第2話 知者は水を楽しむ

「お前太った?」


「え?」


 突然の誠の言葉に洋人は内心ドキッとした。

 誠の指摘通り、ここ最近飲み会続きで何となくそうかもしれないと自分でも思うところはあった。


「最近肉付きが良くなったような……」


 そう言いながら誠は不躾に洋人の腹をぎゅっと摘まむ。例え洋人が男性で、誠の恋人だったとしても、人の身体的特徴について言及するのは間違いなくセクハラだ。配慮のない誠の行動に洋人は思わず悲鳴をあげた。


「うわぁ! やめてくださいよ!」


 クーラー全開の室内。熱効率やその他諸々を考えてぴっちりと閉められたカーテンは、完全遮光とまではいかないまでも強すぎる太陽を三分の一程度に抑えてくれている。

 仰向けの洋人が攻撃から逃れようと身を捩ると今度は誠が声を荒げた。


「ああっ! 動くな、洋人」


「……だったらこんな時に変な事言わないでくださいよ!」


 薄暗い光の中、頭上から覗き込んでくる美丈夫を睨みつけ、洋人はペチっと剥き出しの太腿を叩く。


「いや、俺はどっちでもいいんだけど……。山﨑さん……旦那のだけどさ、見た目あんな細いのに最近腹出て来たとか言ってるらしくて」


 誠はそう言いながら乱れた髪を掻き上げる。

 こんなにクーラーが効いているのにその首筋には大粒の汗が浮かんでいる。少しでも長くこの時間を愉しむための休息なのか、まだ落ち着かない呼吸を整える為の猶予だったのか、突然贅肉の話をされた洋人は興ざめもいいところだった。


「え? ……あっ…………」


「……四十過ぎると本当に体重落ちなくなるらしい。あ、でも安心しろよ。俺、お前がどんだけビール腹になっても全然イケる気するわ」


 呼吸に合わせて起伏する洋人の白い腹を見ながらいたずらっ子のように笑って、誠は止めていた動きを再開した。


「……んっ。まことさ……っ……や……嫌です……!」


「え? どっちが?」


 満足そうに洋人の体を引き寄せた誠は深く内側を抉りながらも、要所を避けるもどかしい動きで更に追い討ちをかけてくる。こんなに身体はトロトロなのにあと一歩というところで決定打を打ち込まない誠のせいで、洋人の腹の奥の熱は凝って大くなるばかりだ。


「ぅ……ぁあっ…も……早く…………アタマ、おかしくなる……」


 洋人は眦に涙を浮かべながら降参し、プライドをかなぐり捨てて誠の首っ玉に両腕を回した。


 連日の飲み会でビールばかり飲んでいた洋人とは違い、誠の体型は全く変わらない。筋肉質ではないにしろ、痩せているとも太っているとも言えない体型だ。

 飲み会にも参加しない。友人と外で外食をすることも滅多にない。そんな生活だから体型も変わりようがないのは解るが、それでも食べる量は誠の方が断然多い。十センチを超える二人の身長差を差し引いたとしても、摂取カロリーは多めなのだ。ちょっと不摂生が続いただけで如実に体形に出てしまう洋人は、食べても変わらない誠の体質が羨ましくもあり、不思議でもあった。


 全てが終わり、シャワーを浴びて一息つきながら「どうしてそんなに体形が変わらないのか」と誠に尋ねたら「身体動かさない分、頭を使っているから」とこれまた憎たらしい答えが返ってきた。そして、面白半分の誠が再び腹の肉に手を伸ばしてきたので、洋人はそれをペチッと叩き落として宣言した。


「僕、プールに行きます」


 何事かとポカンと口を開けた誠の前で、洋人は早速クローゼットの中からビニール袋を取り出した。一昨年同期と海に行った際に購入した水着やそのほかの海遊びグッズを収めたものだ。今の勤務地の真ん前が海なせいか、昨年はとうとう一度も海に行かないまま夏が終わってしまった。

 クローゼットから水着を出すのは二年ぶりのことではあったが、床に広がるマリングッズを眺めた誠は、腕組みをして何やら思案した後、いきなりダメ出ししてきた。


「この水着はダメ」


「普通の水着じゃないですか」


 そこにあるのは何の変哲もないトランクス型の水着だ。プールに行けば七割ぐらいの男性が似たような物を着てそうなぐらい、ありきたりなデザインである。


「ラッシュガードは?」


「市民プールですよ? 必要ないでしょ」


「仕方ない。新しいの買いに行こう」


「……どうしてそういう結論になるんですか?」


「どうしても」


 そんなこんなで、誠と共にショッピングモールへ出かけ、洋人は新しい水着を購入した。上下セットになった見るからにフィットネス専用の水着だ。上は袖付きだし、下も太腿が隠れるぐらいの長さがある。何を持って誠がその水着を選んだのかは知らないが、本気で痩せるならまず形から入れということなのかもしれないと洋人はその指示に従った。

 そして、何故かそれに便乗して水着を購入した誠の方は、洋人に散々ダメ出ししたトランクス型のもので、もちろんラッシュガードなんてものは買ってない。


「うーん……問題なさそう。OK。じゃ、頑張れよ」


「ちょっと待って下さいよ」


 市民プールは丁度夏休み期間で、屋外の子供向けプールも開放されていた。洋人が持っていた海グッズの中から浮き輪を横取りした誠は、室内プールのスイミング専用レーンに人がいないことを確認すると、洋人を残して屋外プールへ行こうとする。


「なに?」


「何なんですか、これは?」


「これは、って?」


「誠さんも一緒に泳ぐんじゃないんですか? この前から変ですよ。新しい水着買わせたり……」


「俺、別に痩せたいわけじゃないもん」


「それはそうかもしれませんけど……」


 一緒にフィットネスをするデートじゃないのかと不満をぶつける洋人に、誠は真顔で言った。


「こういう場所って意識高い系のオッサン多いじゃん?」


「…………そうですね」


 ひょっとして嫌味を言われているのか?

 それとも遠回しな批判?

 意識高い系と言われれば洋人は間違いなくそっち側の人間だが、上昇志向が強いことは恥ずべきことではない。そしてそれを他人に強要したりひけらかすこともしないように、いつも注意はしているつもりだ。ただ、ほんのちょっと……ちょーっとだけ、誠と一緒にプールでデートできたらいいなと思っただけなのだ。


「だから」


「へ?」


「だから、だよ」


 誠はそう言って、さっさと屋外に消えてしまった。


「意味がわからない……」


 プールサイドで準備運動をしながら、洋人は一人毒づく。

 室内プールの洋人には上着の着用を命じ、屋外で遊ぶ誠は上半身裸だ。誠は浮き輪に乗っかって泳ぐでもなく、歓声を上げる子供たちに混ざってプカプカ浮いている。


「ねぇねぇ、あの浮き輪の人ヤバくない?」


「ヤバいやばい。気絶しそうなぐらいカッコいい! あっち行きたいけど、恥ずかしくて行けない~」


 プールサイドの女性たちが、きゃぁきゃぁ騒ぎながら洋人の脇を通り過ぎて行く。

 何が起こっているのか確認するまでもない。誠はゴーグルも付けてはいない。髪をぴっちりと仕舞い込んだ水泳帽姿は、普段は前髪で隠れている秀逸な顔を惜しげもなく晒すことになっている。

 誠は一体何のためにここに来たのか。

 それからも洋人はプールに通い続けた。時間が許せば誠も洋人に付き合ってプールに通った。そして、プール通いの効果を確認するとかなんとか、いろいろな口実をつけてプールが終わった後は必ずと言っていいほどをされることになった。


 そんなこんなもあってか、一ヶ月が経過する頃には洋人は元の体重と体型に戻っていた。ストレス解消にもなるし、体力も付いたし良いこと尽くめのプール通いをこのまま習慣化してもいいとさえ思っていたのだが、たった一つ気に入らない出来事があった。


「星野さん、随分日に焼けましたね?」


「うん。プール行ったから……」


 洋人に付き合ってプール通いをした誠は、屋外にいたためこんがりと日焼けしていた。洋人に付きあう程度だったので、小学生のように真っ黒になることはなかったが、室内にこもりっきりで生白かった肌は健康的な色に変化していた。

 そして、プカプカ浮いて運動らしい運動もしてないくせに、が効いたのか腿や腹が以前より引き締まった感がある。


「やだぁー。惚れ直しちゃいました」


「男っぷりが上がってますよ。それ以上カッコよくなってどうするつもりなんですか?」


「私もプールに行こうかな〜」


 昼休憩の終わり、廊下の真ん中で受電チームの若い女の子に捕まり、苦笑いを浮かべる誠を見ながら、洋人は釈然としない気持ちを抱えていた。

 この現象は職場ここに限ったものではなかった。洋人が通っていたプールの方も、途中から女性の利用客が増え、誠が警戒していた『意識高い系のオッサン』はすっかり鳴りを潜めていた。

 何故こうなる……?

 否、確かに、太陽の匂いがする健康的な肌はより一層魅力的ではある。プールの後でぐったりした身体にジリジリと焼けるような誠の肌が重なると、普段にも増して洋人の感覚は鋭敏になり、感度も増した。散々乱れた後に抱き合ったまま二人で昼寝をするのは、すこぶる健康的で気持ちが良いという思わぬ副産物もあったりはしたのだが、レベルアップした美男子の魅力にメロメロになっているのは洋人だけではなかったようだ。

 やっとの思いで元の体型を取り戻しておいてなんだが、早くもやけ酒に手を出してしまいそうだ。そんな予感を胸に、洋人はポケットにしまっておいたセキュリティカードを取り出して誠を取り囲む女子の輪に近づく。


「星野さん、遊んでないで仕事してくださいよ」


「今、休憩中」


「では、休憩室へどうぞ。そこにいたら邪魔ですよ」


 立っているだけで無条件に女子を呼び寄せる困った体質はどうにかならないものだろうか。

 憎まれ口を叩く誠を冷静に睨むと、洋人は黄色い声を上げる女子を蹴散らすように集団の中に割って入り、壁に設置されたカードリーダーに手を伸ばした。

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