1.2


「で、彩白。なにこれ?」

 

 おそらく、私が通うなんちゃって進学校において最も無駄な科目は音楽だ。そう断言できる。何故なら、この女ですら教師が務まるんだから。

 その無駄科目担当教師、佐藤茜はへらへらと絶妙にイラつく顔をしながら私の前で紙切れをヒラつかせている。

 

「なにって、進路希望調査でしょ?」

 

 迷うことなく答える。

 

「そう、締め切りが五月終わりまでのやつ」

「今日は六月一日だよ。もう終わった話じゃん」

「他のみんなはそうだね。でも、彩白は終わってないよ」

「なんで?」

「……それは、聞かなくてもわかるでしょ?」

 

 茜とは小さい時からの付き合いだから、今更遠慮なんてしない。それに、こういうのはお互い様だ。

 幸いにも紙で溢れている生徒指導室は、ちょうど良くクーラーが効いていて居心地は悪くない。今日は退屈な授業がとても短く終わり、時間はまだ十三時を回ったところ。

 とりあえず暇だから、暫く茜に付き合ってあげることにした。

 

「まだ高校一年生で進路もなにもないでしょ」

「ご家族との相談は?」

「……あの人達は関係ない」

「でもね」

「うるさい。家の事には首を突っ込まないで」

「いや……、ね?」

「茜には関係ない」

 

 私が明確に拒絶すると、茜は大袈裟に深々とため息をつく。こういうところが昔から、いちいち癇に障る。柔らかいソファーに勢いよく身体を押し付ける。

 

「色々と言いたいことはあるけど、とりあえず、今の私はこの学校の先生であなたの担任。親しき仲にも礼儀あり、だよ。わかるかな? いろはちゃん」

 

 本当に子供だったあの頃のように名前を呼ばれて、少しムッとした。預けたばかりの身体を起こす。目を細めて、口角を均等にあげて顔の角度を調整する。私は手を合わせて顔の右横に持っていき、この女に向けて言い放つ。

 

「はい! すみませんでした、佐藤せんせ!」

 

 そんなにお望みなら、できるだけ大袈裟に、とことんやってやろう。手だけを戻して、顔を見せつけるように睨みつける。

 

「……私と二人きりで、その顔はやめて」

 

 へらへらしてた顔が一瞬にして不機嫌なものに変わる。

 さっきまでの余裕はどこにいったのか、茜は私から目を逸らして宙を見つめている。

 

 そもそも、先にそういう態度をとったのは茜だ。だけど、二人きりでこの顔をすると絶対に目を合わせようとはしない。中学生になったあたりの頃、初めて見せた時に泣いて喚かれたのを思い出した。

 

「なら、どうしろって?」

 

 このままだと面倒なことになりそうだったから、とりあえず表情を戻して足を組む。この人を怒らせると面倒なのはよく知ってる。

 

「まぁ、それは、……もういいよ」

「言いたいことがあるなら言えば?」

「……もう、いい」

 

 私がこういう顔をみせると、あからさまに不機嫌になる。

 彼女は出会った時から、何も変わっていない。

 まだ小さくて、私がギターのことしか考えてなかったあの頃から。

 明確に変わったのは毎月のように色が変わっていた髪が、教師になって黒に統一されたくらいだ。

 当時、小さかった私も「この人、幼いなぁ」って思ったぐらい。今では背も大して変わらない。

 

 だけど、この高校では凄く人気者らしい。よく茜ちゃんと呼ばれてクラスメイトに慕われているところを見かける。

 顔はいいと思うけど、この気分屋で無茶苦茶な奴が大人気だなんてこの学校は末期だと思う。みんなはコイツの本性を知らないんだ。

 すると、何かを感じとったのか「なんか、失礼なこと考えてるでしょ」と目敏く反応してくる。

 こういうところは無駄に鋭いなと思うけど「そんなことない」と返しておいた。


「で、本当にこれはなに?」

 

 茜は話を戻すけどと前置きして話は元の方向に戻っていく。このまま上手く誤魔化せると思っていたのに。

 

「いや、だから進路希望調査でしょ?」

「それはわかってるよ。さっきから私は、内容の話をしてるの」

 

 鼻先に突き出された紙切れには「第一志望:普通 大学」と書かれている。まぁ、私が書いたんだけど。

 

「いいでしょ? 普通。私らしい」

「よくない」

「……なんで?」

「あのね、こういうところにはどこかしら大学の名前を書くものなの」

「……そうなんだ 」

「そうなんだ、じゃねーよ。そもそも、彩白の普通ってなに? そもそも、行動自体が普通じゃないけど」

 

 随分とご立腹らしい。昔のような口調が少しだけ顔を出してる。いつもより、だいぶ早口だ。

 

「ていうか大学ってだけ最初から印字されてるから、第一志望が普通大学になってんじゃん!」

「なら、茜が探してよ。普通大学」

「そんな学校はこの世に存在しません」

「……大学の名前なんて知らないし、全く興味ない」

 

 私は「めっちゃ頭がいいらしい」とみんなが言っていた東京大学しか知らない。

 そもそも、記入欄に大学と初めから印字されているのはおかしい話だ。私は大学に行く気なんてない。今の世界では進路も自由であるべきだと思う。

 

「ほんと、なんでもいいんだよ。どうせ変わるものだし」

 

 私はなんとなく、左手の指を右手で撫でる。

 

「まだ高校一年生の春なんだからテキトーに書けばいいのに、なんで彩白は、もう……」

 

 茜はいかにも悩んでますってポーズをしてる。ほんと、鬱陶しいことこの上ない。私は俯いて指を眺める。

 

「茜が担任なんだからいいでしょ。どうせ取り繕っても無駄だし。だったら、私の本音を書いた方が助からない?」

 

 思いつきで論破しにかかる。上手く丸め込めれば、有耶無耶になるはずだ。

 

「そう思ったから、自分でクラスの全員分を集めて持ってきたんだ」

「うん」

「本性はこんな奴ですってバレないように?」

「……そうだよ」

「あのね。そういう手間は惜しまないのに、どうして大学は調べて書けないの?」

 

 それは、わからない。上手く言葉にできない。下を向いて、また指を撫でた。

 

「ほら、また黙って指を触る。都合が悪くなるといつもそれだよね」

「うるさい」

「音を合わせた時に何かしら指摘されたら、毎回そうだったもんねー」

「……うるさい」

「ほら、また拗ねる」

 

 言いくるめる予定が、逆に図星を突かれる形となる。

 こういう時に、大人との差を確かに実感する。

 私の言葉は綿よりも軽く、どこまでも間違っていて、正しい論理の前ではどうしようなく無力だ。

 

「まぁいいや。これで丁度いい口実もできたし」

 

 そう言うと茜は立ち上がり、別の机に置かれていた灰皿を持って座り直す。

 

「……どういうこと?」

「あぁ、こっちの話」

 

 私をみてにやけている。あまりにも空気が不穏すぎる。

 茜がこういう顔をした時には大体ロクな事にならない。

 今すぐ逃げろと全身の感覚が警告してる。

 

「彩白には、相応の罰を与えることにしたから」

「な、なにそれ……!」

 

 自然と身体が前のめりになった。想像を超えた話が聞こえて、声が少しだけ上擦る。

 

「罪には罰を。人間として当たり前でしょ?」

「……当たり前、じゃない」

「いやいや、昔からそう決まっているんだよ」

「そんなわけない……」

「それに、私とした約束を忘れたの?」

「なっ」

「この学校へくる前に、一つ追加したから三つ」

 

 茜の長い指が3本突き出される。

 

「迷惑をかけない。私を傷つけない。そして、学校にいる間はしっかり先生として接すること」

 

 ゆっくりと一つずつ、指が折られていく。

 

「今日だけで全部破っちゃったね。これは重い罰が必要だと思わない? 約束を破ったら言うことなんでも聞くって、そういう話だったよね」

 

 色々なことが起きて終わって、全てが面倒に思えていた頃にした二つの約束。そして、茜に言われるがまま縋るように進路を決めた日に追加されたもう一つ。

 その時々に乗じて上手いこと言いくるめられ、安易に何度も約束を交わしてしまった。

 

 この学校に進学した時点で、生殺与奪の権利を握られていたことを思い知った。軽々しく頷いたバカな私を八つ裂きにしてやりたい。

 

「……いやだ」

 

 無駄だとわかっていても、できるだけ目線を外さずに抵抗する姿勢は崩さない。ここでいつものように言いなりになったら終わりだ。

 

「また、私に嘘つくの?」

「違う!」

「ふーん。なら、ちゃんと彩白は約束を守るよね?」

「……いやだ」

 

 私は震える喉から、声を絞り出して睨みつける。すると、茜は笑みを浮かべながらスマホをポケットから取り出して操作をしている。

 

「そんなこと言っていいのかな〜?」

「……なに?」

「ねぇ、Shiroちゃん」

 

 私に向けられた茜のスマートフォンには、見慣れた動画サイトのチャンネルが表示されている。

 確かに、顔から表情が抜け落ちていくのを感じた。

 

「……その名前を出すなって散々言ったよね」

 

 自分でも思った以上に低い声が出る。

 

「おー、こわっ」

 

 茜の態度を見て、私はソファーから立ち上がり詰め寄ろうと脚を動かす。

 

「まぁまぁ、そんなに怒らないでよ。元はと言えば彩白が悪いんじゃん。そうでしょ?」

 

 何も言い返すことができず、その場に立ちつくすことしかできなかった。

 茜はタバコを1本取り出してとんとんと机に叩きつけた後、ライターで火をつけた。

 たっぷりと煙を吸い込んだ後、私から顔を逸らして真横を向いて白い煙を吐き出す。

 

「彩白が素直になれば、こんな脅しをしなくて済む」

 

 全部を知った上で、剥き出しの心に土足で侵入してくる。本当に、本当にイラつく。

 

「たかが、一年生の進路希望調査ぐらいで……」

「大好きな彩白がしっかりやってくれなくて、私は傷ついたな。こんなの他の先生に見せられないよ〜。おろおろ」

 

 両手を目の下に当てて、わざとらしい泣き真似。

 コイツはどこまで人をおちょくれば気が済むのだろう。

 

「なら、今すぐに書き直す」

「ま、どっちでもいいけどね。それでも2つ破ってるし、今更何しても関係ないよ」

 

 茜は立ち上がり、少しずつ距離を詰め寄ってきた。

 

「……ぁ」

 

 か細い声が、私の口から溢れる。

 

「ほら、彩白。どうしたの……?」

 

 私は足を一歩ずつ引いて後ろに下がることしかできなかった。

 

「で、でも! 先生として接するのはみんなの前だけって茜が……」

「私の気分でルールは変わるから。細かい部分まで決めなかった彩白が悪い」

「な、なんで……」

 

 ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ近づいてくる。

 私はじりじりと後ろに下がる事しかできない。

 でも、逃げ道なんて存在せず、壁に背中がついてしまう。既に目の前には茜の顔がある。

 

「……横暴だ」

「あはっ! 私がどういう人間か、よく知ってるでしょ?」

 

 私の頬を茜の左手が包み込んで、お互いの顔が更に近づく。こうなると私は何も言えなくなる。

 

「やめて、みないで……」

「彩白の右目、いつみても綺麗だね。左の色も好きだけど、薄くて淡い青色の右はもっと好き」

「うっ……、う、るさい……」

 

 自分でわかっていること、自分すら知らなかったこと。

 そのどっちも茜には全部を知られてる。

 この人に敵わないことなんてわかっていた。

 

 でも、それにしてもだ。あまりにも強引すぎる。

 少しでも抵抗しようとしたら、私が抱えている1番の秘密を使って脅してきた。

 少なくとも、今までこんなことはなかった。完全に嫌な予感しかしない。このままだと、絶対ロクなことにならないのはわかっている。

 でも、私はどうしたって茜には逆らえないのだから。覚悟を決め、茜の身体を押して距離をとる。

 

「おっと。いきなり押すなんて酷いじゃん」

 

 私は大きく息を吸い込んで、強く長く息を吐く。

 ずっと、ずっと、ずっと。いつだってそうだ。

 ここに誘い込まれた時点で選択肢はなかった。

 

「何を、すればいい」

「お! 乗り気じゃん」

「……かえる」

「ちょいちょい、待って。悪かったって」

 

 茜に右手を握られる。握られた部分が少しだけ暖かい。

 

「彩白には、私の担当してる部活に入って欲しいんだよね」

「……は?」

 

 振り返った時、目に入った茜の顔は今日イチの笑顔だった。


◻︎


 茜に「今日は誰もいないし、私も用事があるから詳細は明日で!」と言われて解放された。

 明日からは確実に面倒なことが始まる。それが確定してしまったから今日はとにかく一人になりたい。

 

 とりあえず荷物をとりにいくため、教室を目指す。

 私が通う、私立星ヶ丘高校は表面上綺麗に見える。

 中も、外も、真っ白な校舎。そして、ほとんどの壁が透明なガラスで張り巡らされている外観は、おおよそ校舎には見えない。

 

 それは中に入ってもそうだ。

 中央に芝生が敷き詰められた中庭、それを囲うように各棟が配置されている。緑色の芝生の上にはベンチが置いてあったり、無駄に木が植えてあったりする。

 職員室や図書室などがある一番大きな棟は吹き抜けになっていて、一階から最上階まで一つの階段で行き来ができる。

 職員室の前にはテラスがあったり、黒い案内板が置かれていたり、廊下を歩けば反対側の棟にいる生徒を確認できる。

 教室も異質で、廊下側はガラス張りとなっていて、中の様子を簡単に確認することができる設計となっている。

 うじゃうじゃいる生徒を全員消してしまえば、ここが学校とは、とても思えなくなるぐらいには綺麗だ。

 

 きっと外から見ている人には、羨ましいとか、綺麗とか思われたりするんだろう。

 

 だけど、私はこう思ってる。

 

 白くてガラス張りの校舎は少しの汚れがとても目立つ。

 そして、今ぐらい季節からはただただ蒸し暑いだけだ。

 私達を照らす太陽の光は、壁に阻まれず際限なく校舎内へと入り込んでくる。

 屋内は無駄に熱はこもり、吹き抜けになっているせいで熱がこもる最上階なんて行けたものじゃない。

 そして、これだけ外が見えるのに、開けられる窓はほとんどなくて空調がいいとは言えない。

 各学年の教室の廊下に窓が配置されているけど、大量の熱を逃しきれていないのは明らかだ。

 

 一階にはウッドデッキがあるが、二階より上の教室は転落防止のためなのか、窓は少ししか開かない。

 中庭も、昼休みにはご飯を食べている人達を数人みるけど、その程度しか使い道はないだろう。

 職員室の前にあるオシャレなテラスは生徒が怒られているところしか見たことないし、学校に黒くて綺麗な案内板なんか絶対に必要ない。

 

 各教室の廊下側に配置されてる透明なガラスの壁は、外から常に生徒を監視できるようにしているだけだ。

 上っ面だけ整えて、綺麗にして、いかにも特別だという雰囲気を醸し出す。

 

 私は同じモノを沢山知ってる。

 いつも私達を見下ろす、日本一大きな山も遠くからだと綺麗に見えるものだ。

 だけど、近づいてみれば本当はゴミだらけ。この校舎はそれと全く同じ。……それに私とも。

 私は校舎を、どうしても好きにはなれない。口に出すことだけは絶対にないけれど。

 

 廊下にいても聴こえる、わちゃわちゃとした覚えのある声。

 くだらない事を考えていると、いつもの教室についてしまったらしい。横開きのドアから教室の中に入って、後ろの方にある自分の机を目指す。

 今日もいるのは女子だらけで、男子は一人も残ってない。

 

 机と机の間を縫うように歩いていると、耳に入り込んでくる様々な声の雑音。今すぐにでも耳を塞いでしまいたくなる。

 早くここから出たくて、気づけば急足になっていた。

 こみあげてくる衝動を抑えて、机の横に引っかかっている、まだ新しいスクールバックを手にとった。

 すると、突然、背中に衝撃が走る。

 

「いろは!」

「うゎ……!」

 

 私は少しだけよろけてしまった。

 誰かが背中に抱きついたまま離れない。頭をフルに回転させて記憶を手繰り寄せる。確か、この声は、そうだ。

 

「あ……、はしもと、さん?」

「うん! あってる!」

 

 振り返ると、彼女は私に巻きつきながら満面の笑みを向けてくる。回された腕でお腹付近をぺたぺたと触れられる。

 

「あのー、くすぐったいですよー」

 

 一応訴えてはみるけど、彼女は私を無視して話はじめる。

 

「いろはって細いよね。美人でスタイルが良くて、出るとこ出て、黒い髪はサラサラ。本当にモデルさんみたい」

「いや私なんて……、普通だよ」

「嫌味か〜! そんな悪い子にはこうだ!」

「ちょっ、ちょっと……!」

「おぉ! おおー!」

「あ、あはっ。くすぐったいって」

 

 モゾモゾと私のお腹に人の手が這い回る。

 とにかく引き剥がして、ちゃんと正面を向く。

 私はボロが出ないようにスイッチを切り替える。

 これ以上はまずい。

 

「こら。勝手に触らないの。セクハラだよ」

「ごっめーん。いろはの反応がいつも可愛いからさ」

「……もう」

 

 頬を少しだけ膨らませて、横を向く。

 

「それでいろは、今まで何やってたの?」

「あー、うん。佐藤先生にちょっとした人生相談をしていてね」

 

 彼女の目をしっかりと見つめて、口角を少しだけ上げる。嘘は言ってない。

 

「何それ、かっこいい!」

「そうだよ。かっこいいでしょ。私はこの歳で、人生について深く考えているからね」

 

 少し大袈裟に胸を張って、声のトーンを上げて。

 

「おおー! さっすが、いろは! それで具体的にはどんな相談?」

「……えっとね。うーんと。これからの世界について色々と悩んでいて。平和とか、少子化とか、貧困問題とか、じーえすじーず……? とか」

 

 人差し指を頬に当てて、首の角度はこれくらい。

 それっぽく、バカっぽい発言をして。

 

「うーむ……。難しくてよくわかんない!」

「だろうね。実は私もよくわかんない」

 

 ちょっとだけ本音が出た。

 

「あはは。なにそれ〜」

「そ、それで、はしもとさんはどうしたの? 私に何か用、かな?」

 

 とにかく、墓穴を掘る前に強引に話題を切り替える。

 自然な会話、自然なやりとり、自然な表情を崩さない。

 それだけに今は神経を使う。

 

「あ、そうだ! あのね、これからみんなで遊びにいかない?」

「……うーん、ごめん。今日はやることがあって」

 少しだけ間を開け、何かに迷い絞り出すように声を出す。

 

 私は、彼女の目に映る私は、ちゃんと普通だろうか。

 

「えぇー! 彩白と遊びたかったのに……」

「そうなの?」

「彩白みたいな美人と遊びたいのは、当たり前の欲求でしょ!」

「そうなんだ。でも、ごめんね。佐藤先生から相談のついでに少し頼まれたことがあって。他にも色々と、やらなきゃいけないことが……」

 

 行きたかったんだよって、そう伝わっているだろうか。

 今日は1人になりたい、そんな本音がみえていなければいいなと思う。

 

「あかねちゃんに?」

「そう」

「家でやるの?」

「うん。そうしよっかなーって」

「なんかいろは、いつも大変そうだね」

「うん。ほんと、いつも面倒だけどね。だけど、佐藤先生に頼まれたからにはやらないといけないから……」

「やっぱ、いろは優しいね! 天使だ〜!」

「まぁうん……、ありがと。だから、今日はごめん!」

 

 手を合わせて、頭を下げる。

 申し訳なさそうな顔をして、隙間から覗き込むように。

 

「……わかった! また今度ね!」

「うん。次はぜったい!」

「いろは頑張って! じゃ、また明日!」

「ありがとう。また明日ね」

 

 会話を終えて、彼女は私から離れていく。

 ぱたぱたと走り去り教室を出て、やがて、その姿が見えなくなる。

 廊下の向こう側から「いろは、無理だって〜」という声が聴こえてきた。

 喉元まできている溜息を精一杯押し殺す。

 何かを思っていても、口と態度には出さない。

 今の私は、どこにでもいる普通の女子高生と思われたい。

 

 本当の私なんて、きっとみんなは求めてないから。

 いつも元気に話しかけてくれる「はしもとさん」は、そう見てくれていただろう。

 私は、ちゃんと私であっただろうか。

 

 ――こんな私なら、きっと人を傷つけない。


 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 迷いそうになった時には、普通という言葉を心の中で繰り返す。

 とんとん肩を叩かれ、私はその方向に顔を向けた。

 そこには手を振っている人がいる。

 

「真白さん。またね〜」

「うん。また明日!」

 

 ほんの数ヶ月前に出会ったクラスメイト達へ作り物の笑顔で別れを告げて、いつも通学に使っているスクールバスを目指した。


◻︎


 家のドアを開けようとすると、既に鍵は開いていた。

 この時間には、この家にいないはずの人がここに居る。これに気づいてしまう瞬間が、一番気分が重く憂鬱だ。

 振り返って上を見上げると空はまだ少しだけ明るくて、ここに帰ってきてしまったことを後悔してしまう。

 私はゆっくりドアを開ける。中にいる誰にも気づかれないよう静かに、丁寧に。

 ドアを閉めてローファーを脱ぎ、洗面台を目指す。

 

「いろは、おかえり!」

 

 リビングから声がする。うざったいくらいにいつも通り。

 そして、こちらに近づいてくる足音。私はそれから逃げるように無視して歩く速度をあげる。

 

「帰る前には連絡して欲しいっていつも言ってるでしょ?」

 

 どんなに引き剥がそうとしても、後ろを追いかけてくる。

 この人の視線を感じている背中が少しだけ痛い。私の表情や仕草なんてなかったみたいに、笑って話しかけて。まるで、家族みたいに接してくる。

 

「今日は早かったのね」

 

 色は明るいのに、簡単にひび割れそうで繊細な声が鼓膜を揺らす。洗い物でもしていたのか、手には水滴がついている。

 

「ママは心配なの。あなたは、まだ十五なんだから」

 

 幼い頃からずっと、何度だって聴いてきた。

 貴方は、私は子供だって、そう言い続ける声を。

 今では、この音を聴くと心が冷たくなっていく。

 

「決められた門限を破らないのは偉いけどね」

 

 何度も、何度も、何度も、懲りずに話しかけてくる。

 私からの明確な拒絶の意思は感じているはず。今日まで何度だって、態度に表してきた。

 それなのに、この人はまだ親であろうとしてる。

 あと何千回、何万回、これを聴けば解放されるんだろう。

 先を考えるだけで憂鬱になる。

 リビングを飛び出して横を通り過ぎた。

 

「いろは、待って!」

 

 バタバタとうるさい足音を鳴らしながら近づいてくる。

 二階に上がる階段を目の前にして、後ろから左の手首を掴まれた。

 

「っ!」

 

 私は反射的に強く振り払ってしまう。

 

「あっ、手を。ごめんなさい」

「……なに?」

 

 私の声に、この人は少し身体を震わせる。

 その姿を見て、喉元まで来ていた言葉を引っ込めた。

 

「今日は久しぶりに、家族4人でご飯食べない?」

 

 ……家族。

 

「ほら、お父さんも……、」

 

 この人が何かを言い終わる前に、目線を切り階段を上がる。

 

「あっ……」

 

 何も、何も聴きたくない。その手で掴まれたくない。

 私にお父さんなんて人はいない。

 私のパパは、たった一人だけだから。

 私を、私達を捨てた貴方は家族なんかじゃない。

 たった一人の家族は、もうこの世界には存在しないのだから。

 

 私は自分の部屋に駆け込んでドアを静かに閉める。

 窓から覗く茜色の空と部屋の白で心が少しだけ満たされる。

 

 モニター三枚が置かれている机には、更に八十八鍵のシンセサイザーとオーディオインターフェースが配置されている。

 少し上にはスピーカー、下にはデスクトップパソコン。アームレストのない椅子と薄いブランケット。乱雑に置かれたギタースタンドには、いつも使っている白いfenderのテレキャスターに青いPRSのカスタム24。予備で白色のストラトタイプのギターもある。

 机の上にはパパとの写真と、壁に黒いストラトキャスターがぶら下がっている。

 

 それ以外は何も置かれてない。少しだけ広くて殺風景な白い部屋。

 息を吸い込むと淡いラベンダーの匂いに包まれて、気持ちが戻ってきた。

 ここでは、唯一落ち着くことができる。

 私はいつも通りにパソコンの電源を入れ、立ち上がるのを待つ間に部屋着をクローゼットから引っ張り出す。

 画面が光ったのを確認した後、椅子に腰掛けてヘッドホンをつける。

 マウスを操作してウェブページを開き、いつも通りお気に入りの欄をクリックしてウェブサイトを開いた。

 

 モニターには、チャンネル登録者数が五十万人を少し超えたくらいの「Shiro」というアカウントが表示されている。

 それに加えて、各種SNSも軒並み何十万という数字を持っている。これが私の生命線で、今を生きられている傷跡。

 

「また、ふえてる」

 

 私はインターネットの中で音楽をしている。

 こんなことをするようになったのは、まだ中学生の時。

 キッカケは様々だけど、一番大きかったのは焦りだと思う。

 本当の意味で、私の家族がいなくなった日。一秒でも早くあの家から出て行きたいと、そう思った。

 幸い、普通の人にはできないギターという武器が私にはあったから、手の届かない物ではないと確信していた。

 はやく評価されたくて、すぐにでも独りでも生きていけるようになりたくて。心に抱えた絶望と日頃の鬱屈とした気持ちを全て音楽にぶつけて、それでやっと生きていられると思っていたから。

 そんな私の気持ちは誰かに届くと、根拠のない自信だけは持っていた。

 

 思い至ったら、すぐにでも行動に移す。

 ひたすらギターを弾いて、気持ちを曲にして、それを人と合わせる。

 ただ、それだけじゃ満足できない。

 私が曲を作っても、その曲を使ってライブができるわけじゃない。

 ただスタジオで合わせているだけでは、楽しくてもお金は増えないし、誰にも評価をしてもらえない。

 かつての仲間は、まだ早いってステージには上げてくれなかったから。

 このままなら、現状から抜け出せない。

 私は何も持っていない子供だから。

 そんな焦りと不満だけが募っていた中学生時代。

 この気持ちを茜に相談したら「動画を色々と作ってネットで公開してみれば?」と軽く言われた。

 茜が言うなら試してみようと、仲間だった人に駄々をこねてパソコンを貸してもらった。

 そのパソコンで、初めて作曲と動画作成して「Shiro」という名前で一番有名な動画投稿サイトに作品を投稿した。

 

 だけど、最初は私がギターを弾く動画や作った曲なんて全然聴いて貰えない。

 それは当然の話だ。ネットの中に存在している私は、年齢、性別が共に不詳。音楽以外の部分を隠して、純粋に音だけで勝負していた。

 でも、ある時に気がついてしまった。

 アマチュアとプロが入り乱れる中で、ズブの素人である私の動画をわざわざ開く物好きなんていない。

 今のままなら、人気を得るどころか再生をされることすら難しい。私の音を聴いてもらう為には、大きなキッカケが必要だって。

 そうして、私は最低最悪の方法を思いついた。

 一分一秒を人よりも短く感じて焦っていたからだと思う。私の価値とはなんなのか、その答えにすぐ辿り着いた。

 

 ――少しの傷と共に私を世界に曝け出せばいい。

 

 思いつけば後は簡単。誰にも、何も、相談をすることなくすぐさま実行に移してしまった。

 

『十四歳、女子中学生がギター弾いてみた』

 

 この一本の動画が、私を有名にしてくれた最初のキッカケ。

 当時通っていた中学校指定の制服、限界まで短くしたスカートと肌色。

 首より上は見せずに、自分の武器を限界まで使った動画。

 編集も拙くて音もアンプからの直撮り、ただ画面が映えるように考えた動きの多いフレーズと、見えるか見えないかを調整した際どい身体の動き。

 そんな拙い動画で、私は数字を獲得することができてしまった。

 

 それからは、何もかもが簡単に進んでいく。

 動画を上げれば、バカみたいな速度で全ての数字が増えていった。

 ひとつ増えるだけでも嬉しかった数字は、いつの間にか千、一万でも気に留めなくなった。

 音楽に対してではないコメントにも好意的に反応を返して媚を売る。

 

 当時の動画リストを見返せば、ほとんどが肌色と制服のサムネイル。自分を傷つけて心を消費すれば、望むものは簡単に手に入ってしまった。

 暫くして全てが明るみに出た時、茜からの「私はこんなことさせる為に、動画と音楽を教えたわけじゃない!」という言葉と、胸倉を掴まれて揺れた視界。この時に見せた本気の怒りは今でも忘れられない。

 それでも、私は迷わずに突き進んだ。誰かのせいにしてでも、醜く走り続けるしかなかった。

 このままなら学校指定の制服を使い続けると茜を脅して、強引に服を借りひたすら動画を撮る。

 しばらくすると縦長のショート動画が流行し、勢いはさらに増していく。

 積み上がっていく私とギターの動画と数字。そして、増えていくコメント。

 

『可愛い』『胸』『太もも』『エロい』

 

 そのコメントをみれば、無数に溢れかえる誹謗中傷なんかよりもよっぽど心は傷ついてくれた。

 きっと、当時は私の演奏なんて聴いている人はほとんどいなかったと思う。私の価値は音じゃないという現実。

 だけど、その傷は次の創作意欲へと繋がっていく。

 だから、どうすればそういう目線で見てもらえるのかを考える。再生回数が増えるように工夫する。

 どうすれば望まれる動画が作れるのか、どうやれば音楽がお金になるのか。

 それだけを考えていた。

 

 結論は簡単で、これからも今の私を切り売りしていくこと、それをひたすら続けていくことだった。

 できるだけ身体に張り付く服を着る。ギターはずっと使ってきた白のストラトから、流行りのテレキャスに替えた。立って弾くよりも、座って弾いた方が再生回数が多い。作業風景と偽って、際どい写真を宣伝用のSNSに上げる。

 私は色々なことが上手くなった。

 数字の増やし方を覚えてしまった。

 そして、ここまで来れば、私が作る、ある程度のクオリティが担保されている楽曲や演奏動画はインターネットの内側で過剰に持て囃されるようにもなった。

 

『Shiroって上手いよね!』

『あのShiroが作った曲だって』

 

 吐き気を噛み殺して、動画や写真をSNSに投稿すれば、その数だけ人が増えていき有名になれる。Shiroが作れば聴いてもらえる。

 借りていた機材や服は自分で買えるようになり、今では普段の生活すら、あの人達に頼る必要がなくなった。

 今ではShiroという名前で曲を世に出せば、何十万、何百万と再生されて、ただギターを弾くことがお金になる。

 私の嘘が形になって、それは傷とお金になった。

 でも、引き換えに一番しんどかった時期を支えてくれたはずの居場所を壊して、多くの大切な人を傷つけてしまった。


 なんの変化もないはずの現実。私がShiroじゃなくて彩白だった時に、友達だと、仲間だと思っていた「大人」にこう言われた。

 

『お前は天才だよ』

 

 これを言った人がなんて名前だったかは、もう忘れてしまった。忘れるようにした。

 だけど、この言葉に「そうだよ」そう返したことだけは覚えてる。

 私はまだ子供で、辛い過去があるから。その免罪符さえ持ってれば、何もかもを受け入れてもらえると思い込んでた。

 

『俺たちはいくら努力しても無駄だったのにな』

 

 この意味が子供の私にはわからなかった。

 きっと、言葉の本質は今も理解できてない。

 だけど、確実なことが一つある。

 この後に吐き出した言葉でその人を傷つけた。

 自分自身の境遇を言い訳にして、手に入れてしまった大きな力を武器にして、偉そうに言い放ってしまった。

 

『まぁ、天才にはわからないよな』

 

 喚き終わった後に見たこの人の目が忘れられない。

 私を人ではなく、モノを見るような、そんな目。

 

『お前みたいに才能のある奴にはわからないよ』

 

 違う。全然違う。そんなわけがない。

 全ては凡人の偽りで、私自身を傷つけて、血反吐を吐きながら音楽を見つけてきたのに。

 

『お前は才能のない俺達を笑ってたんだろ?』

 

 理解されない苛立ちで当たり散らして、周りも、自分も、ぐちゃぐちゃにしていく。

 気づけば、私の周りに残ったのは茜だけで。

 

『だから、彩白は――』

 

 結局、最後には茜も泣かせて傷つけてしまった。

 それから数年、今でも茜のギターを聴く事はできてない。

 

 でも、もう止まれない。許されないことを重ねすぎて、心が麻痺してしまった。


 だから、今日も「Shiro」として、お金の為にDAWでバッキングトラックを打ちこんでいく。次に投稿する予定の、今流行ってる曲の弾いてみた動画。

 ある程度の打ちこみが終わり、確認のために再生ボタンを押す。

 聴こえてくるのは、機械が人間を真似た無機質なドラムとエレキベース。調声の甘い、命の通っていないボーカル。それが混ざりあいながら鼓膜を揺らす。

 

「これで、いっか……」

 

 後は私がギターを弾きながら動画を撮り、ギターの音を録音するだけだ。

 作業がひと段落し、椅子に深く背中を預けた。

 

「いろ〜」

 

 すると、ヘッドホン越しから小さく聴こえる可愛らしい声と共に、服の裾が引っ張られた。

 振り返ると妹の綾華が勝手に部屋へと入り込んでいた。

 

「んー。綾、どうしたの?」

 

 すぐに椅子から降りて膝立ちになり、綾華に目線をあわせる。

 

「いろ〜、いっしょにあそぼ」

「ごめんね。今はやることがあって……」

「やー! あそんで、あそんでよ!」

 

 私を見上げるように反応を伺った後、頬を膨らませて下を向く姿が可愛い。

 この子の願いなら何でも叶えてあげたいけど、今は無理だと思う。どうしても、正しく向き合える自信がない。この子だけは絶対に傷つけたくない。

 

「ほんと、ごめんね」

「うー……」

「今度、今度は綾のしたいことしよう」

「ぜったい?」

「うん、絶対だよ。いつもの約束しよ?」

 

 綾華に小指を見せる。

 

「うん!」

 

 お互いの小指を絡ませて、数回軽く振った。

 

「これで約束」

「……うん、わかった。ざんねんだけど、いろがいうならがまんする」

「いい子。綾は偉いね」

 

 わしゃわしゃと頭を撫でると、猫のように目を細めて、私の掌に髪をこすりつける。

 もっと、もっと、もっと。この子はそうやって、私を求めてくれる。

 それにこの歳で言うこと理解してくれて、受け入れてくれる。本当に頭のいい子だ。こんな私の妹とはとても思えない。

 

「……いろ、さっき、おこってた?」

「どうして?」

「いまはとってもやさしいかお。でも、さっきはこわいかおだった」

 

 先程よりも下を向いて、哀しそうな顔。

 きっと、さっきのやりとりを隠れて見ていたんだろう。

 こんな顔をさせてしまう自分が嫌になる。本当に情けない。

 

 この子は私よりも、ずっと綺麗だ。目の前にいる優しい子はとても残酷で尊く感じる。歳を重ねてしまった自分の醜さを思い知らされてしまう。

 

「ううん。なにも怒ってないよ」

「ほんと……?」

「……うん」

「あやのこと、きらいじゃない?」

「当たり前でしょ。私は綾がとっっても大好きだよ」

「ほんと!?」

「うん。これだけは絶対に、絶対に嘘じゃない」

 

 偽りだらけの自分に言い聞かせる。

 小さな身体を優しく、包むように抱きしめた。

 

「綾、いつも私と遊んでくれてありがとね」

「うん!」

 

 満足したのか、小さな手を振って部屋から出ていく。

 私はゆっくりと振りかえして、ドアが閉まるのを確認すると、いつも通りに少しだけ椅子を倒してブランケットに包まり膝を抱えて目を瞑る。

 優しい綾華には悪いけど、少しだけ眠りたい。

 作曲、動画に編集とやることはいっぱいある。

 だけど、作業をやる気分では無くなってしまった。

 

「明日、やればいいか」

 

 私はたった独りで呟く。こだわらなければ、すぐにでも終わるんだから、全部、どうでもいい。

 もう、そうなってしまった。


◻︎


「部活の名前は研究部。略してケンブ。部員が一人でね、外部の指導員が二人いて顧問が私。彩白は二人目の正式な部員になる」

「……いきなり何言ってんの?」

「正式な活動はまだ三年目で、やっと形になってきたって感じかな」

 

 どうやら、私の話を聞く気は一切ないらしい。

 どうにも怠かった授業中から解放された放課後。クラスメイトは今頃、騒ぎながら遊びに行く相談でもしているんだろう。

 

 でも私は、これまで存在すら知らなかった部活について、めちゃくちゃな人員構成や活動遍歴、興味もない略称について捲し立てられるように説明されている。

 

「はぁ……」

 

 せめてもの抵抗で茜に聴こえるように溜息をつく。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 それにしても主体性のない名前だ。研究部の前に名詞がないから、何をしてる部活なのか全くわからない。

 そもそも、部員よりも顧問の方が多い部活なんて存在していいのだろうか。現状では気持ち悪いという印象しかない。

 

「なにって、予め教えておかないとなって」

「なんで?」

「いや、逃げられたら困るし」

「……だからなんで」

「それは……、うーん。まだ秘密」

 

 終わってる。話が全く通じない。

 なんの役にも立たない退屈な授業が終わったかと思えば、HRが終わった直後に「昨日の件ね」とお仕事モードの茜に話しかけられた。

 

 何事にも好奇心旺盛な女子高生の質問を躱し続け、這い出るように教室を後にし、私達は人影の全くない旧校舎の間を縫うように歩いている。

 活気のある学校生活の中心から離れてしまったからか、この場所はとても寂しい。いつも煩いほど声を張り上げている運動部の声がとても遠くに聞こえる。

 

「部員の子はこの学校の三年生で、指導員の二人はちょっとだけ人生の先輩だから、ちゃんと仲良くしなよ」

「どんな人か知らないし、わかんないよ」

「大丈夫! 本当は根暗で不良の彩白と違って、明るくていい子だよ。少なくとも部員の方は、ね」

「……指導員とやらは?」

「ちょっとヤバいかな」

 

 今すぐにでも帰ってやろうか。

 そう思いながら私は茜の背中を睨みつける。

 だけど、少し前を歩くこの人は、私の視線なんて気にも留めずに前を堂々と進んでいる。

 

「ふーん、ふーん」

 

 今日の佐藤茜先生は鼻歌まで歌ってえらく機嫌がいい。ほんと何させられるんだろう。

 茜が部活の顧問なんてめんどくさい事やってるのも驚いた。けれど、私を入部させたいなんて言い出したのはもっと驚いた。

 正直な話、入学当初は学校であまり関わってこないと思っていた。だけどそうならなかったことは、この二ヶ月で証明されている。

 毎日のように話しかけてきてクラスメイトにすら昔からの知り合いであることがバレている。

 みんなの前で見せる作り物の私をあれだけ毛嫌いしていたのに、最近はみんなの前で普通に接してくるのも明らかにおかしい。

 

「ほら、きびきび歩く!」

「……うるさい」

 

 今日の彼女は、いつにも増して鬱陶しいぐらい元気だ。

 まぁ、私の秘密を知っているからこそ邪魔するチャンスを伺っていたのかもしれない。

 きっと、茜も私のことを恨んでいるんだろう。

 いくら善い人を気取っていても、人は簡単に裏切る。

 目の前で優しく笑っているこの人が、その一人でない保証はどこにもない。

 

「もうちょっとだよ!」

「……はいはい」

 

 旧校舎を抜けて、広い敷地の随分と遠くまで来た。さすがは私立高校。これだけ広いとは思わなかった。

 どれぐらいの頻度かはわからないけど、ここへ通うことになることを思うと気が滅入る。

 このままだとこれからの学校生活が夢も希望もなくなる可能性がある。

 例えば、重いものを運ばせて腕が上がらなくなるほど疲れさせたり、デスクワークなんかの単純作業をさせて学校に拘束するとか。茜が担当する部活の雑用をやらせるつもりなのかもしれない。

 教師は大変だということをよく聞く。他の生徒には頼めないことを私と一緒にやりたい。そういうことなのかもしれない。

 高校生活を茜と共にする未来を思い描き、口角が少しだけ上がる。

 そして、何事も自分に都合よく考えてしまう自分がまた嫌になった。

 

「彩白」

「なに?」

 

 唐突に、いつもより少しだけ低い声で話しかけられた。

 この人気のない場所では、よく声が反響していく。

 先程までとは全く違う声色と、冷たくて静かな雰囲気に不安を煽られる。

 

「……もう、自分で仲間は作らないの?」

「は?」

「もう、バンドは組まないのかって聞いてる」

 

 私は耳を疑った。まさか茜から、その言葉が出てくるなんて思っていなかったから。

 声が震えないように、冷静になってから声帯を動かす。

 

「……全部を知ってる、それも当事者が言うの?」

「さすがに全部は知らないかな」

「ふざけないで」

 

 なんで今更、傷を抉り出すようなことを言うんだ。

 これまで全然触れてこなかった。何も言ってくれなかったのは茜だったはずなのに。

 

「だって、彩白は私達の言うことなんて聞いてくれなかったじゃん」

 

 その突き刺さるように鋭い言葉を聞いて、何も言い返すことができなくなる。

 

「勝手に塞ぎ込んで相談も一切してくれない。いつの間にか有名になってさ。気づけば何もかも取り返しがつかなくなって。私達……、私は見てる事しかできなかった。そういえば、最初は加担もしたっけ」

「それは……」

「だからね、全部はしらなーい」

 

 立ち止まることなく前を向いている茜の顔は見えない。

 

「けどね、そんな私だから言えるんだよ」

「なんで?」

 

 私は反射的に言葉を吐き出す。

 

「……ほんと、彩白はそればっかりだね」

 

 茜は立ち止まって振り返った。その顔は少しだけ悲しそうで、心当たりしかない私は口を噤むことしかできない。

 

「なんでなんでって、そればっか。そのくせ私の質問にはまともに答えてくれない。少しつっこんだ話をしたら、入ってくるな、聞くなって、ほんと酷くない?」

 

 その言葉ではっきりと突きつけられる。

 甘えて、何度も裏切って、時には当たり散らして。茜を傷つけることしかしてこなかった。

 

「まぁいいよ。今の答えでやることは決めたし、後は本人達次第ってことで」

「……何それ」

「それは自分で確かめる事だね。でも、ちゃんと背中は押してあげるよ」

「だから、」

「なんでと何それ、は禁止ね。これからは簡単に答えが返ってくるとは思わないことだ」

「……ふん」

 

 にやにやとしたムカつく面は相変わらず。

 だけど、目の前にいる人はちゃんと茜だった。

 再び歩き出した茜の後ろをくっついていく。

 すると、生い茂る木々の間に古臭い建物が見えた。

 

「着いたよ。ここが部室ね」

 

 全体的には古いのに、所々が新しい建物。

 重そうなドアや壁は新品のように綺麗。けれど、苔の生えたレンガやくすびた屋根をみれば古い建物だと一目でわかる。

 なんとも言えない暗い雰囲気と、葉の擦れる音がとても不快に感じた。

 立ち止まる私を他所に、茜はベンチ横に置いてある鉢植えを持ち上げている。

 

「お、鍵は空いてんじゃん。ちゃんと来てるね」

 

 茜は鉢植えを下ろすと、入り口である分厚そうなドアを指差す。

 

「ほら、彩白が開けなよ」

「な……、」

 

 私は吐き出そうとした言葉を飲み込む。

 

「わかった」

 

 困惑したままドアノブに手をかける。

 私は後ろに体重をかけるようにしてドアを引っ張る。ドアが開いた瞬間、ぷしゅっと音がなる。明らかに外の音が遠くなったということを入り口からも感じる。

 この感覚には覚えしかない。これは遮音された空間が発する独特の空気だ。

 視界に入ってきたのは木を基調とした窓のない部屋。そして、入口から見える奥の壁が大きな鏡になっている。

 室内は全てが異質で、学校生活には相応しくない物ばかりが乱雑に置かれている。

 中央付近には黒い箱の数々。アンペグのベースアンプとドラムセット。部屋の端っこには見慣れた筈の懐かしい機材が無造作に積み上げられてる。

 そして、主張の激しいマーシャルアンプとキャビネットの後ろ姿が目を引く。

 ここで私に何をさせたいのか、どうしてここに連れてきたのかを大体察した。

 なら、この後の行動は一つだけしかない。

 

「……かえる」

「はい、だめー!」

 

 振り返って逃げようとしたら茜に退路を塞がれ、肩を強く押されて無理矢理部屋に捩じ込まれる。

 

「……いったい。なんで!」

「はい、またなんでなんで病が出てるよ」

「それは茜が!」

「……真白さん。それでいいの?」

「は?」

 

 急に嫌いな苗字で呼ばれた。不快感を隠すこともなく茜を睨みつける。

 

「だから、その態度で大丈夫なの? もっと部屋の中をちゃんと見なよ」

 

 その存在は機材に埋もれて見えなかった。少し奥で何かを引っ張り出している人影がある。

 ここには確かに私達以外の人がいる。

 

「あっ、えっと」

 

 反射的に後ろへ下がろうとする。

 だけど、でも、許されない。

 狭い部屋に向かって押し出される。

 

「いっ……。あ、あかね……?」

「おーい」

 

 茜は私を無視して中の人に話しかける。

 肩には優しさを全く感じられない痛み。茜の顔にいつもの優しさを感じない。怖い、と、そう思った時だった。

 

「あっ、その声は茜先生! と……、誰かいる?」

 

 ――突然、透き通るような声がした。

 

「こはる、やっほー。ほら、昨日言ってた新入部員を連れてきたよ」

「えっ! ほんとですか?!」

 

 その音に全身で動揺し、思考が吹っ飛ぶ。

 暖かくて優しい。知らないはずなのに懐かしさすら感じる。

 だけど、思っていたよりも低くて、それなのに透明な声が空間を抜けていく。

 私の音と混ざり合った時、どんな音楽になるんだろう。

 それをこの一瞬に想像してしまった。

 これが、この声が、ずっと求めていた音だと直感が思い込んでしまう。

 おかしい。でも、わかる。一音聴いただけで私にはわかる。

 彼女は歌う人間だと、耳がそう告げてる。

 

「ほい、ほいっと!」

 

 ぴょんぴょんと跳ねながら、物の間を縫うようにして向かってくる。

 その顔を見て、また少しだけ後ずさる。入学したばかりの私ですら、その人を知っていたから。

 

「ごめんねー。ちょっとだけ汚くて……、おぉう……」

 

 身長は私より低く、人懐っこそうな容姿。肩に少しだけかかる髪には、青いインナーカラーが入っている。耳にはピアス、胸元にはネックレスがぶら下がっている。

 無駄に真面目なこの学校では浮いた存在。その姿は一度だけ、遠目で見たことがあった。

 

「あっと、えっと……」

 

 更に後退りをして、先輩から距離をとろうとする。

 けれど、茜がそれを許さない。

 私はゆっくりと振り返る。

 

「やっぱりね。そうなると思ったよ」

 

 茜の言葉と表情をみて、背筋に冷たい物が走った。

 そして、取り繕う隙は与えられず彼女との距離が縮まっていく。

 

「ようこそようこそ! 昨日、先生から話は聞いてるよ!」

「いや、その……」

「私は日向恋青です! 真白彩白さん、これからよろしくね!」

 

 そう言って笑顔で手を差し出してくるのは、この学校一番の有名人だった。



 



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