灰色の金魚

@zitsuzai

ほぼ自動筆記

花瓶の濁った水を灰色の金魚が不満げな表情で泳ぎ回っていた。その花瓶を真っ黒な猿が横から物欲しげに見つめていた。彼はあまりにじっとその銀色と赤のフォルムに見入っていたので、今にも毛むくじゃらな手が、水中の小さな命をとらえてしまいそうだった。彼は不意に何か辛いものが口に入ったような表情をして、その場から飛びのいてこちらに走ってきた。テレビの音だった。テレビからはいつものお昼の通販の音が流れていた。スマホの広告で、その音声がいかにクリアで老人でも楽々操作できるものかを示すために、ことさらけたたましい音を立てるので、毎回びっくりしてかけてくるのだった。ここには彼らのほかに柴犬もいるのだが、こんなに憶病なのは彼だけだった。彼と目が合った。彼の黒目しかないつぶらな目が毛むくじゃらの奥から僕に訴えかけていた。

「どうしたんだい?」

「あれはきっとバオバブの音だよ」

「この星にたった一つの?」

 彼は視線をそらして僕にしがみついた。彼の出身を僕は知らない。三年前から、隣家に住む祖母の認知症が進み、もう駄目だというので、身寄りもない彼女の身辺整理を手伝った折に、僕は彼の存在を知ったのだった。彼はその薄暗い、老婆のにおいとカビのにおいの充満した座敷の隅の牢屋に本当にひどい状態で閉じ込められていた。初めて目が合った時、彼はまったく怒りの表情も恐怖の表情も見せず、ただぼくの顔をじっと見つめ返してきた。僕は彼に近寄り、身をかがめて手を伸ばした。彼の伸びきったつめが僕の指先に触れたとき、自然と涙があふれた。君だったんだね。僕は生き別れた兄弟のように彼の存在を感じた。三十年以上も生きてやっと出会えた。彼はきっと僕の唯一の血縁だ。そう思った。そうして僕は、必死にこれからは一緒に暮らせるように奔走して、彼女の親類から十五万円という金額で彼を買い取ることができた。

 初めて彼を外に連れ出した日、彼は部屋を出るなり隅にかけていき無心に穴を掘りだした。それはまるで臆病なウサギのようでおかしかったが、僕もすぐに一緒になって掘った。子供の時、ひたすら穴掘りをすることが好きだったことを思い出して、まるで失ったままだった彼との幼少時代を今取り戻しているように感じた。

 もう旬のすぎたタピオカミルク。ちょうどトイレトレーニングがすんだころ、二人で渋谷のパーラーへ出かけた。店員のお姉さんは彼をみてたじろいだけど、かれの不思議と柔和な表情にすぐに安堵して、おすすめのミルクを与えてくれた。周囲は人もまばらで、若い少女の二人組とスーツ姿の男女のカップルがいた。少女らは彼を見るなり、そそくさと立ち去ってしまった。あるいは僕のような風体の中年男が入ってきたことで興ざめしてしまったのかもしれない。

 彼が一番好きだったのは、何より金魚すくいだった。近所で祭りがあると二人で必ず出かけて金魚すくいをした。彼特有のあまりにも慎重なすくい方だったので、一回に十分もかかってしまうのだけど、決して紙をやぶることなくひょいひょいとすくい上げていくので関心した。どうしてそんなに器用なことができるのか尋ねたことがあるのだが、それはまるで一種のおまじないで初めから彼に授けられた独特の才能であるらしく、要領を得た答えは得られなかった。

 僕はついに彼を動物園に連れて行った。そこの猿山には彼によく似た猿たちが群れを作って暮らしていた。はじめ彼はそこに近寄ろうとしなかった。そのうち向こう側から一匹の猿がこちらに歩み寄ってきた。真っ赤なお尻をしていたから、おそらく成人した雌猿で、彼女は不思議そうに彼を眺めてから、手に持っていた蜜柑のかけらを彼に差し出した。優しい子だった。それからは彼はその猿山に行きたがった。そのたびに彼女は歩み寄ってきて、彼に微笑みかけているようだった。

 ある時、水面に浮かぶ少し茶色くなった桜の花びらをつかむと、彼は彼女に差し出した。ゆっくりと手を伸ばして受け取った彼女はそれを鼻先に当ててほほ笑んだ。そうして急に向こうへ駆けて行ってしまった。その日はそれっきりだった。それからまた動物園の猿山に何度も行ったのだけど、もう決して彼女はこちらに寄ってこなかった。彼は一目でわかるくらいしょげ返ってうつむいて帰った。そして部屋に戻るなり水槽の金魚を無心で目で追うのだった。金魚はその水槽の中にいつもいて、その場からは決して動かない。それはまるでかつての彼自身だったが、その様子が皮肉なことに一番の心の支えとなった。彼は赤いおひれを溺愛した。ほっとくと水が濁るまで餌を与えてしまうので、注意して見守る必要があったけど、僕はそのままにしておいた。テレビからはまたあのスマホのCMが流れていた。買った人は皆後悔してしまうだろう品物であることはわかりきっていた。

2024年4月29日

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