第−話 捨てる紙あれば拾う紙あり

「あ、いたいたぁ。みーつけた」


 荒唐無稽な甘ったるさを纏った声がして誠は思わず足を止めた。ネットワークセンターにもアニメ声の社員はいるがそれとは違う、媚びっ媚びで粘っこい害虫駆除の粘着シートのような声だ。

 罠にかかるように後方を振り返ってしまった誠は、声の主の姿を認めた直後、心の底から後悔し、今すぐダッシュでこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。


 入社から約一年。ようやくこの生活にも煩わしい人間関係にも慣れつつある今日この頃。施設を出た直後は自分の生活に手一杯だった誠も、半年が経過した所でようやく弟を引き取る算段がつき、新たなスタートを切っていた。

 弟の世話を再開して痛感したのは、やはり育児をすることの大変さだった。身体が弱く生活能力も低かった乳幼児期とは違い、五年生にもなればみのるも自分のことは自分で処理するだろうと楽観的に考えていたが、それは甘い考えだった。誠が住む自治体では学童保育は小学校四年生までという規定があるため、みのるは引っ越し後から鍵っ子になり、施設に居た時のように世話する人間がいない環境下もあって、やりたい放題の怠け放題だ。

 誠が帰るまでの間、宿題でも終わらせておけばいいのに、お菓子を食べながらダラダラ録画したテレビアニメを見続け、掃除もしない、片づけもしない、手伝いもしない。そのくせ、寂しさの反動故か帰宅したばかりの誠になんだかんだと話しかけて邪魔をする。

 全く楽になる気配のない育児。二人で生活していくためにはお金が必要で、誠は家庭の事情を理由に夜勤の回数を減らしてもらいながら、必死で働いているというのに、弟の能天気さに腹が立つのも毎度毎度のことだった。


 学校に行ったら行ったで、容姿と年齢のせいでやたら興味を持たれてしまうし、PTAの集まりに参加すれば、皆暇人か!? と思うほどに、非効率な会議が繰り返される。

 どうしてこんなことをしなければならないのか、誠にはさっぱり理解できなかったが、こだけの人数を前に悪目立ちするわけにもいかず、周囲に溶け込む努力をしながらじっと口を噤んで時間が過ぎるのを待つことしかできなかった。

 不満はあれど、世間様が目を背けるような事件を起こした家庭である。おいそれとは口にできない。両親がいない、施設育ち……そんな生い立ちだけで人を判断する人間はわんさかいる。

 最低限の協力姿勢を見せ、波風を立てずにこの場をやり過ごせるならそれでいい。 それもこれも全てみのるのためだ。

 誠はそう思っていた。

 とにかく、自分が頑張って追いつくしかない。もう、普通には戻ることができないのだとしても、より『普通の家庭』に近付くように。

 負債を背負った誠に出来ることは、実だけでもゼロリセットの世界に押し上げてやることだけだった。

 ……しかし、人生には思いがけないバグが発生する。


「星野くぅ~ん」


 廊下の向こうから現れたブリブリしたスーツ姿の女性に誠はドン引きした。艶々の赤いリップにどぎつい香水。リノリウムの床に突き刺さりそうなピンヒールの靴には淡いピンクのリボンが付いている。

 爪先と踵にはどれほどの負荷がかかっているのだろう。

 女性の足ではなく、見事に発育したその足を支えるピンクの靴を見て誠はそんなことを考えた。


「ども」


 小走りにやってきた女性にペコリと頭を下げる。

 社会人一年生。今まさに、お金を稼ぐことの大変さを実感しながら働いていた誠は、同時に世の中の理不尽を改めて痛感した。

 仕事はどうした?

 心の中で目の前の女性に問いかける。

 奧枝美保子と面と向かって会話をするのはこれで二度目のことだが、未だに何の業務をやっているのか誠にはさっぱりわからなかった。

 入社式の直後、誠が企業パンフレットのモデルに抜擢され、社内で写真撮影が行われる間、彼女はずっと立ち会っていた。てっきり広報課の人間だと思っていたが、実際は経理課に在籍していて、理解に苦しむ誠に先輩社員が告げたのは、彼女が会長の孫娘だという事実だった。彼女だけは治外法権、特別法規の中で動いており、どこへやっても面倒だから経理一課が面倒を見ているのだと説明された。

 世の中にはびこるコネ入社の実態を知り、誠は愕然とした。一人欠けても仕事が回るということは、結局のところ経理課は余剰な人員を抱えているということで、美保子に人件費を支払うぐらいなら、自分の給料を上げてくんないかな、なんて考えが誠の脳裏を掠めた。


「よかったぁ。これね、今日刷り上がったから、一冊持って来たんだ」


 女史はそう言って、胸に抱いていた紙袋を誠へと差し出した。


「はい、どうぞ」


 にっこり笑ったアヒル口の笑顔も、上目遣いの瞳も隅から隅まで計算し尽されたように完璧な角度なのに、何故か誠の背中にはゾワゾワと悪寒が走る。生理的に受け付けない、という言葉が身体の感覚として理解できる。


「ど……どうも……」


「星野君、もし良かったら、今度一緒にご飯でも……」


「すみません。早くしないと弟が待っているので、失礼します」


 パンフレットを受け取った誠は、バッグを肩からかけ直しながらペコリと頭を下げ、その直後、間髪入れずに踵を返した。


「え? えぇっ!? ちょっと待っ……」


「あの、夕飯の買い物もしないといけないので……失礼します」


 振り返りながら、もう一度頭を下げ、足早にその場を立ち去った。


********


「ったく、ふざけんな、っつーの!」


 最寄り駅までやってきた誠は手にしていたパンフレットをパラパラと捲った。フラッシュ演算のように目まぐるしく切り替わるページのある部分に自分の姿が掲載されている事を確認し暗澹たる気分になる。こんなものが世の中のリクルーターに配布されるなんて、まるで地獄のようだ。変な女には目を付けられるし、社長の依頼でなければ絶対に断っていた。

 駅の構内にあるゴミ箱に冊子を捨ててしまおうと、一度は進路を変えてはみたものの、まだこのパンフレットが公開前の品物であることを考え、公の場で捨ててしまうのはマズいと、その考えを却下する。

 大人しく電車とバスを乗り継いだ誠は、美保子に宣言した通り、スーパーで買い物をした。こいつ、こんなに食うんだっけ? と思うほど食欲旺盛な実の胃袋を満たすためには、とにかく質より量の食事である。今は自分のお金で、栄養のあるものを買える。それだけでもマシになったとそんなことを感じながらスーパーを後にした。重量感のある買い物袋を自転車のカゴに入れ、T字路あるごみ収集場を通りかかった誠は、そこでブレーキを引いて停車した。自宅アパートはもう目の鼻の先に見えている。その前にパンフレットを捨ててしまおうと、スタンドを立ててカゴにあるパンフレットに手を伸ばそうとした時だった。


「あら、こんにちは」


 背後から声を掛けられて、誠は思わず背中を竦めた。


「どうも」


 パーマを当てた六十代と思しきオバさんがチワワを繋いだリードを持って立っていた。三方向に伸びたルートのアパートとは反対に伸びる道から、こちらへとやってきたおばさんは、電柱の周辺に貼られた青いネットの中にゴミ袋があることを確認すると途端に眉を顰めた。


「まぁまぁまぁ! ゴミ出しは明日なのに、なんてことかしら」


「いや、そうっすね……俺も今それに気付いて……」


 誠は途端に態度を翻し、彼女の会話に合わせるように頷いた。白と黒のチワワが誠の嘘を嗅ぎまわるように、さっきからしきりに足元を嗅ぎ回っている。

 このおばさんはマエダさんといって、この地区の組長だ。町内会に参加しない世帯に難色を示したり、細々としたルールに煩く、誠が済むアパートの住人にも煙たがられていた。

 近所の住人の批判と噂話が大好きな困った女性で、誠自身、引っ越し当初「ホストが住んでいる」とあらぬ噂を流されたことがあった。夜勤明けにコンビニの袋を下げて帰宅した誠を見て彼女が勝手に勘違いしたのだ。


「本当に、こういう人がいるから困るのよ。全く……看板にちゃんとゴミ出しは当日の朝にって書いてあるのに、ねー?」


 自分の困った性格は棚に上げたまま、マエダは首を傾げて誠に賛同を求めてきた。

 ホストがいると噂を流された誠は、それから夜勤明けに制服のまま帰宅する生活を続けた。その計略は見事に的中し、マエダと挨拶を交わすことがあった翌日から、その噂はパタリと聞かなくなった。


「ですねー……。あ、では、俺はこれで」


 誠はマエダに別れを告げ、犬の足を踏まないように、自転車を押してその場を離れる。

 またしてもパンフレットを捨て損なってしまった誠は、仕方なく家へと向かった。モデルをやったなんて実に知られたくなかったので、できればパンフレットは持ち帰りたくなかったが、仕方がない。


「ただいまー」


 ボロアパートにたどり着き、誠は靴を脱ぎながら先に帰宅しているであろう実に声を掛ける。そのまま台所に向かい、テーブルの上に買い物袋を置いた後、腋に挟んでいたパンフレットを手に、流しの横にある蓋付きのゴミ箱をパカッと空けた。


「…………」


 しかし、そこにあるべきはずの物が見当たらなかった。

 朝まではあったはずのゴミがそこにはなく、次のゴミ袋すらもセットされてはいなかった。


「お帰りー。誠……」


 ガラガラと誠の部屋の扉が開いて実が姿を現した。

 実の背後からピコピコというゲームの音楽が聞こえてくる。


「ゴミは?」


 宿題やったのか? といういつもの質問をするより先に、誠は尋ねていた。


「え? 捨てたよ。明日の朝出すの大変じゃん」


 あのゴミはお前の仕業だったのか……?

 誠は軽い頭痛を覚えながら、実を睨む。

 ちょっと早めのゴミ捨ては百歩譲って許すとして、ゴミを捨てたのなら次のゴミ袋をセットするのがルールだ。トイレットペーパー然り、シャンプーもボディーソープも、各種洗剤も、ぜーんぶぜーんぶ同じことだ!


「ねぇねぇ、それよりこれ、今出てきてさ……」


 沸々と苛立ちを募らせる誠に、能天気な実が、ほいっとアコーディオンカーテンみたいになったプリントを差し出した。


「何だよ、これ…………?」


 もはや、嫌な予感しかしない。

 扇子のように蛇腹折りになったプリントを開いてみると『来週の図工の授業はストローを使うので持ってきてください』という一週間前の日付が入ったお知らせだった。

 何故もっと早く知らせないっっっ!?

 たった今、スーパーに寄ってきたばかりなのに‼


「お前はっっ…………」


「いってぇー……! いきなり何する…………あ、ああああああ!」


 誠は握り締めていたパンフレットでバシッと実の頭を叩き、それでも抑えることのできない怒りを抱えたまま、ゲームが付きっ放しの自室へ向かった。押し入れの前にあった段ボールにパンフレットを叩き込むと、実が遊んでいたゲーム機の電源をブチブチと切る。


「うるせぇ! 帰ったら鞄の中身全部出せっつったろーが! 何回言ったら分かるんだよ、このすっとこどっこい!」


 実を叱りながら再びダイニングに戻ってくると、買い物袋を指さし、


「もう一回スーパーに行ってくるから、お前はあれ全部冷蔵庫に入れろ、このバカ!」


 命令すると、バッグだけ持って再び玄関に向かう。


「何だよ、そんなに怒ることないじゃんかぁぁぁぁぁ」


 頭を押さえる実の目に見る見る涙が溜まっていくが、知ったことではない。

 うわーん、と泣き出した実を無視して靴を履いた誠は去り際に、もう一度振り返り、「ゴミ袋もセットしとけよ!」更なる注文をつけてから外へ出た。


 本当に、どいつもこいつも…………。


 意味不明な社員に、噂好きのおばさん、無能な弟へのイライラも含めて、憤懣やるかたない様子で自転車にまたがる誠。

 その時段ボールに放ったパンフレットが、十数年の時を超えて自分の役に立ってくれることを、この時の誠は知る由もなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る