第−話 捨てる神あれば拾う神あり

 学校から連絡を受けた由美は、運転席に乗り込むや否やすぐさまエンジンをかけた。

 シートベルトを締める時間すらも無駄にしてはいけないような気がして、駐車場から車道に出る間に、左右を確認しながらシートベルトに手を掛けた。片手間にフックを押し込み走り去る車を見送る由美の脳裏に、今し方洋人の担任からもたらされた信じ難い会話の内容が浮かんできた。


『満島君が学校を飛び出して、行方が分からなくなってしまったんです……』


『大変申し上げにくいのですが……イジメに遭っていたと言っているクラスメイトもいまして……』


 定かな情報ではないとしながらも担任は焦った様子でそう伝え、家に帰って来るかもしれないから、確認してもらえないだろうかと由美に依頼してきた。

 電話を切った直後、由美はすぐに洋人のスマートフォンに発信してみたものの、電話は繋がらなかった。港一はクライアントとの面談で職場にいないということで、事務の担当者にも港一が戻ったらすぐに連絡してもらうよう伝言を残し、自身のスマホからもメッセージを送った。

 洋人がイジメに遭っていたなんて俄には信じられない話だった。明るく、社交的で友達も多い子だ。この数日もいつもと変わらない様子で生活していた。イジメられる要素など由美には全く心当たりがない。


 何故……? 一体なにが起こったのだろう?


 どんなに考えても答えは出てこない。

 由美は混乱しながらとにもかくにも家へと車を走らせた。

 ハンドルを握る由美の胸に去来するのは、亡き洋子に対する申し訳なさと、後妻である自分自身の不甲斐なさだった。


 港一に「一緒になってくれないだろうか」と言われた時、由美は一度はその申し出を断った。満島家の家族とは昔から仲が良かったが、それはあくまでも支援者という立場で、実際に彼らの母親になる自信などこれっぽっちもなかったからだ。その一方で、自分のような人間を必要とし、これから先の人生を共に歩もうと言ってくれる相手がいることが純粋に嬉しかった。

 由美は子供が産めない。

 看護学校にいた時にそれを知り、進路を決める上で助産師になろうと決意した。子を産めない現実を直視しながら妊婦や新生児に向き合う仕事は辛過ぎやしないかと由美の母は酷く心配していたが、そうであるからこそ、由美は生命誕生の場で手伝いが出来ればと考えた。

 二十歳かそこいらで残酷過ぎる運命を突きつけられた由美には『結婚は無理だ』という諦めが端からあった。子を産み育てることだけが全てではないと皆言うが、大抵の場合それはただの建前だった。そんな優しい言葉を掛けるのも、誰にでも優しい温かい未来を想像するのも、我が事ではないからである。大半の人間は結婚すれば子を儲けるという一連の流れを無意識のうちに心に描き、それに沿うような生活へとシフトしていく。例え本人たちがそれを望まなかったとしても、周りの人間がそれを願う。それが当たり前、それが幸せだという世間にはびこる同調圧力はどうしたって避けることはできないのだ。


 だから、由美は医療の現場で昼夜を問わず仕事にまい進出来る点は本当に良かったと思っていた。幸いにも、姉の身体には何の問題もなく既に二人の子供にも恵まれている。父や母も孫の顔を見ることが出来て安心していたし、由美が年老いた祖母の介護に協力的なことも心強いと思ってくれているようだった。車の運転が苦手な母の代わりに由美は車椅子でも乗り降りがしやすい、七人乗りのワンボックスカーを購入した。実家暮らしでお金を使うこともなかったので、車にはうんとお金をかけ、最後尾の座席を取り払って車いすの乗り降りができるスロープを取り付けてもらった。祖母は既に亡くなってしまったが、車の方は健在で、目立った故障もないからと由美は十年もの間この車に乗り続けていた。


 職場であろうとプライベートであろうと、事あるごとに子どもを産めないことに躓いてきた由美ではあるが、三十七を過ぎた辺りから少しずつ周りの人間の執着や自身の中の葛藤が薄れ、心理的な負荷が軽減したことに気付いた。世間的に見ても『結婚は? お子さんは?』という年齢から外れてくる年齢で、独身なんです、と返した時に『あ、もう一人で生きていくことを決めたのね』と勝手に納得されることが増え、ようやく由美自身も本当の意味で開き直ることが出来るようになったのだ。


 そんな由美に訪れた、まさかのプロポーズ。

 年齢は四十手前、そして一度に三人の子供の母になる。

 満島家の三人については、生まれる前のエコー写真からの付き合いだ。乳を上手に飲むことすらできなかった洋人もすっかり大きくなっている。思春期真っただ中の二人の中でも、同性ということもあったのか凪紗は特に難しく、港一の判断に難色を示していた。洋人はいつも通り、そして末っ子の千波は天性の天真爛漫ぶりを発揮し、由美が母親になるという話を聞いた時も真っ先に喜びの声を上げた。

 三者三様。由美がいなくてもしっかり者の洋人と凪紗の力で満島家はどうにかこうにか回っている。もちろん、人手があった方が良いのは明白だが、自分なんかのために満島家のパワーバランスが変化するのは不安だった。由美は悩み、考え続けた。洋人や凪紗はともかく、小学生の千波はまだ手が離せない。そして家長である港一にも相談相手が必要だった。

 悩んだ末に、由美は港一の申し出を受けた。最後の決め手となったのは『もし自分がいなくなったら、由美さんに頼むしかない』という、亡き洋子が残した一言だった。港一からそれを聞かされた時、由美は明るく妹のようだった洋子のことを思い出した。

 それが現実のものになるなんて洋子自身思ってはいなかっただろう。実際にそんな会話を交わした港一も洋子を失ったショックで、何年も心の奥底に封印していたぐらいだ。洋子が何を思ってそんなことを口にしたのかは分からない。誰よりも子供たちを残して旅立った洋子こそが悔しい思いをしているに違いない。由美はそう思う。

 最初は患者と助産師という立場で出会った洋子と由美だったが、不思議と馬が合い、その縁が切れることはなかった。

 もしも、自分がいなくなったら……なんて、他意のないタラればの話であったにせよ、洋子がそこまで自分のことを信頼してくれていたことが由美も嬉しかった。


 港一の妻になり共に歩んでいくことを決意した由美は、他人でいる間は知り得なかった満島家の現状を目の当たりにし、港一の努力に感嘆した。朝から想像しいことこの上ない。三人それぞれの学校から行事だ面談だと何かしらのイベントが発生し、スケジュールの都合上二日連続で休みを取らなければならない、なんてこともあった。

 毎日が嵐のように過ぎていく中で、由美はなかなか縮まらない凪紗との距離に不安を抱えていた。学校での出来事、不安なこと、女性ならではの悩み、何でもいいから話をしてほしいと願っても、自立心の芽生え始めた凪紗はおいそれと他人に心を開くことはない。洋子への思いが強いのか、由美を娶った港一に反感を強めているきらいもあり、頼る相手を父親から兄へとシフトしていることが解った。

 港一とともに洋人もこの家の精神的な支えになりつつあるのだ、ということを由美は感じていた。

 それ故に、洋人と円滑なコミュニケーションが取れていることに安堵していたのだ——ついさっき、洋人の担任から電話を受けるその瞬間までは。


 由美の安堵が全くの勘違いだったことを思い知らされた。

 洋人は全く心を開いていなかった。

 そして、由美自身も洋人の変化に気づいていなかった。


 何がだ。


 自分の馬鹿さ加減に涙が出てくる。

 そして、そんな由美の頭に過ぎるのは、いつだって、『やはり、自分は母親にはなれない』そんなネガティブな言葉ばかりだった。


 この十年間ですっかり開拓されたベッドタウンのメインストリートを左に折れ、高台の手前にある分譲マンションへと入って行く。

 マンションの敷地には平置きの駐車場が備わっていたが、総世帯に対応しているわけではない。由美が結婚した年に駐車場不足を解消すべく、機械式の駐車場が増設されたが、その区画も残すところあと僅かである。

 一階の駐輪場兼、屋根付きの駐車スペースを通り抜け、マンションの裏手に出ると、屋外の駐車スペースが見えてきた。由美がやって来た時、平置きの駐車場には一台だけ空きがあったのに、二台目だからという理由で組合は機械式の駐車場を利用するように言ってきた。その後、平置きの区画に現れたのは、バックドアに『Baby ㏌ Car』のシールが貼られたコンパクトカーだった。早い者順ではない配慮の結果。由美も説明されれば納得する。しかし、あの時に感じた寂しさは一体何だったのか。酷くメンタルが低下していた由美には、当の昔に終わったはずの些細な過去の出来事にすら疎外感を見出してしまう。


 どこに行っても何にもなれない。

 せっかく港一が、洋子が温かい言葉をかけてくれたのに……。

 そんな絶望感に涙が滲んだ。

 

 そして、ガランとした一階部分の駐車場を抜け、由美がブレーキを踏んだ瞬間だった。

 けたたましい衝突音と共に乗っていた車が大きく揺れた。


「きゃぁぁぁぁぁ‼︎」


 何が起こったのか、咄嗟に理解出来ず、由美は自分の頭を守るようにして悲鳴を上げた。

 危険な物でも踏んで、タイヤが爆発したのだろうか?

 最初に由美の頭に浮かんだのはそんな想像だった。或いは地震か、ガス爆発か……しかし、地面は揺れてないし、コンクリートの破片も散ってはいない。

 その代わりに「ドサッ」と鈍い音がして車の後方に何かが落ちる気配がした。


「…………!」


 恐る恐る顔を上げ、背後を振り返った由美は我が目を疑った。

 後部座席の屋根が大きくひしゃげて、リアガラスにも無数のヒビが入っている。あと一メートルずれていたら、由美も無傷ではいられなかっただろう。それぐらい酷い惨状だった。上階から何かが落ちてきて車にぶつかったのだ。パニックに陥った由美にも少しずつ状況が見えてきた。誤って誰かがプランターでも落としてしまったのだろうか? いずれにしてもただ事ではない。いろいろな可能性を考えながら、由美はゆっくりとドアを開いてその隙間から外の様子を伺った。


「うそ…………」


 そして、アスファルトの上に横たわる黒い塊を目にした途端、全身が震えるほどの衝撃を受けた。

 苦しそうなうめき声を上げ、地面に横たわるブレザーとチェックのズボンに見覚えがある。由美が毎日目にしている市内の進学校の制服だ。

 上階から落ちて来たプランターで怪我をしたのか? 咄嗟にそう思ったが、地面にはプランターの破片どころか、土の塊一つ見当たらない。

 そして、


 ——イジメに遭っていたと言っているクラスメイトもいまして——


 送話口から聞こえてきた担任の、申し訳なさそうな、焦ったような言葉が、たった今聞いた会話であるかのように頭の中で再生された。

 由美は最悪の事態を想像した。


「洋人くんっっっ‼」


 矢も楯もたまらず、車から飛び出し、地面に横たわる洋人の肩を叩く。

 

「洋人君! 洋人君!」


 名前を呼びながら、洋人の状態を確認する。

 かろうじて意識はある。しかし、呼吸が浅い。明らかな異常が見て取れた。苦しそうにうめき声を上げる人は言葉を発せられる状態ではなかった。

 由美は即座に運転席に飛び込み、助手席に放っておいた自分のバッグからスマートフォンを取り出した。

 ロック画面を解除する間もなく、緊急通報の画面から119に発信する。

 電話はすぐに繋がり、オペレーターが『火事ですか? 救急ですか?』とマニュアル通りの質問をしてきた。


「救急です。あの、子供がマンションから飛び降りて…………早く! お願いします! ……呼吸が浅いんです! まだ意識はあります! でも……きっと肺が……」


 洋人の申告な状況を伝える度に、由美の目から涙が零れ、手が震えた。片手でスマートフォンを支えることが出来ず、由美は必至になって両手で握り締め、オペレーターに救急車を出動するよう必死に訴えかける。

 このままでは洋人は死んでしまう。洋子からバトンを受け継いだ大切な命が、今まさに由美の目の前で消えようとしていた。苦しそうに短い息を繰り返す洋人に成す術もなく、由美は泣くことしかできなかった。


『怪我をされたのはあなたのご家族ですか?』


「そうです」


 答えた由美の目からボロボロと涙が零れる。

 でも、違う。

 と、心の中で誰かが呟いた。

 自分はやっぱり、母にはなれなかった。

 何一つ守れない、何ひとつ救うことも出来ない自分に、母を名乗る資格などない……。

 パニックに陥った由美は、頭が真っ白になって、この先どうすればいいのかさえ分からなくなってしまいそうだった。

 ——その時、


「お母さん……お母さん‼」


 挫けそうになる由美の頬を引っ叩くようなオペレーターの声がした。

 由美の弱音を一蹴してしまう力強い声だった。

 自分のことをまだ『母』と呼ぶ人間がこの世にはいるのか?


「いいですか、落ち着いてよく聞いてください。すぐに救急車が駆け付けます。そちらの住所は分かりますか?」


「はい」


 そうだ。この命を守れるのは、自分以外にはいない。

 諦めかけていた由美の目に再び光が宿った。

 ゆっくりと深呼吸をして、涙を拭った後、スマートフォンをスピーカー通話にして地面に置く。

 身体の震えが止まる。

 由美は、医療従事者としての使命と誇りを取り戻した。

 住所を伝えながらうつ伏せになった洋人の体勢を変えると、一際苦しそうなうめき声を上げて洋人は意識を失った。制服ベルトを緩め、ブレザーとシャツの前を開き、アンダーシャツは力ずくで引き裂いた。

 オペレーターの質問に答えながら、自分が医療従事者であることを告げ、バイタルの他、触診で判断できる範囲で洋人の状況を伝える。テレビドラマなら颯爽と現れた医師が見事な手腕で命の危機を救うのかもしれないが、今の由美は聴診器すら持ち合わせてはいなかった。救命救急での勤務経験もなく、医師免許も持たない産婦人科勤務の助産師だ。だとしても救急隊が到着するまでの間、自分にできる最大限のことを全力でやるだけだと心に固く誓う。

 地面に叩きつけられていれば間違いなく洋人は即死していた。

 このタイミング、この瞬間ここに帰れたことも、不便な機械式の駐車場しか宛がわれなかった寂しい過去も、今では神様に感謝したいぐらいだ。


 血の繋がりがなんだ。

 誰がなんと言おうと、洋子からバトンを継いだ自分はこの子の母親だ!


 由美は少しでも洋人の呼吸が楽になるように横臥の態勢を取らせながら、唇を噛む。

 思えば洋人を受け止めるのは、これで二回目だ。一度目は羊水と胎脂に塗れた輝くような命だった。その命の重さはいつだって、何歳になったって死ぬまで変わることはない。


「洋人君、しっかり!」


 貴方の命は絶対に守る。

 何としてでも繋いでみせる。

 母の矜持と医療従事者としての強い意志を込めて洋人の名を呼ぶ由美の元へ、遠くで響くサイレンの音が運ばれて届いた。

 

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