第21話 あるバイト門番の嗅覚
疲れた体に、ルートさんから香る甘い匂いが身に染みる。
バレない様に後ろでクンクンしていると、出勤前でまだ誰もいない事務所に着いた。
「事務所に何かあるんですか?」
「ううん、そのちょっと奥かなー」
言われるがまま、面接以来に足を踏み入れる会議室に二人で入る。
以前もそうだったが、この決して広くない部屋でルートさんと二人きりになるのは、嫌でも緊張してしまう。
俺も一端の男だ。
もしかすると、もしかするかも知れないからだ。
「ねえー、カーマ君。ちょっとこっち来て」
「は、はい。ここで良いですか?」
「ううん、もっと、来て」
俺はゴクリと生唾を飲み込み、出入口から死角になっている棚の影に隠れるルートさんに向かって一歩、また一歩と近づいていく。
「ここで良いですか? これ以上はもう……」
「そうだね、この辺でしようか」
あと一歩近づけば簡単に触れられそうな距離でルートさんと向かい合う。
そして俺は、この後の出来事を密かに確信する。
それは昔、故郷の爺ちゃんから何度も聞いた憧れのシチュエーション。
【美人女上司と会議室で育む秘密の恋 ~もう朝礼終わっちゃったね~ 】が幕を開けると。
父さん、母さん、今までありがとう。
カーマ・インディー、十八歳、ついに真の男になります。
「ルートさん、そろそろ聞かせて貰っても宜しいですか? 俺を呼んだ訳を」
「うん。私も、もう、我慢出来ないから言うね」
「はい」
「あのね、こんな事、カーマ君にしか頼めないんだけどさ、付けて欲しいの」
「はいっ。って、えっとー、付き合って欲しいじゃなくて、付けて欲しいですか?」
「うん。私は本気だよ」
すると、ルートさんは、ズボンの中に手を入れ始め、内ももの辺りをもぞもぞとし始めた。
「ちょっと、ルートさん何やってるんですか!」
「あ、あったあった」
探し物を見つけ、急に笑顔になったルートさんは、ズボンの裏に隠していた何かを咥えて、俺に向かって突き出しながら、もう一度お願いをしてきた。
「んー、早く付けてー。もう我慢できないの!」
ルートさんが咥えていたのは、潰れかけていた煙草だった。
「へっ!? た、煙草、ですか?」
「うん、早く付けて頂戴。着火用の魔石、家に忘れたの」
「わ、分かりました。具現出力、【着火】」
あれ、この人って、こんな人だったっけ?
動揺を隠しきれていない俺は、戸惑いながらも目の前の煙草に着火する。
「ありがとー。……スー―、……ハー―。あー落ち着くー。やっぱ朝礼前の一本は格別だなー。カーマ君も吸ってみる?」
「いいえ、結構です」
慣れた手付きで煙草を吸いだし、時折、鼻から大量の煙を噴射させている目の前の喫煙者は、到底、俺の憧れの人では無かった。
俺は何を勘違いしていたのだろうか。
「あれ!? 意外とノリ悪いね。一本吸ってみー、一本」
「要らないですよ! てか、こんな職場の中で吸って、本当に大丈夫ですか? 絶対、匂いも残りますよね?」
「へーき、へーき。だってこれがあるからね」
煙草を咥えながら腰のポーチから取り出したのは、何かしらの液体が入った小瓶だった。
「どうして、それがポーチから出て来て、煙草は服の中から出て来るんですか!」
「うーん、分かんない」
「分かんねえのかよ!」
「……スー、……ハー。でもさー、誰でも一番大事な物は、肌身離さず持ってるもんでしょうよ!」
「でしょうよって言われても困りますよ!」
確かに、肌身離さずっていう言葉自体は聞いた事はあるが、本当に実践している人は初めて遭遇した気がする。
「それで、これには何が入ってるんですか?」
「そうそう、これはね、煙草の匂いを消す特殊な香水でねー、いつも吸い終わった後は、これで全部上書きしてるんだよ」
すると、ルートさんは、香水を自身と部屋中に浴びる様に何度も噴射した。
煙たかった会議室に甘い匂いが充満していく。
「ちょっとルートさん! 使いすぎですよ」
「いいのよ、これぐらいパーっと使った方が確実だからね」
「そりゃあ確実かも知れないですけど、なにもそんなに隠さなくてもいいんじゃないですか?」
「駄目よ、警備長にバレたらうるっさいんだから。体に悪いとかってグチグチ言われて全部、取り上げられるもの」
「そ、そうなんすね」
「そうよ、だからねーカーマ君、チクったら……分かってるよね」
「は、はいっ!」
「警備長の中で、私は禁煙という無謀な負け戦に勝利した立派な女、って事になってるから、そこんところ宜しくね」
「宜しく、お願いします」
禁煙の事を無謀な負け戦と呼んだ目の前の喫煙者は、未だ、口から煙草の匂いを残したまま、至近距離でお願いとも、命令ともとれる事を頼んできた。
迫力と煙草臭の嫌悪感で断れなかった俺は、意外に警備長も苦労しているのかも知れないと同情してしまう。
「って、あれ!? この独特な甘い匂い、そういえばさっきも嗅いだような……」
間違いない、これは、いつもルートさんから香ってくる、あの匂いだ。
という事は、少なくとも、今まで俺と遭遇した時は、毎回喫煙後だったという訳か。
「よく気付いたね! 流石は、私の近くに来ると、いつも鼻息荒くしてるだけはあるね」
「き、気づいていたんですか?」
「うん、さすがにキモすぎるから、気付くよね」
「す、すいませんでした!! こ、このことはメリサには、メリサにだけは言わないで下さい!」
「うーん、でもほんとにキモかったからなー。そうだ! じゃあ一つ貸しって事でいい?」
「はい、許して頂けるなら何でも構いません。それでは失礼しました!」
すっかり立場の弱くなった俺は、足早に会議室を立ち去ろうとしたが、ルートさんの口臭が未だに煙草臭まみれな事を思い出し、お節介ではあるが、伝えておく事にした。
「あのー、ルートさん、ちなみになんですけど……煙草の匂い、まだ口に残ってますよ」
「知ってるわよ。でもね、心配しないで大丈夫よ! これ口にシュッシュするから」
ルートさんは躊躇う事無く、香水のノズルを口の中に向け、何度も連打し、流し込んでいく。
「ちょっ!? 何してんすか! あんた、そんな事したら死にますよ!!」
「ヴッ、オエッ、ゲホッゲホッ……いいのよ、これで」
「よかないでしょうよ!」
「ぐ……げん……しゅつ……りょく……【
「ヒールライト万能すぎる!」
キーン、コーン、カーン、コーン。
俺が便利過ぎる回復魔法に驚愕していると、朝の八時を知らせる鐘の音が街中に響く。
そろそろあの煩い朝礼が始まってしまう。
巻き込まれる前に帰ろう。
「それでは俺は今度こそ失礼します」
「はーい、お疲れ様―」
会議室を飛び出すと、警備長を始め、他の隊の先輩方が揃っていたが、非番の俺がいても邪魔になるだけなので、会釈をしながら小走りで寮に向かう。
何だか大人の嫌な部分を垣間見えてしまった気がする。
俺の憧れだったルートさんは、清楚で仕事の出来る大人な女性だった筈だ。
だが実際は、メリサと同じ希少な光魔法使いという事を言い事に、所構わずに喫煙を繰り返す、典型的な駄目な大人だった。
よく、ギャップ萌えという言葉を聞いた事があるが、あんな物は所詮、嘘の類だと身を持って体感する事が出来た。
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