも交代で、日程調整に苦労しているようだった。奈津美はそんな連中が羨ましくて仕方がなかった。

 奈津美は仕事をしたくて仕方がないのに、会社規定で夏季休暇を取らなければならない。


 仕方なく休暇届けを書いて、向かいに座っている課長の山岸に渡した。

 すると山岸はパソコンを開き、何やらキーを打ち始めた。

 珍しく仕事をする気になったのか、と思っていると、奈津美のパソコンにメールの着信があった。開いてみるとそれは目の前にいる山岸からだった。


「休みを取るのは社員に与えられた権利です。君が休むのは自由です。

 しかし、もし僕と君が一緒に休んだら、この課の仕事は一体誰がするのでしょう。

 まさか君は、誰かがこの仕事をやってくれると思っているのではないでしょうね。

 君なら分るでしょうが、うちには余剰人員は一人もいません」と書いてあった。


 自分が余剰人員の身でありながら「余剰人員は一人もいません」とはよく言ったものだと、呆れて山岸の顔を見た。

 だが山岸は何事もなかったようにオットリとして、公家か宮家の誰かのような顔をしていた。


 相手がそう出るなら、こっちだってしてやるぞ、と奈津美も負けずにパソコンのキーをたたき「長い間おつかれさまでした。今後この課のことは私にお任せ下さい。

 課長は明日から好きなだけ休んで下さい」とメールを送った。

 すると「お気遣いありがとうございます。おかげで決心がつきました」と返信があった。


 山岸はその場で退職願を書いて総務部長の席に行き「お世話になりました」と言った後、奈津美に「じゃあ」と言って、肩を落として事務所を出て行った。

 すると奈津美の席に秘書課の女性がやってきて「専務がお呼びです」と言った。


 山岸課長の次は自分が辞表を書くのか、と覚悟を決めて彼女の後について25階の役員室に入ると、総務部担当専務の及川が待っていた。


「奈津美さん、君が山岸君を追い出してくれたそうですね。

 君をあの課に配転したのは君ならきっと、長年の懸案を解決してくれると思ったので、私が決めました。

 ご褒美といっては何ですが、君には人事課の主任になってもらいたいと思います。

 うちの人事課は優しい人ばっかりなので、君には期待しています」と言った。


 長年の懸案とは余剰人員の整理だろうということは、すぐに分かった。しかし、

優しい人ばっかりなので、期待されるというのは、自分は優しくないので首切り係に抜擢されたということか。

 奈津美は五年前、自分が首を切られた時のことを思いだした。


 奈津美が以前勤めていた会社は港南中央物産という商社で、新宿のツインタワーというビルのA棟に本社があり、奈津美は本社の第三事業部と呼ばれる部署にいた。

 正式には第一事業部と第二事業部があり、真っ当な商売をしていたが、表に出せない特殊な仕事をする課があって、誰からともなく第三事業部と呼ばれるようになった。

 この部の総責任者は寺田という男であったが、寺田はお飾りで、松野茂という男が実質上の責任者で、松野部隊とも呼ばれていた。


 奈津美が港南中央物産に入社した年の11月、アメリカで大統領選挙が行われ、ドナルド、トランプ氏が当選した。翌年1月からはオバマ大統領から政策が大きく変わることが予想され、各国は対応策の検討に入った。


 ことにロシアはそれまでは西側の先端技術の大部分を日本を経由して入手していた。しかしロシアのKGBは日本からのルートが絶たれ場合に備え、新しい入手方法の検討に入った。それに呼応するように、動きだしたのが松野部隊であった。


 松野は根室や釧路、稚内などの港から漁船に禁輸商品を積み込み、北方四島周辺で敢えてロシアの監視船に拿捕させるという方法で、ロシアとの間で密輸を行った。

 ロシアにとって西側の先端技術は貴重なので、通常価格の何十倍もの金が松野部隊に転がり込んだ。


 この松野部隊には20名の部員がいて、その中に奈津美と原島がいた。

 その後、別の事件が明るみになり、密輸事件は未解決のまま、港南中央物産は解散することとなった。


 リース業をしていた第一事業部はある大手の流通企業の一部門となり、現在は船舶と航空機のリースでは世界有数の企業となっている。


 コンピュータープログラムを開発していた第二事業部は玩具会社に売却され、その会社は今や、日本を代表する優良企業の一つとなっている。


 しかし、第三事業部に所属した社員は全員解雇され、奈津美は松野と組んで、銀座でロシア産の毛皮のコートを販売するクロディーヌという名前のセレクトショップを開き、奈津美は事実上の代表者となった。


 しかし、奈津美が採用して信頼していた部下の進藤という男は、奈津美の店を利用してロマンス詐欺という犯罪を犯し、セレクトショップは倒産した。


 奈津美は眠れない夜が続き薬を飲んだ。すると夢か現実か分からない世界を巡るうち、辿り着いたのが大阪の新世界という街であった。新世界で串カツ屋の人情味溢れる大阪のおじちゃんと、おばちゃんに助けられ「死んではいけない」と思うようになった。

 新宿の高層ビル街で約5年、銀座で1年ほど煌びやかな世界で過ごした奈津美にとって、新世界はその名の通リ新世界であった。


 ここで心を洗われた奈津美はもう一度、戦場のようなビジネス街で男勝りに働き、輝いていたかっての自分に戻ろうと決心し、方々の会社の試験を受け、ようやく受け入れてくれたのが梅田の御堂筋に本社があるこの会社「阪神大正輸送機工業」であった。


 阪神大正輸送機工業は、特殊自動車と鉄道車両製造と航空機の部品をボーイング社や、エアバス社に納入するメーカーで、関連する会社を合わせると一万人近い社員がいる大企業であった。


 保科研究社第三事業部の存亡は原島の両肩に、そして奈津美は阪神大正輸送機工業の首切り係として、松野部隊の生き残りの二人は、戦場のような東京大手町と大阪梅田のビル街で、再び熱い戦に挑むこととなった。



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