【BL】神と悪魔の四方山話

畔戸 ウサ

第1話 エスケープ……の翌朝は

「……え? その格好で行くんですか?」


 真っ当と言えば真っ当。極々当たり前の質問を口にした洋人を、誠はキョトンとした顔で振り返った。


「え? この格好以外、一体何を着て行けばいいんですか?」


 質問した洋人と全く同じ口調で返した誠はTシャツにジャージという、完全休日スタイルだ。それでいて、寝不足の洋人を叩き起こして一緒に朝食を摂っていたのだが、出勤時間はもう目前に迫っている。

 誠に付き合って早起きした洋人は寝ぐせ頭のまま、まだ半分しか目が開いてない状態でノロノロと昨日購入したコンビニのおにぎりを齧っていた。目の前でせかせかと倍速で動き、歯磨きを終えたはずの誠が待てど暮らせど一向に着替える素振りをみせなかったことで、ようやく覚醒したらしかった。


「あるじゃないですか。スーツが」


「いやいや。シャツが汚れてるじゃん」


「何で洗ってないんですか?」


「そんな暇なかったもん」


「あったでしょ。僕が帰るまでに」


「どうせネクタイも皺々だし……」


 ほら、と誠が指さしたベッドの上には、一体何回使ったんだ——ではなく、一体使と思われるほど皺だらけのネクタイが二本あった。一本は洋人の物。そして、もう一方は現在誠の所有となっているネクタイだ。昨晩はこのネクタイのお陰でいつもより刺激的な夜を過ごすことが出来た。

 誠の視線を追ってベッドを見た洋人の頬がほんのりと赤く染まる。寝ぐせで頭はぐちゃぐちゃ、あれやこれで目尻も赤い洋人は、普段会社で見せている寸分の隙もない完璧な営業マンの格好からは想像もつかない程だらしなく、しどけない姿をしていた。


「ネクタイはしなくても……クールビズだし」


 そこまで言いかけて、洋人は何かを思いついたように顔を上げた。


「ってゆーか、誠さんは、会社で作業着に着替えるじゃないですか」


「うん。だからこの恰好でもいいじゃん?」


 全く……。ああ言えばこう言う。

 洋人は半眼で誠を睨む。衣装持ちの洋人は服に対するこだわりが随分強い。曰く『営業にとって服装や身だしなみは大事な武器の一つ』であり『場所や相手、そこに呼ばれた理由なんかも含めて総合的にコーディネートすることが相手に対するマナー』なんだとか。


「靴、革靴ですよね?」


「そうだけど、それぐらいいいじゃん」


「良くないですよ」


「…………じゃ、下だけ着替える」


 渋々といった体で脱ぎ捨てられたスラックスに伸ばそうとした誠の手を、洋人がガシっと掴んだ。


「待ってください! 下だけ着替えるっておかしいでしょ?」


「え? そう?」


「『そう?』じゃないですよ。どうしてそんなケンタウルスみたいな恰好が許されると思うんですか?」


「ケンタウルス?」


 なんだか妙な理論を展開し始めた洋人に、誠は眉を顰めた。


「そうですよ」


「……って、あのギリシア神話に出てくる、下半身が馬の?」


「そうですよ。ケンタウルスが嫌なら人魚でもいいですけど」


 どちらにしても、半人半獣というわけですか。


「いやいやいや。お前が言っている意味が分かりません」


「半分ビジネス、半分カジュアルって、完全にケンタウルススタイルじゃないですか?」


「スーツにTシャツを合わせることだってあるだろ?」


「ありますよ。Tシャツが無地なら僕も考慮します。でも、そんなカエルがプリントされたシャツなんて論外です。とにかく着替えてください」


 あー、面倒くさい。

 経営計画発表会のスーツを選ぶ時もそうだったが、洋人は着る物に関して喧しい。洋人が言った通り、会社に着けば誠は作業着に着替え、その恰好で仕事をする。この服装が変だと言うのであれば、帰りはそのまま作業着で帰宅することだってできるのだ。別に裸で出勤するわけでもないのに、なぜそこまで服にこだわらなければならないのか。誠には理解できなかった。

 とは言え、このまま洋人に付き合っていたらバスの時間に間に合わなくなってしまう。

 誠はどう言い訳をしようかと悩み、視線を自分の胸元に落とすと、鳥獣戯画のカエルの絵と共に洋人の家の匂いがした。

 Tシャツの裾を掴んでいた洋人の手を取り、誠はまっすぐに恋人の顔を見つめる。

 洋人の手首には薄っすらとネクタイで縛られた痕が残っていた。


「…………お前の匂いがする方がいい」


「えっ……?」


「全身お前の匂いに包まれたまま会社に行きたい」


「えっ? ええっ!?」


 昨晩、ちょっとしたお仕置きのつもりでネクタイで緊縛したら、思いの外洋人が良い反応を見せたので、誠はそれに気を良くして床に落ちていた自分のネクタイで目隠しをした。洋人は「誠の顔が見えない」と嫌がったが、両手を縛られた状態で抵抗することは出来なかった。

 視覚を奪われ、何をされるのかとビクついている洋人の感度はいつも以上に高まり、誠が悪戯をしかける度にその身体はグズグズと溶けていった。洋人が音を上げる頃には誠の理性も振り切れ、汗だくになりながら迎えた絶頂は筆舌しがたいほどの快楽をもたらし、それだけでは二人とも止まることができず、今度は目隠しを取って二度目に突入した。


 今日、洋人の家には妹が来る。

 痕を残すなときつく言われたが、洋人の胸や腹や、内腿には誠が残したキスマークや愛咬の痕が散らばっている。


「じゃ、行ってきます」


「あ……ちょっと! 誠さんっ……‼」


 一瞬の隙をついて洋人にキスをした後、誠は玄関をすり抜けて廊下に出た。

 爪先に靴を引っかけ、ボディバッグを斜掛けにしながら、誠はエレベーターを待つことはせず一直線に階段へと向かう。慣れない靴で階段を駆け下りていると、ピロリとバッグの中でスマートフォンが音を立てた。

 建物の外に出て、バス停までの裏道を歩きながら誠はスマートフォンを取り出した。メッセージの送り主は案の定、洋人だった。


 ——今度、予備の着替えを一式持ってきてください。ウチで保管します——

 

 ——そっちの服は僕の部屋着にするので洗濯して誠さんが管理してください。仕事頑張ってくださいね——


 誠はクスっと笑ってスマートフォンをジャージのポケットに押し込み、バス停への道を急いだ。

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