第8話 1月某日 東嶋の策略

 人生は取捨選択の連続だ。とはよく聞く話だが、その決断をいかに早く的確に下せるかによって人生の質は決まる。初動が早ければ早いほど、それだけ人は理想に近づけるものだ。


 東嶋幹雄は昔から目的意識がはっきりした子供だった。それ故に目的の物を手に入れる為の戦略を立てるのが上手かったし、優先順位もはっきりしていた。

 家族でレストランに行ってもメニュー選びに悩むことはなかったし、中学、高校で部活動を選ぶ時もそうだった。

 好き嫌いが明確な上に、それらの中にも序列が出来上がっていて、何かを選ぶ時に悩んだこともなければ、あれやこれやと目移りすることもなかった。

 もちろん、全部が全部思い通りにいくわけでもない。しかし、どこがどう好きだ、という理由もはっきりしていたため、何が足りないのか、それを別のもので補うことが出来るのか出来ないのか、出来ないのであればどうすれば良いのかという計算が彼の頭の中では即座に働いたのである。

 そんなこんなで、満足の度合いに差はあれ、東嶋は概ね自分が望んだとおりの結果を手にすることができていた。我儘を言うことが殆どなかったため、両親は逆に心配していたが、その理由を東嶋が口にすると二人とも大層驚いて『この子は違う』ということを認識したようだった。


 そんな若き日の東嶋にも、人並みに悩みはあった。それは自身の性的指向に関するものだった。

 東嶋は小学校低学年で周りの子供たちと自分の違いを意識し始め、学校で性教育を受ける頃には既に自分が同性愛者であることを自覚していた。しかも、東嶋の目に留まるのは自分より年下の、大人しそうな子供ばかりだ。小学校四年生の終わり頃に精通を迎え、男の性の何たるかをその身を持って体感し、友人と一緒に行った市民プールで知らず知らずのうちに同性の下級生を目で追っていたことに気付いた時には『さすがにこのままではマズイ』と危機感を覚えた。

 性欲に支配された東嶋の妄想は留まることを知らず、毎日のように沸き起こる衝動を自己処理する時のネタは自分より非力な存在をベッドに沈めてイタズラするシーンばかりだ。初心な心と身体をこの手で自分色に染める光景を思い浮かべると身体はこれ以上ない程に高揚した。

 とは言え、未成年のうちにそんなことをしてしまえば、即犯罪者。今まで築き上げた信頼が一気に崩壊することは間違いなかった。この思いは誰にも知られるわけにはいかないと、凶暴な支配欲を宥め透かしながら、薄氷を踏む思いで過ごす毎日だった。

 東嶋は自身の性癖を隠したまま時の経過を待つことにした。

 自分が年齢を重ねれば必然的にその対象の幅も広がる。三十歳……否、四十歳になる頃には好みの相手もみつかるだろう。そう考えたのだ。


 成績は常に上位、スポーツも万能で、小、中、高校では生徒会の何等かの役に就いていた。まさに文武両道を絵に描いた息子の姿を、謙遜しながらも両親は鼻高々だったことを東嶋は知っていた。そんな自分に『年下の同性を犯したい』という凶悪で度し難い感情があることなど絶対に知られるわけにはいかなかった。

 同性愛者であることも絶対にバレてはいけないという強迫観念のようなものがあったので、友人にはボーイッシュで胸の小さな子が好みだ、と答えるようにしていたし、親に隠れて購入したエロ本さえも自身の指向とは違うノーマルな物であった。


 大学進学も、就職活動も大きな問題はなく、就職した通信会社でも東嶋は期待された以上の業績を次々に上げていった。営業の寵児と呼ばれ、異例の速さで昇進し、まさに順風満帆の生活を送っていたが、ただ一点、逃れることのできない洗礼のようなつもりで甘受した結婚生活だけはどうしても苦痛だった。結婚など世間体と親を安心させるための免罪符に過ぎない。

 破綻することを前提に始めた結婚生活で二人の子供を授かったが、東嶋は多忙を理由に家を空け、妻とは最低限の行為しか持たなかった。その一方で知人が経営するゲイバーに赴き憂さを晴らす日々を続けた。丁度、東嶋と似たような境遇の男に出会い、離婚する気はないという話だったので合意の上で性欲処理を行っていたのだ。

 出来ることなら妻から離婚を切り出してほしい。東嶋はそう思っていた。自分の方から離婚を切り出せば「何かあったのではないか」と妙な憶測を呼びかねないし、妻を見放した冷たい男というマイナスの印象を持たれるのも不本意だった。

 そんな願いが天に通じたのか、妻の不満が積もり積もったある日、東嶋はとうとう離婚を切り出された。

 晴れて自由の身となった東嶋に、更なる幸運が訪れる。


 ある日、第三営業部の部長と行動を共にしていた東嶋は顧客対応の帰り、ある店舗を訪れ、一人の新人に出会った。滅多に人を褒めない、クセのある第三営業部の部長がべた褒めするその社員の名は満島洋人。東嶋より一周り以上も年下の新卒社員だった。

 滑らかな肌に、はんなりとした色気の漂う細い頸。綺麗な敬語で応対し、他の新卒者がヘトヘトになる中、彼だけは背筋をシャンと伸ばし、絶えず笑顔を浮かべている。突如現れた上役の姿に方々から挨拶の声が飛び交う中、落ち着きのある彼の声だけは東嶋の耳によく届いた。

 洋人のことを観察していると、確かに彼だけが別格の動きをしていることがわかった。自分の仕事をする一方、満島洋人は周りの人間や来店する客、表のポスターを見ている客を常に観察していた。手続きの間、子供がはしゃいで困っている親がいればタブレットを持って子供の元に行き、待ち時間が長くなりそうな時にはすぐさま時間の目安を伝える。当たり前のことではあるが、ベテランや中堅の中でもその当たり前ができない人間がわんさかいる。

 そして、同士の勘とでもいうべきか、何度か言葉を交わしたり一緒に酒を飲みながら、細々とした所作や同僚たちへの柔らかな物腰の態度を見ているうちに、この子はの人間だということを確信した。

 これこそ天啓だ。と東嶋は思った。

 東嶋は管理者権限を行使して、洋人の履歴書を確認した。

 そして、洋人が高校時代に通信制の高校に転校していていたことを知った。


『事故に遭ったらしいですよ』

『結構大きな事故だったんじゃないですかね……ここの所に傷があって……』


 東嶋の疑問に答えてくれたのは、洋人の同期の男だった。自分の肋の辺りに手をやりながら説明した男の言葉に、東嶋はたまらないほどの興味を覚えた。

 あの柔肌に残る傷とはどんなものだろう。

 自分の目で直接確かめてみたい。 

 決して口には出せない欲望がむくむくと湧いてきた。

 東嶋はその当時、営業部の統括副部長として他の役職者たちと各部署のマネジメントを行っていた。洋人に期待していると周囲には伝えていたが、管理職ともなるとあからさまな贔屓もできないため、外回りの時に差し入れを持って店舗に立ち寄り、その際に洋人にちょっとしたアドバイスをするのが関の山だった。洋人はただでさえ目立っていて、彼を妬む中堅社員は山ほどいた。そんな状況で東嶋が肩入れしているなどという噂が立ってしまったら、洋人の経歴に傷が付いてしまう可能性があったのだ。

 洋人をコールセンターに異動させたのも東嶋の意見があってのことだった。人事を考える際、洋人を育てるという意見は満場一致で承認を得たものの、中堅社員とのバランスがネックになった。本当なら、役に立たない主任連中など蹴落として洋人がそこに座るべきだが、残念なことに一度昇格させた人間は余程のコンプライアンス違反でもしない限り降格の対象にはならない。皆で話し合いをした結果、一度コールセンターに異動させて営業部のガス抜きをしようという結論に達した。

 第一線から退いたバックヤードの仕事で、洋人が不貞腐れてしまうのではないかと皆心配していたが、仕事に上位も下位もないからと、非常に前向きにこの人事を受け止めたという話を当時の上長から聞いて、東嶋は、すぐさま駆け付けて抱きしめたいと思うほど洋人のことを愛しく思った。

 コールグループへの異動。それは、東嶋自身にとってもチャンスだった。いよいよ洋人に対し本格的にアプローチできる。虎視眈々とその瞬間を待っていた東嶋だったが、そのタイミングで、自身も営業部統括部長に昇格することが決まり、にわかに周囲もバタつき始めた。会議の回数も、出張も各段に増え、これと言った手を打てぬまま、時間だけが経過していったある日、東嶋は信じられない噂を耳にした。


 ——満島洋人と星野誠が付き合っている——


 星野誠と言えば、保守の中で……否、社内ではその顔を知らない人間はいないと評される程の有名人だ。ネットワークセンターの奥底に潜んだまま一向に出てくる様子がないので、企業パンフレットに掲載された誠の写真を都市伝説だと思っている新人もいたぐらいなのに、顔を出した途端この騒ぎだ。


 そんな馬鹿な!?

 洋人を先に見つけたのは自分の方なのに!


 東嶋は独自の情報ルートを使って事の真相を調べた。コールセンターの噂など大半が話題作りのためのガセ情報だ。しかし、どうやら本当らしいという話を耳にした時、東嶋は前代未聞の敗北感を味わった。

 星野誠が憎くてたまらない。

 誠の生い立ちは人伝に東嶋の耳にも入っていた。大方同情心を誘って優しい洋人の心に付け込んだのだろう。

 そして、クリスマスアドベントで、ぞんざいに扱われている洋人の姿見て自分の考えが正しかったことを確信した。洋人を説得しようと、勇み足で唇まで奪ったにも関わらず、どういったわけかその後、二人が別れたという話は一向に聞こえてこなかった。

 洋人は間違いなくあの時揺らいでいた。

 所詮、その程度の付き合いなのだ。


 ——だったら物理的に離してしまえばいい——


 それが東嶋の結論だった。

 営業部のガス抜きももう十分だ。洋人は第一営業部に異動させる。そう思ったが本店の人員が足りないということで、東嶋は不承不承それを飲み込んだ。いずれにしても洋人が本店勤務になることに違いはない。二人を引き離す手立ては整った。

 ……しかし、それだけでは腹の虫が収まらない。鬱積した星野誠への恨みつらみはちょっとやそっとでは消えそうになかった。


「お疲れ様です」


 毎月定例の部次長会議。エレベーターに向かう廊下で鉢合わせしたのは、ネットワークセンターのセンター長、西島薫だった。


「会議もなかなか疲れますね」


「そうですね」


 営業部のオファーを断る保守グループの最高位。

 そこに君臨する西島には言いたいことは山ほどあった。何よりもあの不良社員の躾だ。新卒社員でもないのに、ブーブー会社に文句を垂れて、あまつさえ営業部期待の星に手を出すなど言語道断。


「……西島さん、お疲れのようですね」


「人事ですよ、人事。……ほら、新しい局舎が出来るでしょう? そのメンバーがどうにもこうにも……」


 西島は面積が広くなりつつある額に手を当てて、大きなため息を吐いた。


「ああ、それは大変ですね。……しかし、本当に。この時期は頭が痛いですね。あっちもこっちも人が足りない、あいつとは仕事したくないって……」


「どこも同じですね。……東嶋さんも、こんな時にあんまり変な案件持ち込まないでくださいよ」


 冗談めかして、営業の無茶振りに釘を刺す西島に、東嶋は破顔した。


「処理に困る案件をだけで、変な案件持ち込んでるつもりはないんですけどね……」


 専門的な話になると、営業だけではどうしても対応出来ないことがある。そんな時に頼るのはやはり保守の人間というだけだ。東嶋も責任分界点についてはもちろん承知しているが、競合他社を出し抜こうと思ったら、それなりのリスクは覚悟しなければならない。別に保守に責任を擦りつけるわけでもないのだから、そちらこそ素直に営業に協力しろ、という話である。事実、保守が協力してくれたお陰で、大口の法人契約を獲得出来たこともあったのだ。あれが切っ掛けで、東嶋の評価は上がったし、洋人は社長賞を獲得することになった。

 ふと頭に浮かんだ当時の顧客対応の映像に、東嶋が忌み嫌う男の姿があった。不愉快極まりないクールビューティーの姿に東嶋は思わず顔を顰めそうになったが、その時、虫の知らせのようにある考えが浮かんだ。


 そうだ。西島なら……


 エレベーターホールで足を止めた東嶋の頭に、ある名案が浮かんだ。


「いつもご迷惑をお掛けしてすみませんね。お陰で営業は今期も目標を達成出来そうです。西島さんにはいつも感謝していますよ」


 ——西島なら星野誠の人事権を持っている。

 東嶋は心の中でほくそ笑んだ。人の心を操るのは、東嶋にとってはルーターの設定をするよりも容易いことだ。


「何ですか、突然。東嶋さんにそんなこと言われたら、逆に不安になりますよ」


「いえいえ。本当に。十月にも一件あったんですよ。法人の代表者から電話があって、自宅のネットが繋がらないって……。その時テクサポが対応してくれみたいなんですよね」


「へぇ、そんな事があったんですか……」


「担当が駆け付けて頭下げればいいのに、本当に情けない……。随分難しい案件だったみたいですけど、星野が解決してくれたって……」


 さりげなく恋敵を褒めてはみるが、営業が星野誠を嫌っているというスタンスは取らないといけない。


「星野も出し惜しみしてないで、いつもこうだったら本当に助かるんですけど……」


「ははは。あの子は、特にスキルが高いから、一回例外を作るとどんどん依頼が来るって分かっているんですよ。実際、センターでも『分からないことは星野に聞け』っていうぐらい、いろいろ相談受けてましたからね」


 へー、そうですか。

 星野誠の評価など東嶋にとっては面白くとも何ともない。ネットワークセンター内がどうであれ、東嶋にとっては問題児であり、目の上のたんこぶであり、洋人を手籠めにした憎き恋敵だ。これから先も決して交わることのない別部署の課員だと分かっていても、自分が行使できるありとあらゆる手段を使ってでも排除したい相手に変わりはない。


「……そう言えば、あいつの弟って、もう高校生ぐらいになるんですかね?」


 誠の身辺情報など知り尽くしている東嶋であったが、わざと知らないフリをして西島に尋ねてみる。


「いいえ。コールセンターに異動になる時に高校の進路相談がどうとか言ってたから……。あぁ……もう二十歳になるのか……」


「へぇ! そんなに大きくなったんですか? てっきりウチの子たちと同じぐらいだと思っていました」


 東嶋は今しがたその情報を知ったというように、少しだけ大げさに驚いてみる。

 誠の弟は、選挙権どころか酒も煙草も飲める立派な大人だ。もう保護者がいなくとも立派に独り立ちできる。

 要するに、スポットを当ててやればいいのだ。西島が頭に思い浮かべた面子の中からたった一人、蛍光ペンでラインを引くように。

 自分が直接手を下すわけではない。東嶋は西島が失念していた手駒の存在を教えてあげているだけだ。


「星野が入社した時は、随分苦労されたって聞きましたけど……」


「まぁ……彼もいろいろ複雑な事情がありましたからね……」


 西島はそう言って腕組みをした後、「そうか……星野もいるか……」と独り言のように呟いた。

 それとなく隣の様子を伺い、西島がこの誘導にまんまと嵌っていることを確認した東嶋はひっそりと心の中でほくそ笑んだ。


 あんな男、消えてしまえばいい。

 神だか何だか知らないが、あんな無責任な男に洋人を渡すわけにはいかない。洋人を最初に見つけたのは自分なのだ。これ以上誠の好き勝手にさせるわけにはいかない。

 今は同じ職場にいるから洋人も錯覚しているかもしれないが、距離が離れてしまえば夢から覚めて、自分がいかに愚かで浅はかだったか知ることだろう。

 洋人の身体に残る記憶も、傷も、その心の隅々まで全て自分が上書きする。

 従順で素直で、東嶋だけの洋人を作り上げるのだ。


 幼い頃からずっと抱き続けてきた夢の実現はもう間近に迫っている。

 東嶋は誰にも悟られないように、その光景を思い浮かべながら口元に細い笑みを浮かべた。

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