第7話 12月某日 黒いサンタが持って行かなかった物
電気が消えた部屋の中、落とした視線の先には誠の靴がある。側面に緑色の三本線が描かれた白いスニーカー。その光景は朝見た時と変わってはいない。
狭い三和土に並ぶのは、この家の住人の靴だけである。
夕方、専門学校からバイト先へ向かう途中、兄から「クリスマスアドベントに行ってくる」という連絡を受けた実は、いつものように敗北感に打ちひしがれながらバイト仲間に愚痴をこぼし、慰めてもらって帰って来た。どうせ誠はいないのだから、と友人の家でゲームで遊び、日付が変わる頃に戻ってきたが、兄の方が先に帰っているとは、よもやの事態だった。
誠があの男と出かけた場合、必ずと言っていいほど外泊がセットになる。それなのに、玄関には誠の薄汚れたスニーカーがあり、あの男の靴はなかった。室内に足を踏み入るまでもなく、丸見えのキッチンにある流し台には、街中のチラシで見かけたクリスマスアドベントの限定カップが二つ転がっていた。
間違いない。誠は今日もあの男と一緒にいた。
それなのに……。
実はキッチンへと移動し、コバンザメのように吊り棚にくっつく電灯の紐を引っ張った。白い陶器の表面には鮮やかな赤紫の染みが残っている。湾曲したカップの内側に幾重にも線を描くそれは、すっかり乾いていて、今しがた放置されたものではないことが解った。
何かあったのだ。
実はすぐにピンときた。
しかし、長年誠と一緒に生活をしてきた実にしてみれば、これは通過儀礼のようなものだった。あの悪魔もとうとう誠の適当さに堪忍袋の緒が切れただろう。
清々した。これでやっと元の生活に戻れる。
****************
満島洋人は実の人生史上最も凶悪で、質の悪い強敵だった。
誠の布団に百均で買ったピアスを忍ばせてみたり、洗面台に置かれた歯磨きセットを捨ててみたり、相手が風呂に入っていることを知りながら、タイミングを見計らって鍵の掛からない脱衣所の扉を開けてみたり、そういうことだ。
女性であろうと男性であろうと、脱衣所への乱入は常に一定の効果を生み出していた。中には泣きながら家を飛び出し、一発KOなんてこともあったぐらいだ。
誠には「いい加減にしろ」とか「邪魔すんな」とか、それなりに叱られていたが、そこからの信頼回復、関係修復となると本人も面倒臭くなるのか、溝を埋めることが出来ず早々に終焉を迎えてしまう。
そして、洋人に対しても例外なく、実は同じ方法を試した。
『何ですか?』
扉を開けた瞬間、洋人は驚いたように目を瞠り、すぐに服で自分の身体を隠した。そこまでは一ミリの狂いもなく、実が想定した通りの展開だったのだ——が、しかし。
——ナニ、アレ?——
混乱の中、瞼に残った残像をもう一度目を閉じて確認する。
洋人のあばらに残る大きな傷。
誠が付けた無数の痕跡より、そちらの方に驚いた。女性の裸よりも何よりも、とにかく見てはいけない物を見てしまった、とその時実は激しく後悔した。
大病を患ったか、事故にでも遭ったのか。淡い光を反射する肌理の細かい肌に似つかわしくない傷だった。
実が宿敵相手に謝罪したのは、後にも先にもその一回だけだ。当時の後ろめたさが残っていたのか、実はこの二年間、満島洋人を追い払うことが出来ないまま燻り続けていた。
スルスルと姿を現し、当たり前のように誠の隣を独占した満島洋人は、あっという間にこの家に溶け込んだ。『実が嫌がらせをする』『洋人が無視する』という新たな法則が星野家の中に生まれ、実がワーワーやっていると、誠が出てきて雷を落とす、なんてことが日常茶飯と呼ばれる当たり前の生活になった。それまで『兄』『弟』という一対一の力関係しか存在しなかったこの家に『邪魔者』という新たなベクトルが誕生し、それが兄弟の話題にも上る……それどころか、友人との会話の中にも満島洋人は登場するようになったのだ。
誠の過去の恋人の中には、実の顔を見るだけで表情を曇らせる人間もいた。二度とこの家を訪れなかった者もいた。しかし、満島洋人はそうではなかった。洋人は実がいると知りながらこの家を訪れる。嫌がらせされることなど承知の上で、端から無視する気満々でやってくるクセに、夕飯も、デザートも、飲み物も、実が居る時はきっちり三人分持参するのだ。
満島洋人とは、つまりそういう人間だった。
洋人の本気の嫌悪感を見たのは脱衣所のあの一回こっきりで、丁々発止でやり合いながらも
流しのカップを放置したまま、実は風呂の準備を始めた。
氷室のようにひんやりとした浴槽を洗い、熱いお湯を入れる。扉一枚隔てて兄がいるはずなのに、そこに生命の気配を全く感じないほど、この家はどこもかしこもシンと静まり返っている。
湯が溜まるまでの間友人たちのSNSを確認し、賑やかなスマホの画面を見ていると、余計に寂しくなって実の心から温もりが消えてしまいそうだった。風呂が溜まる頃合いを見計らって、
ダイニングから続く実の部屋は、内側から施錠できる六畳の洋室で、誠の部屋のように家事の動線にもなっていなかった。一間分の収納があり、本当は誠がそちらの部屋を使いたがっていたのだが、実があまりにも片付けをしないので片付けの手間を省く代償として誠が部屋を諦めてくれたのだ。誠の頭の中では『弟の部屋』から『ゴミ箱』へと名称変更されているであろう散らかり放題の部屋の中には、壁にピタリとくっ付けるように黒いローテーブルが配置されていた。
実が就職してこの家を出て行ってしまったら、一体誰が誠のことを支えるのだろう。精神科医、ケースワーカー、或いは施設の関係者や、ママ友。色々な時代の色々な人間が思い浮かぶのに、誰もが少しずつ何かが足りないような気がして、実の不安が晴れることはなかった。空のペットボトルやお菓子の袋が放置されたテーブルを見ていると、余計に不安が増すような気がして、実はポツポツと片付け始めた。床にあったコンビニのレジ袋にゴミをまとめ、ウエットティッシュで埃を拭くと、壁に立て掛けられるようにして置いてあったポートレート用の青い表紙のアルバムが現れた。
お見合い写真を納めたかのような厳かな装丁のアルバムは、見開きの左側に『海洋散骨証明書』が、そして、右側のには当時の光景を収めた写真が三枚貼られている。
白い布が張られたテーブルの上に、沢山の花に囲まれるように置かれた白い包み紙。赤や黄色の花びらと共に、青い海に散布された白い粉の写真。それが海の色に溶けて消えていく光景……これが遺影さえ持たない実が知る、唯一の母の姿である。
母の遺骨を保管していたのは誠だ。施設に居る時もずっと誠の部屋にあった。墓がないのでそうするより他に方法がなかった。一見異様な骨壺の存在も、いつしか二人の間では景色に同化した置物のようになっていた。古いタンスの上にある、いつ誰が買ったか分からないフランス人形のように、理由は分からないけど何となく存在するもの……そんな感覚だ。
ところが、母の遺骨はある日突然姿を消した。二十歳になった誠が就職して施設を出て、秋に実を引き取った時、「墓がないから、専門の業者に頼んだ」という説明と共にこのアルバムを受け取ったのだ。
実は「そっか」と思っただけで、他には特に何も思わなかった。子供の自分に母の遺骨について意見する権利はないと思っていたし、そもそも実には母の記憶がない。こういうことは全て誠が処理するものだと思っていたから自分の承諾も得ずに母の遺骨を処分した誠を恨む気持ちにはならなかった。
ただ一つ気になったことがある。
『……誠は?』
母の存在を証明してくれる、唯一の手がかりを自分が持っていていいのか?
それだけが気掛かりだったのに、誠は何の感情も映さず、一瞬の迷いさえもなく『俺はいいよ。お前が待ってろ』と、ファイルを渡した。
誠と実はこの世でたった二人の家族だ。二人の親は、もうこの世にはいない。祖父母の家はもちろん、親戚がいるのかどうかも分からない。そんな家庭だ。
成長するにつれ自分の身に何が起こったのかを知り、命を助けてくれたのが兄だということを理解した。とは言っても知り得たことは、新聞記事に乗っていた内容程度だ。自分の母が当時付き合っていた男に殴り殺された。そこにいた誠が通報し、警察がやってくると男は車で逃走して事故を起こした。自損事故だった。一般道を飛ばしてカーブを曲がり切れず、男の車は高速道路の橋脚にぶつかり大破した。
意識不明の重体と記事に書かれていた加害者のその後は分からない。誠は恐らく知っているのだろうが、
自分自身に起こったことなのに、
だから、なのか誠は今でも時々調子を崩すことがある。
ここ最近はそんな姿も見なくなったと思っていたのに……。
「誠ー、風呂上がったよ」
断熱材という文明の進化を忘れてしまったようなボロアパートの風呂で、それでも風邪を引かない程度にしっかりと身体を温めて上がった実だったが、誠の部屋は冷たく、相変わらず黙りを決め込んでいる。
「誠ー」
もう一度、兄の名を呼び、扉をトントンとノックすると、放っておけという意思表示か、扉に枕が投げつけられた。
良かった。一応、息はしている。
そうは思ってみても、肝心な所で全く頼りにされない無力感と歯痒さに、実の中の苛立ちはますます大きくなっていった。
誠の恋人など、本当に皆馬鹿ばかりだ。
外見だけに惹かれて、どうせ見捨てて去って行くなら興味本位で近づかなければいいのに。
満島洋人の笑顔を思い出すと無性に腹が立って仕方がなかった。
事件の記憶がどれほど重く、辛いことなのか当事者であっても記憶のない実には理解することができない。誠が何を恐れ、何から逃げようとしているのか、どうすればその苦しみから解放してあげられるのかが、全く方法が見つからないのだ。
でも、それができた男がいた。
この二年間、あんなどうしようもないバカな兄を支え、赦し、寄り添ってくれた人物が、たった一人だけ存在したのだ。
あいつならもしかして……そう思っていたのに。
期待外れもいいところだ。
「クソがっ……!」
実は口汚なく吐き捨てて、キッチンへと向かった。
黄色のスポンジを鷲掴みにして、空になりかけたボトルを傾け、ズビズビ言わせて洗剤を染み込ませる。水を流しながら乾き切ったワインのシミをゴシゴシ洗い流す。跳ねた水でパジャマの前が濡れ、冷たい水に手が悴んで痛くなるのも構わずに、実は二つのカップを洗い続けた。スポンジからむくむと湧いてくる泡のように、実の心に浮かび上がるのは理由の分からない、引き裂かれるような鋭い痛みだ。
馬鹿じゃないのか⁉︎
振られたのなら、惨めったらしくこんなカップ持って帰るな!
誠は馬鹿だ! 大馬鹿者だ! 好きなら好きと言えばいいのに‼︎
振られて落ち込むぐらいなら、泣いて縋ってでも引き止めればいい!
そんな事だからいつまでも不幸面を晒す羽目になるのだ!
少しは幸せそうに笑ってみたらどうなんだ!?
あの男といつもそうしていたように。実を叱って、二人して馬鹿にして、いつも楽しそうに笑っていただろ!
「…………」
なんであの悪魔のために、自分がカップを洗っているのか。
敵に塩を送るような健全な精神など実は持ち合わせていないはずだった。思いつく限りの嫌がらせして嬉々としている。それがいつもの自分なのに、誠が調子を崩すからこんなことになるのだ。
実だってこんな物洗いたくないのだ。満島洋人のコップなんて尚更ゴメンだ。
こんな物は誠が洗って食器棚に収めるべきなのだ。そして、再びここを訪れた悪魔が『これは自分のものだから絶対に使うな』と釘を刺せば、実だっていつも通り悪態をついていられるのだ……!
何なんだよコレ!?
何故こんなにも悔しい思いをしないといけない?
どうして誠の代わりに、自分が涙を流さなければならない?
「手が痛ぇよ、バーカ!」
洗い終えたカップを食器カゴの中に伏せた実は、首にかけていたタオルを床に叩きつけると、薄らと滲んだ涙を拭って自分の部屋へと姿を消した。
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