第9話 2月末日 帰路
怖かった。マジで殴られると思った。
港一と別れた誠は、緊張と安堵が入り混じってバクバクと忙しない鼓動を抑えるように来た道を戻っていた。しばらくは順調に走ったものの、今し方の会話と、自分がやったことの重大さを思い出すと途端に身体が震えてきて、高速に入る手前にあった大きなパチンコ屋の駐車場に入った。
この辺りの渋滞の状況もいまいちよく分からないので、できるだけ飛ばして帰りたいところではあったが、このまま運転手するのはマズイと感覚が訴えてくる。空いている区画に車を収めたら今更のように膝までガクガクと震え出した。
誠は気分を落ち着けるためにハンドルに持たれて大きく息を吐いた。
初めて見た洋人の家族。
あれが、アイツの『父ちゃん』
洋人はきっと母親似なのだろう。目許の印象が柔らかく、港一よりも優しい顔立ちをしている。それなのに、唇の形や小鼻の形といった細々した部分や、喋り方や温かい声色は、確かに港一に通じるものがあった。
電話の印象で港一が誠に対して不審感を持っていることは解っていたが、実際に面と向かってみるとその迫力は想像以上だった。大の大人に攻撃される……そんなシチュエーションに殊更苦手意識のある誠は、家族を守るのだという気迫の漂う港一の表情を見た瞬間に尻尾を巻いて逃げ出したい気持ちで一杯になった。
心臓が早鐘のように鳴って、こんな真冬だというのに背中には冷や汗が浮いてくる。定森を庇ってパワハラ上司に殴られそうになった時とは違い、今回は一対一だ。仲裁に入ってくれる人間も、助けてくれる人間もどこにもいない。その状況が更なる切迫感を産み、誠の心は落ち着きを失った。
最悪殴られても、ちゃんとわかってもらうまで話そうと不退転の決意でやって来たが、幼い頃本能に植え付けられた感覚はちょっとやそっとで上書きできるものでもない。とにかく使える物は何でも使えと、殴られないために物理的なツールはもちろん、なけなしの精神力も全て総動員した。
港一と話をして分かったことは、洋人に対する彼の愛情が……否、家族の愛情が現在進行形で続いている、ということだった。洋人だって大概いい大人だろうに、子供を守ろうとしていた港一。その本来あるべき親の姿を目の当たりにして、誠は洋人が育ってきた環境を知ると同時に、自分には与えられなかったものの大きさを実感した。
飛び降り自殺を図った息子を支え、理解し、寄り添ってきた家族だ。その絆の深さは誠には計り知れない。そして、その優しさと強さがしっかりと洋人の中にも息づいていることを誠は知っている。
一緒に居たいのなら、周りの人間のことも考えろと洋人に言った言葉がそのまま誠自身にも降りかかってきた。結婚なんて当人同士の問題だ。男同士であれば猶更。しかし、誠にはどうしても洋人と洋人の家族を切り離して考えることができなかった。自分自身が、家族の縁に恵まれなかったことも関係しているのだろう。やたらその部分が気になって、だからこそ、当たり前のようにそこにあるものを見過ごすようなことがあってはいけないと思ったのだ。ただ、それは洋人や満島家の問題であって、自分の世界のことではないのだと、今の今までそう思っていた。
そして、港一の最後の言葉を聞いてそうではないことに誠は気付いた。
星野家で起こったこと、そして自分と弟がどんな環境で育ってきたのか……それを、洋人の家族にも話をするべきだ。洋人とこの先ずっと一緒にいると言うのであれば誠自身も、相手の家族に対して正直でいたいと思った。
誠は放置子で、問題児で、学校にも馴染めない鼻つまみ者だった。親ですらああだったのだという引け目が心の中にあって、いつもどこかに現実から目を背け逃げ出そうとする自分が存在する。
悔いても仕方がない。前に進むしかない。頭ではそうと分っていても、口で言うほど簡単に呪われた境遇を振り切ることなど出来なかった。
誠を悩ませていた二人の大人がいなくなり、安心して生活できる場所を手に入れても、あの二人は夢の中までやってきてあの頃と同じように誠を責め続ける。どんなに立ち向かおうとしても、夢の中の誠はいつも身体が思うように動かせずに、捕らわれてしまう。
幸せになりたい本音と、その一歩を踏み出せない自分がいつも葛藤して、また自分の心が見えなくなってしまう。これまでずっとそんなことを繰り返してきた。
——歓迎するから——
港一がかけてくれあ言葉と温かい微笑みが誠の心の中に一筋の光をもたらした。
伝えたいことを伝えられたらそれだけで良いと、洋人のことだけ考えてやってきたはずなのに、港一の言葉は誠にとって、全く想像もしなかったサプライズプレゼントのようなものだった。
「歓迎する」なんて、そんな言葉を口に出来るのは自分の生い立ちを知らないからだ。そんな風に斜に構えてまだ素直になり切れない自分がいる。
しかし、自分でも気づかないうちに、優しい言葉を掛けてくれる人が居る世界まで歩いてきのだと気づいたら、その長かった道のりを思い出して視界に温かい物が滲んだ。
涙を流したことなど何年ぶりだろう。
人が涙を流すのは悲しみだけではない。そんなことを知らずに育ってきた誠には、自分が泣いている理由を捉えることはできなかった。
ただ、目を閉じると、これまで誠を支えてくれたいろいろな人間の顔が浮かんだ。
施設で一緒に育った子供たち。園長や寮母、高校時代の友達、そして山﨑や定森のことも。自分の生まれた環境を呪い、酷い親だと恨み言を口にするのはある意味簡単な生き方だ。何か上手く行かないことがあれば全てを親に責任転嫁し、現実から逃げ出すことも出来てしまう。
そうしなかったのは、単に弟のためだった。残された兄弟を育てる人間が自分以外にいなかった。ただそれだけのことなのだ。
誠は洋人と付き合うようになってから「お前は変わった」と言われることが何度もあったが、それを知る方法はなかった。
外見の変化であれば鏡に自分の姿を映せば良い。しかし、心の変化を映す鏡はこの世には存在しない。互いが持つ特殊な経歴故に、洋人には最初から明け透けに何でも話をしてきたとは思っていたが、そうすることで誠はいつも勝手にどこかに消えてしまう心の在り処を見つけることが出来ていたのかもしれない。
そのことに今ようやく気付くことができた。
まるで小学校の運動会で一等賞を取った子供のような、晴れ晴れとした気分だった。
誠は流れてくる涙を隠すように両手で顔を覆った。
色々なことが頭を巡る中で、誠が最後に思い出したのは「おかえりなさい」と笑いかける洋人の顔だった。
あの温かい腕の中に飛び込んで、誰よりも真っ先に今日の出来事を話をしたい。
灯がともる家ではなく特定の場所でもなく、そんな風に何気ない話をしたいと思える相手が今自分の中に存在している。
それこそが誠が今まで求めてきた『帰るべき場所』だった。
ようやく気持ちが落ち着いて、誠は顔を上げることができた。
「やば……もう、こんな時間」
グシグシとブルゾンの袖で涙を拭って時計を確認した誠は、鼻水を啜ってサイドブレーキを踏み込んだ。
ギアを入れ直す腕の震えはもう止まっていた。
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