第3話 8月某日 実の相談
誠はとんでもなく頭が良くてカッコいい、自慢の兄だ。
壊れた玩具もちゃっちゃと直すし、数学の問題なんてどんなに難しくてもあっという間に解いてしまう。昔から女の子にモテモテで、バレンタインの日には他所の学校の女の子が押しかけてくるので、辺り一帯の学校で二月十四日のチョコレートの持ち込みが禁止されたほどだ。高専に行くとたちまち男子からも支持を得て、誠の人気は不動のものになった。
そんな男を兄に持つ実はいつも鼻高々だった。
運動会に誠がやってこようものならたちまちクラスメイトに取り囲まれて、昼時には小さな弁当しか持参できなかった二人に色々な差し入れがもたらされた。
実はとにもかくにも誠のことが好きだった。頭や顔が良いことはもちろんだが、ハチャメチャなことをやっているところも、クラスメイトに『神』と崇められている姿も、何もかもが実には誇らしくてたまらなかったのだ。
兄はいつもキラキラしていて周りの人間とは異なるオーラを放っていた。そして実にはいつでも優しかった。物心ついた時には施設で育ち、両親の顔すら知らずに育った実にとって、誠は唯一の肉親であると同時に絶対的に信頼できる唯一の人間だったのだ。
しかし、誠が成長するにつれ、徐々に行動が怪しくなっていった。
それに気付いたのは、実が小学校三年生の頃だ。ある日の下校途中、実は誠がクラスメイトと思しき男と一緒に歩いている姿を見た。背の高さは誠とそれほど変わらなかったが、線の細いもやしのような体形の学生で、柔らかそうな髪が襟足にかかっていた。一瞬女性かと思ったがそれは男性で、二人が互いの名を呼び合っていることに実は少しだけ驚いた。
誠は施設でも名前で呼ばれている。日常茶飯にその光景を見ていたはずなのに、実は自分が知らない兄の姿を見たような気がしてショックを受けたのだ。
「ああ、この子が?」
「そうそう。弟」
誠が頷くと、その男は実と視線を合わせるように膝を折って『こんにちわ』と挨拶をした。
全く面識のない人間に親し気に声を掛けられ、不安を覚えて見上げると誠は『ちゃんと挨拶しろ』と実を叱った。それから、実の存在などまるでなかったように、二人は二言三言会話を交わしてから別れた。去り際に、バイバイと小さく振られた白い手が、誠の手を掠めて行った時に、実が抱いていた不安は嫌悪感に変化したのだ。
あれは誰だと聞いても、誠は「クラスメイト」としか答えない。でも、二人の間に漂う空気にただならぬものを感じた。
その日の夜、誠と一緒に風呂に入った実は、服に隠れた兄の肌の上にいくつも赤い痕が残っていることに仰天した。何か悪い病気にかかってしまったのではないかと心配していると誠が「虫に刺された」と言ったので、実は風呂上りに薬を持っていったのだ。それが何だったのか……答えは、同じ施設で生活していた血の繫がらないお兄ちゃん達の口から語られた。その日実が見た一部始終を告げると、お兄ちゃん達は『さすがー! やるねぇ、誠』と言ってニヤニヤ笑い口笛を吹いた。
そんなこんなでクラスメイトよりも一足先に性教育を受けることになった実は、誠の身体に散りばめられた赤い痕の理由も、誠がクラスメイトと何をしていたのかも、親切なお兄ちゃん連中から事細かに教わった。自分の腕を口で吸ってみろ、と言われてその通りにすると、確かに自分が見た通りの痕が出来る。誠が突っ込んでいたのか、突っ込まれていたのかは知らない。でも、自分の知らない誠を独り占めしている人間がこの世にいるのだと思ったら、実の中にメラメラと嫉妬心が芽生えてきた。
実は兄を奪われてたまるかと、誠の変化を敏感に察知するようになった。誠が就職したタイミングで施設を出ることが決定し、今まであれこれと世話を焼いてくれた人々と別れてしまってからは、その寂しさもあって実は一層兄の動向に注意を払うようになった。誠はギリギリまで実との時間を優先してくれはしたが、夜勤の時は一人で不安でたまらなかった。そして、そんな合間にも謎の人物を家に連れてくることがある。実だって誠と遊びたいのに、そいつらがやってくると、誠はお前はゲームでもしてろ、といつもは絶対に貸してくれないゲーム機をあっさり手放して部屋に籠ったきりなかなか出て来なくなってしまうのだ。
「へー……それで、みのっちは誠さんの邪魔するようになったんだ?」
目まぐるしくスクロールするテレビ画面を見ながらコントローラーを握るのは、実のバイト仲間の鈴木だ。
「てか、誠さんかわいそー」
ケラケラ笑いながらビールを一口飲みつつ、巧みにレーシングゲームの操作しているのは、同じくバイト仲間の佐藤だった。
「でも、そう考えるとヒロトさんはすごいよね」
床に置かれたスナック菓子に手を伸ばし、レモンサワーを飲んでいるのは、三人のゲームを見守る紅一点の山田である。他のバイト仲間の女の子は誠を見た途端、目をハートにして実にすり寄る姿勢を見せたが、彼氏と同棲中の山田だけはすぐに誠の美貌に対する免疫を獲得した安全パイだった。
「すごかねーよ。全然。あいつも今までの恋人と変わんねーって」
「とか言いながら、もうだいぶ長く続いてんじゃん?」
「だよね。付き合い出したの去年?」
「いや、その前じゃね? みのっちあん時まだ高校生だったじゃん」
「あー。そうだ、そうだ。俺の受験邪魔する気かってよく言ってたよな」
「受験も何もお前専門学校じゃんって」
佐藤の言葉に、バイト仲間たちが一斉に笑った。その声に反応したかのように、実が操作していたゲームキャラクターは、コースを外れてスリップした。
「るせーよ」
実はギリギリと唇を噛み、再びコントローラーを握った。
昨夜、またあいつがやってきた。この二年、戦い続けて排除できなかった前代未聞の強敵『満島洋人』だ。ニコニコと笑みを浮かべ、人畜無害の自分をアピールする。誠のことを『さん』付けで呼ぶ、優しい声と穏やかな表情は、今まで出会った敵の中でも随一の胡散臭さを放っていた。どうやって誠に取り入ったのかは知らないが、あいつがやって来ると、誠はすぐに実を排除したがり、何なら外に行って帰って来るなとそっけない態度を取るのだ。
実の不在を狙ってやって来たあいつが、誠の部屋から出てくる姿を何度も見た。アパートの前に停まった車に嫌な予感を覚えて慌てて家に飛び込むと、不自然な時間帯にシャワーを浴びた誠が、扇風機の前でシャツをばたつかせながら涼んでいたことが何度もあった。ここ最近、二人はプールに通っているらしく、その主張通り二人分の水着が物干しにかかっているのだが、何故か家でもシャワーを浴びてスッキリした顔している。
プールの後ってそんなものか?
少なくとも実はプールの後に家でシャワーを浴びたことはない。
「なぁ……プールの後ってシャワー浴びるんだっけ?」
「何突然」
「浴びる。浴びる。どこに行ってもシャワーついてんじゃん」
「や、そうじゃなくて、家で」
「え、それ意味ある?」
「もうそれ、風呂でいいじゃん」
「だよな……」
「みのっちは浴びるの?」
「いいや。俺じゃなくて誠が……」
「へー、誠さん潔癖なんだ?」
潔癖? そうだっけ?
いや、自分が知らないだけで、じつはそうだったのかな?
最近、
「そう言えばさぁ、地震あったよな昨日」
「え? そうだっけ?」
「そうだよ。あいつマジで疫病神」
「あいつって、ヒロトさん?」
「他に誰がいるって言うんだよ? あいつに騙されて酒飲んだんだよ、俺」
チュドーンと誰かが放った攻撃がカートに直撃し、実はまたしても派手にスピンしてしまった。
「そしたら、夜中に目が覚めて、部屋がめっちゃ軋んで……結構激しく揺れてんの」
間違いなく、あれは地震だった。
「みのっち、それってさぁ……」
「鈴木、皆まで言うな」
何かを言いかけた鈴木を山田が制した。
「……どんなに待っても揺れが収まらないから、段々怖くなって……ウチのアパート古すぎてマジでヤバいじゃん……?」
「あー……寝てたから私気付かなかったかも」
「夢でも見たんじゃねーの?」
山田の言葉に佐藤が頷き、コントローラーを握る鈴木を見た。
「な? 鈴木もそうだろ?」
「え? あ、うん。そうだね。つか、近くトラックとか通ってたんじゃねーの? お前んちのアパートオンボロだから、ちょっとドシドシしただけで振動伝わるじゃん?」
「えー……そうかな?」
『そうそう』
三人が同時に頷き、首を傾げる実のカートが再びコースを疾走し始めた。
実を除いた全員が、心霊現象のような体験の正体に気付いていた。
ヒロトさん、来てたんでしょう?
それは多分、きっと、おそらく……。
彼らは、星野家の家庭事情を知っても何一つ態度を変えず、実のとの付き合いを続けてくれる貴重な仲間たちである。親友といっても差し支えのない関係にまで発展した彼らとの関係は、これから先、どんなに邪魔をしても決して別れることのない強敵を前に涙を飲む実の心を支え続けるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます