第11話 3月末日 神、直談判す

 エレベーターを降りて左手の通路の先を見ると、そこにはお馴染みの会社のロゴが描かれたガラスの扉と白い電話台があった。

 誠の腰の高さ程の電話台の上には、一台のビジネスフォンと会社のマスコットキャラクターのぬいぐるみ、そして「恐れ入りますが御用の方は、内線電話にてお呼び出し下さい」というメッセージボードが備えられている。

 ぐるりと周囲を見回してもそれ以外の装飾はない。人の気配すらあるのかないのか分からない空間で、早くここに来て受話器を上げろという電話機からの無言の圧力さえ感じた。ホラー映画なら絶対に電話は取ってはいけない場面だが、誠はツカツカと歩いて行って、受話器を上げた。

 十四階建てのオフィスビルの八階。

 東嶋をぎゃふんと言わせた後、誠が向かったのはこの会社の本丸とも言うべき総務課だった。誠が名前を告げると程なくして扉が開き、担当者が姿を現した。


「星野さん……! 困りますよ」


 ぽっちゃり体型の総務課の担当者、蓮見は誠より二つ下の社員である。


「あの件でしたら、以前説明させていただいた通り……」


 姿を現すや否や誠の腕に縋りつくように、眉をハの字にして自分の窮状を訴えた。


「会社の規定じゃねーよ、今回の件について俺は聴きに来たの、わざわざ!」


 社歴は違えど年齢的には誠と同じ蓮見は、情報システム部出身の人間である。総務のDX化を推し進めるために数年前に異動になり、業務を遂行する中で何度か誠にも相談に乗って貰ったことがあった。

 押しに弱い本人の性格故か、その他の総務メンバーが雁首を揃えたように堅物なせいか、DX化の影であれこれと雑用を押し付けられている苦労人で、その印象が他課の社員にも浸透した結果、困ったことがあると真っ先に『蓮見に連絡してみれば?』と名前が挙がる、都合の良い……もとい、マルチタスクな社員へと変貌を遂げつつあった。


 洋人との結婚休暇を申請したものの『会社に規定がない』という理由で跳ねられた誠も、例に漏れず蓮見に抗議の連絡をした。蓮見はオドオドしながら歯切れの悪い回答を口にしていたので、だったらコンプライアンス窓口に通報すると、誠はその場で電話をガチャ切りし、方針を転換したのだが『貴重なご意見ありがとうございます』という自動返信メール以降なしの礫で「一体どうなっているんだ」と、結局蓮見に連絡をすることになった。

 総務の回答は一貫して社則の整備が出来てない。役員会議を通して今後の法整備に反映するというものだったが、「自分たちはどうなるんだ?」という誠の最大の疑問に関しては回答を得られないままだ。


「とにかく、会議室の方で……」


 目立ちすぎる誠の対応に困り果て、個室に誘導しようとした蓮見だったが、一瞬遅く、


「あーっ! 誠きゅんだあ!」


 事務所の奥の方から素っ頓狂な声がして、一人の女性が立ち上がった。

 クルックルの長い髪に、ブリッブリのフリルがついた水色のシャツ。その自己主張の強さに、誠は早くも戦意喪失してしまう。こちらまで来ずとも香水やら柔軟剤やらありとあらゆる甘い匂いをふんだんに纏っているであろうことが手に取るように想像できて、奧枝が肩にかかった髪を手で払う仕草を見ただけで誠のスッと通った高い鼻梁も曲がりそうである。

 若作りした奧枝美保子の声が事務所内に響き渡り、誠の来社に気付いた女性陣が一斉にこちらを振り返ると、化学変化を起こしたように騒ぎが拡大した。ザワザワとあちこちで会話が持ち上がり、奧枝美保子の圧にも負けず『いやーん、カッコいい』と目をハートにする者まで出て来る始末だ。

 このフロアの別室には社長室と呼ばれる部屋が存在する。出入口にはそのプレートが掲げられているが、実際は社長室のみならず、秘書が詰める事務所と応接室、そして副社長の執務室が一堂に会した、社内一敷居の高い場所だ。

 そんな重鎮たちのお膝元である八階で、このような騒ぎが巻き起こったことなど、今の今まで一度もなかっただけに、昔からこの会社で働いているお歴々たちは一様に眉を顰め、騒いでいる若者を落ち着かせようと躍起になっていた。


 誠と洋人の結婚の噂は既に社内全土に広がっていた。二人が説明をしたとか釈明をしたとか、金屏風の前で記者会見を開いたとか、そんなことはもちろん一切ない。しかし、燦然と輝く真新しい指輪は互いが互いの所有であることを何よりも如実に物語り、且つ、二人の幸せそうな顔を見ていれば一目瞭然という物だった。どこの誰が特定したのか、指輪のブランド名や商品名まで知れ渡り、二人はまるで芸能人になったかのような扱いだ。


「げっ……!」


 そんな事情を露ほども知らない誠は苛烈な反応と奥枝美保子の存在に思わず悲鳴を上げ、蓮見の背中に隠れたが、横幅は間に合っても背の高さは全く足りなかった。


「ねぇねぇねぇねぇ! 聞いてよ、酷いのよ。私の知らないところで誠きゅんが結婚指輪付けてるって噂が……」


 結果胸元のフリルを擦りつけるような仕草で突進してきた美保子に捕まり、案の定な香害に思考が停止しそうになった。パニックを起こした頭の中で、迫って来る奧枝の姿が、青い肉垂れをエプロンのように広げてメスに求愛行動をする鳥の姿に重なった。

 あの鳥、なんていう名前だっけ?


「ちょっと待って、奧枝さん」


 もう少しで名前を思い出せそうなのに。

 美保子が放つ匂いに思考を乱されながら、隠れる場所も避難するシェルターも見つからず、突進してきた女史にストップをかけるために誠が左手を出した時だった。


「薬指…………指輪……」


 鼻先に突き出された手を寄り目になりながら見つめた美保子は、そこにプラチナの輝きがあることを認め、機械のように呟いたかと思ったら、次の瞬間白目を剥いて気を失ってしまった。


「ああっ! 奧枝さんっっっっ⁉︎」


 その一部始終を見ていた社員たちが、慌てて駆け付ける。


「あ、そうだ、ベニジュケイだ!」


 鳥の名前を思い出した誠がポンと手を叩く。

 しかし、間髪入れず隣から「何、訳の分からないこと言ってるんですか?」と冷静な声がして、誠はガシっと腕を掴まれた。


「行きますよ! 今のうちです!」


 混乱に乗じた蓮見は、すぐさま誠を連れて事務所の奥にある打ち合わせスペースへと移動した。

 クルクルとカールした髪を広げるように倒れた美保子を見ても、残念ながら誠の心の中に倒れた女性を助けなきゃ、という知也子の時のような責任感や使命感は沸いてこなかった。


「全くあなたって人は……こうなることが予想出来なかったんですか? 電話でも説明できたのに……」


 他部署の人間からすると、本店八階は重鎮ばかりが席を連ねる『魔の巣窟』とも言われる場所で、セキュリティーが厳重なネットワークセンター以上にとっつきにくい場所である。騒ぎになることがわかっているのに誠が直談判しに来るなんて蓮見にしてみれば予想外の出来事だった。


「電話じゃどうせ同じことだろ。納得いくように説明しろっつってんの! 部長は? どこ?」


「部長なら今病院に行っています」


 蓮見はあらぬ方向を見て、低く唸った。


「つい、今しがた歯の詰め物が取れたそうで……」


「はぁぁぁあ⁉︎ 職務怠慢だろ!」


 夜勤の時に散々サボっていた社員とは思えないほどの勢いで誠が抗議する。洋人が隣に居ればすぐさま突っ込みを入れるところだが、今日はその常識人もコールセンターで仕事中である。


「二度とそんなことにならないように、今からペンチで引っこ抜いてやろうか?」


「一個人としては大いに賛成ですが、障害事件は困ります」


 蓮見ははぁ、と深いため息を吐いて誠を見た。


「お二人には気の毒だと思うんですけど、社則を変更するのも楽じゃないんですよ。現状と改正点についての説明、社労士チェックにリーガルチェック、役員会議の承認を得てようやくこちらに降りて来るんです」


 総務課のDX化を促進するために、情報システム部から異動した蓮見にとって柵だらけで遅々として進まない会社の対応は歯がゆいものがあるのだろう。その点については誠も大いに共感する部分だった。


「結婚休暇だけではなくて、忌引きや各種手当も、何を根拠にどこまで至急するのかって……。決算期のクソ忙しいこの時期に、ダイバーシティに対応できていないのかって、社長がトップダウンでいきなり業務を下ろしてきて……。部長はストレスで歯ぎしりすることが増えたんだそうですよ。……それで、詰め物が……」


「結果、そこに繋がるわけっ!?」


 色々おかしいだろ!

 壮大な多様性への取り組みを、部長の銀歯問題に矮小化するなんて言語道断だ。ただ、社長の方には問題意識があるということだけは誠も理解した。


「役員会の決済が下りれば、下期には必ず社則も改正されます。同性婚の規定は恐らくパートナーシップ制度への登録が根拠となるはずです。ですから、どうしても結婚休暇を取得したいと言うのであれば、そこまで待っていただいて……」


「ふざけるな」


 蓮見の提案に、誠はピシャリとNOを突きつけた。


「あのさ、俺、明日から県外勤務なわけ。お前らが俺らの申請蹴らなかったら、すんなりパートナーシップ制度の申請できてたんだよ! それをごちゃごちゃぐちゃぐちゃ言うから……」


「ええ。ですから、そのまま下期まで保留ということで……」


「ふざけんな!」


「だって、星野さん、こればっかりはどうしようもないんですって……できることなら僕だってお二人に結婚休暇を取らせてあげたいんです。でも承認するのは僕じゃない。お宅のグループ長であり、センター長です。いずれにしても決裁する前に、社則が必ず立ちはだかります」


 蓮見はそう言って頭を抱えた。鼻頭に浮いた脂汗が板挟みの苦労を物語るようにテカテカ光を反射する。


「じゃぁさ、そこをすっ飛ばして結婚休暇が取れる方法ないわけ?」


「うーん…………。まぁ、例えばですけど、専務にお伺いを立てて特例を認めてくれないか掛け合うとか……」


「だーかーら、最初からそれをやれっつってんの、俺は!」


「それはもっと無理ですよ! 星野さんが来ただけで詰め物が取れちゃうような人ですよ!? 専務に直談判なんで出来るわけがない!」


「そういうの無能って言うんだぞ!」


「お怒りは最もですけど、星野さん、八階には八階のやり方ってものがあるんです。一回例外認めちゃうと、それがルールになって、あれもこれもって芋蔓式に色々出てきちゃうじゃないですか」


「それを捌くのが総務だろ」


「嫌ですよ。せっかくDX化が進んで落ち着いてきたところなのに、これ以上仕事が増えるの……」


「お前もか⁉︎ ブルータス」


「微妙な倒置法使わないでください。僕は部長と違ってやる事やってますから!」


 蓮見は一つため息を吐いて誠を見た。


「とにかく、すぐすぐは無理です。下期まで待てないと言うのであれば、シフトの調整が効く範囲で公休と有給を組み合わせて最大限の休暇を取得してください」


 誠は恨めしげな視線を蓮見に送るが、蓮見もこれ以上は無理だ、と言わんばかりに誠から視線を逸らすことはなかった。


「あー、そう。じゃ。こっちも好きにさせてもらうわ」


 誠は荷物を持って立ち上がった。


「……何するつもりですか?」


「別に何もしねぇよ。調を取得すればいいんだろう?」


「や、待ってください! 何か変なこと考えてるでしょう?」


「大丈夫大丈夫」


「顔が悪どいんですよ! 絶対良からぬ事を考えてるはずです!」


 誠は戦々恐々としている蓮見の肩に手を置いた。


「蓮見、八階には八階のやり方があるように保守には保守のやりかたがあるんだよ」


 そう言いながら、元来た道を引き返す。


「星野さん……? ちょっと待ってくだ——いてっ!」


 テーブルの角でしこたま膝を打った蓮見が再び顔をあげた時には、誠の姿はそこにはなかった。代わりに、事務所の方できゃーという女性たちの黄色い声が耳に届いた。

 星野誠なら何をしでかしてもおかしくはない。


「星野さんっ……待ってください!」


 蓮見は膝の痛みも忘れて誠を追いかける。倒れた美保子の看護もきっと任されてしまうのだろう。

 今日もまた余計な業務に追われながら、蓮見は自分が手がけた業務効率化の効果を水泡に帰す問題社員たちに、心の中で舌打ちするのであった。

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