第10話 3月某日 当たり前

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。


 洋人はソワソワしながら鏡の前に自分の手を翳した。

 今まで一度も味わったことのない感触が左手の薬指にしっかりと存在している。両端に段差の入ったプラチナのリング。普通の輪っかだけでも洋人には充分過ぎる程の贈り物なのに、デザイン性のある二人の為だけのリングがそこに輝いていた。

 夢ではない。

 本当の本当に誠がこれをくれたのだ。


「おい、風邪ひくぞ」


 背後の折れ戸がガチャっと開いて全裸の誠が出てきた。

 プロポーズから一夜。

 諸々あって寝坊した二人はとっくに日が昇り切った九時過ぎに布団から這い出し、一緒に風呂に入った。とは言え、この家の狭い風呂では二人一緒に湯船に浸かるなんてことは出来っこない。片方が洗い場に居る間、もう片方が湯船に浸かるという流れ作業だ。最初に風呂に入った洋人が先に上がることになったのだが、脱衣所でモタモタしているうちに誠に追いつかれてしまった。


「消えてない……本物だ……」


 洋人が指輪を見せるように手を開くと、誠は照れた様子で「当たり前」と言い返して洗濯機の上にあったバスタオルを引き抜いた。

 当たり前は当たり前なのだが、洋人にしてみれば夢にまで見たマリッジリングだ。体を拭う誠の左手にも同じ光が輝いていることを確認して、密かな幸せを噛み締めていたら、じとっとこちらを見ている半眼の瞳にぶつかった。


「洋人さん。そんなエロい目でジロジロ見ないでくれませんか?」


 失礼な。つい先ほどまで、風呂場で昨夜のあれやこれを今更のように蒸し返し、困っている洋人を見てニヤついていたのは誠の方だ。


「別に誠さんの裸を見ていたわけじゃありません。指輪を見ていたんです」


 一体どっちがエロいと言うのか。はしゃいでいる胸の裡を悟られぬよう、シラっとした表情を繕う洋人に、誠は少しだけ不安が入り混じったような視線を向けた。


「気に入った?」


「……とても」


 洋人はほんのりと頬を染め、改めて自分の指輪を見た。

 艶々と光沢のある表面はどこまで行っても同じ角度で綺麗な弧を描き続けている。ずっと身につけていれば、いずれ傷が入ってこの輝きも曇ってしまうことだろう。しかし、それも喜ばしい未来の一ページなのだと、洋人はこの先の長い時間を思って温かな気持ちになった。


「それにしても、いつの間に測ったんですか? サイズ」


「お前が寝てる時」


 まるで試着したかのようにジャストサイズの指輪を不思議に思って洋人が訊ねると、誠は遥か昔から使い古されてきた模範回答を寄越してきた。

 確かにそれ以外、洋人に気付かれずに指の直径を測る方法はないのだが、実際に指輪の定位置となる薬指の根本だけではなく、指輪を通しにくい関節の部分まで計算しつくされているようだ。

 単なる偶然か……そう思っていた洋人に、誠は事も無げにその種明かしをしてくれた。


「丁度、結束バンドインシュロックがあったし」


「インシュロック?」


「うん。お前爆睡してたから何度か実験して……ニッパーで切ったりしたけど、全然起きなかったかったから……。あ、でもマジで良かったわ。それ段差ついてるじゃん? サイズの修正めっちゃ大変らしくて……」


 ……ニッパー?

 サイズの修正よりも洋人はそちらの方が気になった。

 誠の説明に出てくる言葉はテクサポではお馴染みのものばかりだが、まさか会社に居る時に計測したのか?

 洋人が会社で寝たのは…………大晦日。あの事件の後だ。

 インシュロックを持ってきて、あーでもないこーでもないと試行錯誤を繰り返す誠の姿が思い浮かぶ。


 結局業務を放り出しているじゃないか。

 全く何をやっているのか。

 こんな不良社員が新局舎に行って、この会社は本当に大丈夫なのだろうか?


「また夜勤サボったんですか?」


「ちゃんと仕事しましたよ。何もありませんでしたって引き継ぎ書書いたし、四、五件ぐらいは切り分けしたし、紅白も見たし」


 いや、最後のは余計だろう。


「……新局舎では真面目にやってくださいよ」


「はいはい。分かってますよー」


 大して反省した様子もなく、誠はひょいと肩を竦めた。本当にわかっているのか、と洋人はボクサーパンツを引き上げる誠に疑いの眼差しを向ける。

 誠の番犬こと、春日颯が『男のロマン』と絶賛していた下半身を布地の下に隠し、アンダーシャツに手を伸ばした誠の肩には、昨夜洋人が付けた嚙み痕が残っていた。

 本人は何も言わないし、流血は無いようだがこの後、何週間かは痣になる傷だ。


「……すみませんね」


「何が?」


「肩、痛かったでしょう?」


「ああ、これ? いいよ。気にしなくて。俺もぶっ飛んでて、さっき気付いたぐらいだし」


「でも……」


 誠は笑っているが、犬歯の部分が特に赤く鬱血して見るからに痛そうだ。


「お前、噛み癖ある? 前にも何回かこういうのあったよな?」


「どうやらそうみたいです。……自覚はなかったんですけど……」


 洋人は反省しながら頷いた。

 誠に対してだけなのだ。無意識のうちにこんなことをしてしまうのは。

 誠とのセックスは洋人にとっては麻薬のようなものだった。元々の相性の良さもあるが、それに加えて学習意欲が旺盛な誠がこの三年間で、性感を引き出すための手練手管をすっかり修得してしまったものだから、洋人は思うままに手の上で転がされるばかりだ。

 極限まで昂った体の最奥に楔を打ち込まれると、得も言われぬほどの快感が全身を駆け巡る。淫楽に堕ちた洋人の身体は耳元に誠の荒い息遣いを感じただけで蜜のように蕩けて灼熱の塊に絡みついてゆくのだ。どんなに我慢を重ねても勝手に漏れてしまう自身の声に、更なる羞恥心を煽られ、合わさった体温によって登りたつ誠の首筋や、頸の甘い匂いを感じると、洋人はいよいよ堪らなくなって『ガブリ』と……。

 昨夜はそんなこんなに加えて、いつもより数倍イジワルな誠に、いつもより数百倍優しく愛情を掛けられ、一向に終息する気配のない身体を持て余した挙句『ガブガブガブー』っと……。

 男性でも女性のような絶頂を味わえるという話を聞いたことはあったが、洋人がそれを体験したのは昨夜が初めてだった。今までの歴代彼氏の中に、これほどまでの満足感と充足感を与えてくれた相手はおらず、当然のことながら勢い余って相手に噛みつくなんてこともなかったので、どうしてこんなことをするのかと聞かれたら、洋人は『相手が誠だから』と答えるより外ない。


「……以後気を付けます」


「え。いいよいいよ」


 誠は首を振って、この傷は自分の物だと言うようにアンダーシャツの上から傷口にそっと手を置いた。


「でも、怪我してるじゃないですか」


「これぐらい怪我のうちに入んねーって。お前、気持ちいいと噛んじゃうってことだろ? 俺はむしろもっと噛まれたいぐらだわ」


「…………」


 明け透けな質問に、洋人は返事に困った。

 それを肯定することは『噛みつく=気持ちイイ』を自ら認め、誠にある種の指標を与えてしまうようなものだ。そして、仕事は適当な割に、セックスでは手を抜かない誠がこの先洋人をどうするのか……考えただけで少し怖い。

 ちょっと失敗したかも。

 洋人の中で期待と後悔がごちゃ混ぜになった。


「あの……言っておきますけど、毎回こんなことになったら、こっちの身体が持ちませんからね、ほどほどでお願いします」


「へー。そんなに大変だったんだ?」


 一応、窮状を伝えて釘を刺しておこうと洋人は忠告したが、その言葉は返って誠を喜ばせただけだった。


「あの、誠さ……」


「それで? 妹とは話せたの?」


 困っている洋人をサラリと無視して、誠は突然凪紗の話を始める。


「話逸らさないでくださいよ」


「はいはい。わかった。わかった。誠意努力します」


 こりゃ、守る気ないな。

 洋人は誠の反応を見てそれを確信する。結局のところ誠が求めれば、洋人はそれに応じるだろうし、これから遠距離生活が始まったら、むしろ自分の方から求める回数が増えるのではないか、という予感もあるので、それ以上強くは主張しない。

 性生活に関しては『どんぐりの背比べ』『五十歩百歩』の二人である。


「で? どうだった?」


「少しだけ。和解には程遠い状態でしたけど……ただ、僕にとっては大きな一歩になりました」


 あの状態で、話をしたと言い切っていいのか分からないが、凪紗とまともに目が合ったのは事件以来初めてのことである。


「……誠さんが父を説得してくれたんですよね?」


「まぁ、説得っていうか話しただけ。……志望校全部落ちるなんて余程だと思ったから。第一志望に落ちました、とかそんなレベルじゃないじゃん」


 やはり、父の発言は誠との会話が引き金になっていたのだ。その助言によって今まで家族ですら知り得なかった凪紗の行動と本心は暴かれた。


「そう言えば、誠さん、どうやって父の連絡先を知ったんですか?」


「えっ?」


「僕、実家の話あまりしたことないと思うんですけど……」


「いやまぁ、それはいろいろあるさ……」


 途端に焦り初めて、視線を彷徨わせる誠を見て洋人は『何かがある』と確信する。


「僕のスマホ見ました?」


 指のサイズを測った時と同じように、洋人が寝ている間にスマホのロックを解除された可能性はある。ただ、洋人のスマホは指紋認証がないので、六桁のPINコードを入力しなければならない。誠にバレて困るようなことはないとロックを解除する時も特に気にしていなかったが、どこかで盗み見されていたとか?


「んなことするかよ。……それよりお前、個人携帯に東嶋の連絡先とか入ってないだろうな?」


「話逸らさないでください。……てゆーか、そんなに心配なら、ロック解除して勝手に見たらいいじゃないですか」


「だからパスコード知らないんだって。そもそも最近お前と一緒にいなかったじゃん」


 確かに、セフレ契約を解消してから互いの家を行き来することもなかった。

 一番可能性がありそうなスマホの解除を『面倒なこと』と断言する以上、それよりも簡単に満島家の情報を手に入れるツールが誠の手の中にはあるのだろう。

 洋人はありとあらゆる可能性を思い浮かべては頭の中で検証していたが、まさか自分の通話履歴を辿られているとは夢にも思っていなかった。


「だったらどうやって手に入れたんですか? 父の連絡先」


 考えれば考えるほど分からなくなる。

 そもそもどうしてパンフレットなんか持ち出したのだろう? 企業説明会でもあるまいに。訳のわからないシチュエーションにますます混乱する洋人の脳裏に、パンフレットを食い入るように見ていた由美や千波の姿が浮かんだ。あの二人にも誠を紹介しなければ……と更なる頭痛のタネに気付いたのだが。

 いやいやちょっと待て。何か大事なことを見落としているぞ、と冷静なもう一人の自分の声にハッとした。


 あの時、由美は何と言ったのか。

 洋人はグルグルと、家での出来事を再生してみる。パンフレットを見た時、由美は『港一が持ち帰った』と説明した。由美が預かったものでも、ポストに投函されていたわけでもなく、港一がものだ。

 いつ? どこで?

 洋人の自宅周辺は住宅街で、見知らぬ人間がうろついていたら住人の目に留まるだろう。あまつさえ、あんなに目立つ男なのだ。必ず噂になるに決まっている。

 家族を経由せずに港一と連絡を取るとなると、本人の携帯番号か、職場に連絡しない限り無理だが、勤務先の名称は分かっても電話番号まではさすがの洋人も登録はしていない。となるとやはり携帯電話に連絡をしたのだろう……という結論に達するが……。


「……え? やっぱり僕の携帯見ない限りは無理ですよね?」


「まぁ、そこはおいおい」


「誠さん……!」


「それよりこれからどうすんの、俺たち?」


「それこそおいおいですよ。まずは実君に話をして……」


「いや、実にはもう話したよ」


「いつ!?」


「朝。あいつ飯食いに戻ってきたから、その時に」


 どうやら、寝坊は寝坊でも、誠の方は二度寝の寝坊だったらしい。実にも迷惑をかけてしまったので、洋人はどこかで謝罪できれば、と思っていたが、それも叶わなかったようだ。


「何か言っていました?」


「ううん。指輪見せたら、泣きながら出て行った。ま、いつものことだけど……」


 いやいやいや……! 今回はいつものと違って結婚報告だ。洋人としては改めて正式に、順序だって実に説明したかったのだが……まぁ、確かにいつものこと言えばいつものことかもしれない。


「お前の家は? 妹の方も大変なんだろ?」


「またお彼岸に帰るので、とりあえず誠さんの話だけはしておきますよ。どの道家族からはいろいろ聞かれるれるでしょうから……」


 洋人は誠に説明しながら、港一との最後の会話を思い出した。


「……そう言えば、父が『警察呼ぶところだった』って言ってましたけど、誠さん、何したんですか?」


「やー……ですから、そこはおいおい」


 またそれか。

 何を言っても誠は喋りそうにないので、洋人は追及を諦めた。何があったのか、父に聞けば詳細はわかるだろうし、マジシャンのような誠の行動を追求するよりも先にやらねばならないことが山ほどある。


「妹と揉めそうだったら、無理しなくていいからな。……何年かかっても俺の気持ちは変わらないし」


 思いやりに満ちた誠の言葉に、洋人の感動が枕から飛び出した羽毛のようにふわりと宙に舞い上がった。

 その場の空気さえも塗り替えてしまいそうな、誠の温かい眼差しを正面から受け止めて、洋人は微笑みながら尋ねた。


「……これからもずっと一緒ですよね?」


「当たり前」


 ニコリと笑った誠は、最初に口にした言葉を再び繰り返して洋人の唇にキスをした。

 黒い前髪の先にあった水滴がぴちゃっと落ちて、笑顔を見せる洋人の額の上に宝石のように輝いた。

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