第6話 11月某日 プレゼント

 腋の辺りをつつーっとなぞられて洋人は思わず悲鳴を上げた。

 肌にしっとりと馴染む、まろやかな湯がバシャンと音を立てて跳ね上がり、秋の空を移した水面に大きな波紋を描いた。


 山間の渓谷に開かれたこの場所は、市内から一時間という好立地にある温泉郷である。目ぼしい観光スポットは数えるほどしかなかったものの、今の時期には見事な紅葉を楽しめる日帰りのドライブコースとして人気を集める穴場スポットであった。

 ゴツゴツした岩の段差に腰掛け、半身浴を楽しみながら急峻な山の紅葉をぼんやりと眺めていた洋人は、背後から迫ってくる存在に全く気付かなかった。

 完全に不意打ちだった上に、平日の夕方から風呂に入っている客もおらず貸切状態だったこともあって、完全に油断していたのだ。洋人が背後を振り返るとケラケラ笑う誠の姿があった。


「もー何なんですか、突然」


「ボケッとしてたから、つい」


 花火のように水面に広がる同心円をもろともせず、誠は洋人の隣から風呂に入ると、形の良い引き締まった尻を惜しげもなく晒しながら段差のない奥へと進んでいった。露天風呂の淵にタオルを置き、襟足が濡れるのも構わずにそこに頭を乗せ、長い手足を伸ばしながら恍惚の表情で空を仰ぐ。


「少しは疲れが取れました?」


 洋人も湯を掻き分けるようにして誠の隣へと移動する。

 詳しい泉質は不明なれど、疲労回復に効果があるという源泉掛け流しのお湯は薄く濁って対流している。風呂の底に沈んだ二人の足も、輪郭がぼやけて水面の動きに合わせて揺れていた。全てのスイッチを切ってリラックスしている誠の姿を見て、洋人も温泉の湯気のように心がふんわりと温まった。

 

 先月末、二人はシフトを調整して同じ日に休みを取った。洋人は今日から二連休、誠は午後休からの公休で一日半の休暇だ。今日早番の誠は昼前には帰宅し、洋人がチャイムを押す頃にはすっかり旅支度を終えていた……と言っても、下着とシャツとスマホの充電器を入れただけの小さな手提げが一つだけ。保湿だ何だと準備に余念がない洋人とは大違いだった。

 今回に限ったことではないが、洋人は「お前は女子か?」と誠に突っ込まれることがよくあった。ミニマムな生活をしている誠からすれば、衣装持ちで洗面所にあれこれ並べている洋人の生活はそんな風に見えてしまうのだろう。

 しかし、洋人は冬場の乾燥がどうにも耐え難い。化粧男子というよりは体質的問題で冬場は保湿ローションが欠かせないのだ。風呂上りは特に、皮膚がパリパリして粉を吹いたみたいになってしまうし、そこに塗る保湿剤も、肌に合う物でないとそれ自体が刺激になって余計に酷いことになる。必然的に保湿はこれ、洗顔はこれと拘ることになるのだが、旅行の時はこんなに大きなものは荷物になるからと、小分けにするためのボトルを百均で購入していたら、そういう細かさが既に『女子』だと誠に指摘されてしまった。

 ウジウジと細かいことを気にする人間だとバカにされたような気がして、そんなことありません。と突っぱねてはみたものの、いざ旅行の準備を始めると、ズボンは同じものを履くにしても、上は着替えた方が良いだろうし、万が一会社から何か連絡が入った時のためにいつも持ち歩いている手帳は必須だし、車の中でゴミが出た場合のゴミ袋、ポケットティッシュ、その他諸々……と確かに荷物は嵩張った。いずれにせよ、車移動で特に不便を感じることもないからと、ボストンバックに詰めるだけ詰め込んで、行きがけに立ち寄ったスーパーで二人分の飲み物と留守番のみのるのために夕飯のお惣菜子持ちシシャモのフライを購入してアパートを訪ねたら、案の定、誠から「お前、何日泊まるつもりなの?」と突っ込まれた。

 

「俺よりお前の方だろ? また無理してぶっ倒れたりするなよ」


「流石にもう大丈夫ですよ」


 過労で倒れた先月のことをぶり返されて洋人は「その節はありがとうございました」と改めて礼を言う。

 洋人は営業という職種故か元来の愛想の良さ故か、アウトドア派だと思われがちだが、実はそうではない。同期に誘われれば断りはしないし、企画立案に携われば行き先は徹底的にリサーチする質ではあるが、本心を明かせば、休日は家でゴロゴロしていたいインドア派だ。一方の誠は、インドア派はインドア派でも、長年弟の世話をしてきただけあって兼業主婦そのものの生活スタイルであった。

 早く仕事を終えればそれだけ自分の時間が確保できる。そんな経験から出来上がった誠の家事哲学は、一にも二にも効率優先で、不測の事態が起こった時の見切りも非常に早かった。数あるタスクを時間内にどれだけ処理するかという考え方は、仕事にも通底する部分なので、公私に関わらず誠の計算力の高さは役に立っているのだろう。

 そんなこんなで、職場では誠より洋人の方がしっかり者だと思われている節があっても、プライベートでは立場が逆転するなんてこともしばしば起こる。

 事実、泊まりでデートをすると例外なく朝食の準備を終えた誠に「いい加減起きろ」と起こされるのが洋人の常になっていた。


「運転、俺でもよかったのに」


「何言ってるんですか。今日の主役誠さんでしょう。しかも早番だったじゃないですか。僕はたっぷり睡眠取りましたから」


 洋人も誠に倣って、風呂の淵に頭を乗せる。日が傾き始めた秋の空を優雅に旋回する鳶の姿が見えた。濡れた髪に秋の風は冷たかったが、大きな風呂を二人で占領する解放感はたまらないものがあった。


「で、夕飯の後はやっぱりバースデーケーキが出てきたりするの?」


「分かっていても、そういうことは言わないのが大人ですよ」


 今回は誠の誕生日プレゼントということで、プランの立案から宿の手配まで全て洋人が行った。『物より思い出』の旅ではあるが、やはり誕生日にケーキは外せないということで、洋人は宿を予約する際、受付の人間に別途料金が掛かっても構わないからケーキを準備してほしいと伝えた。

 洋人が膨れ面で隣を睨むと、先回りして推理小説の種明かしをした誠は空を見上げたまま声を出して笑った。ちゃぷんとお湯が跳ねた首筋にたっぷりと大人の色気を滲ませているのに、やることなすこと本当に子供染みている。

 しかし、そんな気安さがあるからこそ隣に並んでいられる、というもの事実だった。誠は洋人とは社歴が五年違う。誠がネットワークセンターに引きこもっていたにしろ、先輩であることに違いはなく、もし社会人としての資質やマナーも十分に備えた人間であったとしたら、洋人は畏れ多くて誠には近づけなかっただろうと思う。


「えー? どうすれば良かった?」


「だから、ケーキを見て驚くんですよ。『わざわざ俺のために用意してくれたの?』って」


「うん、それで?」


「僕が『そうですよ。お誕生日おめでとうございます』って言うので、誠さんは『ありがとう。本当に嬉しいよ』って……」


「——からの、クリームプレイ?」


「ちーがーいーまーす! どうしていつもそういう方向に持って行くんですか? 欲求不満なんですか?」


 つい二日前にもやったのに。

 洋人は誠にばしゃっとお湯をかける。

 反省した様子など全く見せず、誠はコロコロ笑いながら顔にかかった水滴を拭った。


「お前と一緒に風呂に入ってたら、エロい妄想しか浮かんでこないわ」


「あのね。ここ、公共の場なんですから変な事したら水かけますよ」


「んなことされたら、凍えて小っちゃくなっちゃうじゃん」


 洋人の警告に、誠は身体を捩らせて両手で股間を隠すフリをした。ちっちゃくなっても大きいクセに何を言っているんだ、と洋人は思ったが、誠が喜ぶだけなのでそれは口にはしなかった。


「大人しくしといてくださいよ。カピバラみたいに……」


「何でカピバラ?」


 洋人の言葉に、誠が破顔する。そんなに面白いことを言ったつもりはなかったのに、よほどツボに入ったのかまことは腹を抱えて笑っている。


「冬至になるとよくニュースが流れるでしょう? 柚子湯に入りました、みたいなの。もはや温泉はニホンザルだけのものではないんですよ」


「あんな人生悟った感出せる自信ないわー。あと五十年後ぐらい先の話かな」


 誠に釣られるように、洋人の顔にも笑みが零れた。


「五十年後じゃ、クリームプレイどころじゃないですね」


 それまで一緒にいられたら、それこそ、カピバラみたいに二人で温泉に浸かっているだけで幸せなんだろうけれど。


******************


 誠にネタバレしてしまったものの、夕食の後には大きな白い皿に、果物やなんかと一緒に盛られた小さなケーキが登場した。皿にはチョコレートで『happy birthday』の文字が綴られ、特筆すべき点のない定番イベントではあったが、甘党の誠はそれを喜んで平らげた。美味しい食事と一緒に二人でシャンパンを飲みその後の展開は……まぁ、敢えて説明するまでもない。


 ずるりと内側から誠が出て行くと洋人はくたりと力を抜いて布団にうつ伏せになり、気怠さに身を投じた。熱った身体を受け止めた冷たいシーツの感触が心地よい。乱れた呼吸を整えるように大きく息を吐いて隣を見ると、汚れた身体の始末をしている誠の姿があった。

 常夜灯だけが灯る薄暗い部屋。

 一体今が何時なのかも分からないぐらい没頭していた。

 

 この宿には内風呂と露天風呂があり、露天風呂は夜中でも開放されていたはずだが流石に温泉に行こうという気力は湧いてこなっかった。どのみち誠が付けた痕があちこちに残るこの身体を人前に晒すわけにはいかないので、部屋にあるユニットバスを使うしかないのだが、温泉に来た割に一日の終わりが水道水かと思うと、洋人は少しだけ損をしたような気分になった。

 次回は客室風呂のある温泉宿。事後も誠と二人で温泉に浸かりたい、などと取り留めもないことを考えていたら、再び身体をなぞられた。


「やめてくださいよ」


 洋人は思わず身を捩り、近くにあった布団を引っ張った。

 抗議する声も掠れてしまうぐらい心も身体もグダグダだ。

 風呂で触られたのと全く同じ、右側の腋の下の、真ん中よりやや背中に近い部分。そこには、上から下にまっすぐ伸びる十五センチほどの大きな傷がある。

 布団の中から睨むと、誠はクスクス笑いながら布団を捲って中に入ってきた。

 むくりむくりと頭の下に腕を差し込んだかと思うと、コアラのように横から洋人の身体に抱き着いてくる。裸の身体がピタリとくっつき誠が足を絡めてきたが、今しがた射精したばかりの身体はピクリとも反応しなかった。


「今でも痛んだりする? ここにも傷あるよな」


 そう言いながら、今度は鎖骨に沿うように伸びる白い痕に唇を寄せる。

 傷が目立たないように、と手術の時に医者が気を遣ってくれたのだ。洋人は同期と海や温泉に出掛けたことがあるが、傷のことを指摘されたのはたったの一回だけだった。温泉の脱衣所で服を脱いでいた時、隣に居合わせた同期が気付いたのだ。「昔事故に遭った」と適当に説明をしたら特に突っ込まれることもなく「ふーん。大変だったな」と話はそれで終わった。

 誠はどうかと言えば、マンションから飛び降りたことを事前に打ち明けていたので、事実をそのまま話した。しかし、その時は特に気にする素振りもなく……否、そうではなく、腕を固定されて、舌でぺろーんと舐められた。生温かい舌の感触と、腕を拘束されたまま執拗に攻められる倒錯的なプレイに洋人が音を上げると誠は心の底から喜んでいた。


「いいえ。今は。……気になります?」


「気になるって言うか、もったいないなって思っただけ。お前の肌、めちゃくちゃ綺麗じゃん」


 不意打ち且、直球な誉め言葉に洋人は、一瞬で耳まで赤くなった。

 今までの人生の中で、肌質を褒められたことがなかった上に、誠がにそんなことを考えていたなんて、想像もしなかった。

 

「やっぱ、日ごろのお手入れの賜物?」


 否、褒められたのではなく、バカにされたのか?


「乾燥するから仕方ないんですって。保湿しないとバリバリになっちゃいますからね。今日は温泉だから、いつもよりすべすべしてるかもしれませんけど」


 洋人が九十度身体を回転させると、間近に誠の顔があった。

 焦点を失うほどの近さなのに、何故か二人とも自然に唇を合わせることが出来てしまう。

 温かい温泉。温かい布団。誠の腕の中。

 これ以上に幸せなことはないと確信できる。


「や、そういうんじゃなくて……何かお前、最近、綺麗になってない?」


「はぁぁぁ?」


 やっぱり誉め言葉!? 洋人は赤くなったり戸惑ったり、理解不能な誠の言葉に振り回されるばかりだ。


「それは、しかり寝て、しっかり食事が摂れているからですよ」


 それに……。きっと、本当に好きな人が出来たからだ。

 それが例え片思いだったとしても、恋が人を輝かせることを洋人は知っている。

 誠が見ている洋人は以前の洋人ではない。

 人が人を愛する気持ちは生きる煌めきそのものだ。


「仕事の方も落ち着いてきたし……最近ちゃんとデートできるようになったでしょう?」


 だから……。

 と洋人が付け足すと、誠は洋人のこめかみに鼻を埋めるようにして、耳元で囁いた。


「気持ちイイことしたら綺麗になるって言うし?」


 クスクス笑いながら、そのまま耳を甘噛みする。


「ちょっと誠さん……!」


 今はまだそんな気分じゃありませんよ……。

 そうは思うものの、甘えたがりの洋人も誠の胸から離れることはない。


「温泉ってタトゥーはNGだけど、キスマークはOKなのかな?」


「知りませんよ、そんなこと……ちょっと、見えるところに残さないでくださいよ」


 項の辺りをきつく吸われた洋人が、慌てたように誠の背を叩く。


「大丈夫。虫、虫」


「もう秋ですよ! 人を刺すような虫いませんよ」


「そう言えば、お前実に何買ってきたの? あいつちゃんと食べたかな?」


「話逸らそうとしているでしょう?」


 そんなことじゃ誤魔化されませんからね。洋人は諫めるように誠を睨むが、当の本人はちっとも反省した様子はない。


「いやいやマジで」


「……誠さんのです」


 洋人の言葉に、誠の動きがやっと止まった。


「え? 餡子?」


「………………誠さん、餡子が好きだったんですか? 初耳です」


「うん」


 そう言えば、前にも饅頭を買ったことがあったような……。

 随分渋い好みだと思っていたのだが、どうやら本当にそうだったらしい。ひょっとして今日もケーキより紅白饅頭の方が良かったのか……?

 リサーチ不足を反省している洋人の首筋に誠が再び顔を埋めた。


「餡子とお前」


 俺の好物。

 そう言って、笑う悪戯な大人の体温を受け止めながら、洋人は頭の中のToDoリストに『来年の誕生日は紅白饅頭』のタスクを書き込むのであった。

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